「工藤君」 四月も半ばの月曜日に、前原さんが僕のクラスに顔を出した。彼女は二組で、隣のクラスだった。 「これ、昨日作ったの。よかったら食べて」 可愛らしくラッピングされているのは、クッキーだ。 「あ、ありがとう」 僕が受け取ると、目ざとく見つけた高橋君が近づいて来た。 「何だよ、工藤、まさか、彼女からのプレゼント?」 「ちっ、違うよ」 即答で否定。高橋君の後ろには、秋山君がいる。 「あれ?」 高橋君が前原さんの顔を見て首をかしげると、前原さんも驚いた声をあげた。 「南小の?」 「そう、そうだよな、俺もどっかで見た顔だと思ったんだよ」 そう言って、後ろを振り返る。 「なっ、秋山」 「ああ」 秋山君も、うなずいた。 「へえ、秋山君も、星城に来たんだ」 前原さんが言うと、 「よく入れたなって顔だな」 秋山君は、口の端を上げて笑った。 高橋君がとぼけた声を出す。 「いや、勉強したのよ、俺たち。何しろ、ここで頑張っとけば、大学受験の苦労をしないですむからね」 「それは、正解ね」 腰に手を当てた前原さんが、秋山君を見て言った。 「それに小学生で気がついていた私と工藤君のほうが、もっと偉いけどね」 はっ、と秋山君が吹き出した。 僕は、ハラハラとその様子を見て、そして前原さんはやっぱりすごいと思った。 僕が萎縮して上手く話もできない秋山君と、こんなにも堂々と対等に話している。しかも、久しぶりに会ったばかりなのに。 「それで、前原と工藤は付き合ってるの?」 秋山君の問いかけに、僕は顔に血が上った。 「へえ、秋山君、私の名前覚えてくれてたの?」 それに答えず、前原さんが逆に質問で返すと、 「ばあか、名札見たんだよ」 秋山君が、呆れた声を出した。 前原さんは、ぷっと膨れた。 「で、どっちなんだよ、つきあってんの?」 高橋君がたたみ込んで言うので、僕がもう一度否定することになった。僕なんかと付き合っているなんて言われたら前原さんに申し訳ないし、それにやっぱり、秋山君にそう思われたくなかった。 「違うって……これは、前からたまに、前原さんが作ったときに味見で持ってきてくれるんだよ」 中等部二年のとき同じクラスになって以来、こうやって前原さんは、たまに僕にクッキーやケーキを持ってきてくれた。 「そうよ、だって、工藤君男の子なのに甘いもの好きで、ちゃんと感想も言ってくれるんだもん」 前原さんは、いつもの勝気そうな顔で高橋君を見返す。 「へえ、工藤、甘いもの好きなんだ」 「……嫌いじゃないよ」 秋山君の目が笑った気がした。子供だと思われただろうか。 「嫌いじゃないじゃなくて、好き、でしょ?」 前原さんは、僕の気持ちにお構いなしに言う。 「工藤君が幸せそうに食べてくれるから、わざわざクラス別れても、持ってきてあげているのよ」 「……うん……ありがとう」 それだけ応えるのがやっとだった。前原さんには悪いけれど、早く帰ってほしかった。 「今度、俺たちにも作ってこいよ」 秋山君が、言った。 「どうしようかな?」 前原さんが、片眉を上げる。 その瞬間、激しい嫉妬が心の中に生まれた。 前原さんに、本当に、ここから居なくなってほしかった。 「気が向いたらね」 そう言って、前原さんは僕に向き直ると 「今回のは、オレンジピールをほんの少し使ってるのよ。また、感想聞かせてね」 笑って手を振って、隣のクラスに帰っていった。 「俺たちにも、くれよ」 高橋君が、手を出した。 「ダメ」 自分でも、思ってもみない応えをした。 案の定、高橋君は驚いている。 高橋君にあげれば、当然、秋山君にもあげないといけない。 僕は、前原さんの作ったクッキーを秋山君に食べさせたくなかった。 子供じみた考えだけれど、秋山君と前原さんが、どんな形ででも近づくのが嫌だった。 「けちだな」 高橋君は、そう言ったけれど、それ以上は追及してこなかった。 僕は、もらったクッキーを鞄の中にしまった。 「工藤、帰りにあんみつ食っていかねえ?」 ある日、高橋君がいきなりそんなことを言ってきた。 「あんみつ?」 驚いて聞き返すと、 「え、やっ、お前、甘いもの好きだって言ってたじゃん?」 高橋君は、照れたように笑った。 「それとも、ケーキとかのほうが好きなのか?」 「う、ううん、どっちも、好きだけど……」 (何で?) 僕の気持ちが顔に現れたのか、高橋君は言い訳するように言った。 「いや、俺も、甘いもの好きなんだけど、ああいう店って一人じゃ入りにくいだろ?秋山は、そういうの付き合い悪いし」 その言葉に、安堵と失望が綯い交ぜになった。 (秋山君は、来ないんだ……) 「二人で行くの?」 確かめるように尋ねると、 「嫌か?」 ひどく真剣な顔で、返された。 「嫌ってことは、ないよ」 「よし、決まり。じゃ、放課後な」 高橋君は、八重歯を見せて嬉しそうに笑った。 「クリームあんみつと、この、白玉抹茶なんとかっての」 「二つも食べるの?」 僕が目を丸くすると、 「だって、量、少ないだろ?」 高橋君は当たり前のように言った。 「お前も、二つ頼めよ、今日は俺が奢るからさ」 「えっ、いいよ」 「いいから、いいから、食いきれなかったら、俺が食ってやるよ」 「高橋君、三つも食べる気?」 僕が呆れた声を出すと、高橋君は 「いくらでも食べれるぜ」 はしゃいだ声を出す。 こんな大きな身体で、大人びた顔をしているのに、僕より甘党だ。 なんだか、可愛くなってクスクス笑ってしまった。 高橋君が、不意にまじめな顔で、僕を見る。 「えっ?何?」 「あっ、いや……」 視線を逸らせて、またメニューに没頭する。 (なんだろう?) 気になったけれど、その後は何もなかった。 高橋君は話し上手でちょっとしたことも面白おかしく話してくれるから、僕は、終始笑っていられた。秋山君が一緒の時はいつも緊張しているから、こんな風に高橋君と笑って話すのは、初めてだった。 「なんか、今日、誘って良かった」 帰り際、駅までの道を歩きながら、高橋君が言った。 「工藤、秋山の前だと、なんか大人しいだろ?」 高橋君に言われて、ドキリとした。僕の気持ちが、知られているのかと。 「あいつがいると、あんまり……こんな風に、笑ったりしないもんな」 心臓が、鼓動を早くした。 (僕の気持ちが……秋山君に対する思いが、ばれてる?) 「秋山のこと、嫌いなのか?」 高橋君の問いかけは、一瞬、意味がわからなかった。 僕が秋山君の前で緊張しているのが、逆の意味に取られている。 (ばれていない) ほっとすると同時に、このままばれないように言い訳をしないといけなかった。 「嫌いって言うか……ちょっと……こわい」 「恐い?」 「うん」 これは嘘じゃない。 僕のことを嫌っていた秋山君に、これ以上嫌われたくない。 好きになってもらえなくても、せめて、嫌わないでほしい、そう思いながら接することは、いつもこわかった。何か、失敗するんじゃないかと。あの頃のように、自分の知らないところで、彼をムカつかせる何かをやってしまうんじゃないかと。 それでも近くにいたいという気持ちもあって、高橋君が声を掛けてくれるのをいいことに秋山君の傍にいる。それが僕をいつも緊張させていた。 「そんな……恐いヤツじゃないよ」 高橋君の言葉にはっとした。 「う、うん。わかってる」 僕はとっさに縋るように彼を見上げた。 (まさか、そのまま伝えたりしないよね) 「工藤……」 高橋君が、立ち止まって、真剣な顔で僕を見返した。 さっきの顔だ。 僕も、じっと見返した。何か言われるのだと思った。 けれども、 「や、いいわ、また今度」 高橋君はふいと顔をそむけてまた歩き始めた。 僕も黙って歩いた。 (何だろう?) 高橋君が言いかけたことも気になったし、そして、自分がうっかり言ってしまった一言が秋山君の耳に入らないかということも気になって、その夜は落ち着かない思いで過ごすはめになった。 僕の心配をよそに、その後も、僕たち三人の関係は変わることはなかった。 僕の言ったことは、秋山君には伝わっていないらしい。 けれども、それまで以上に高橋君は僕に何かと気を使ってくれ、秋山君といる時にもなるべく僕が話をできるように話題をふったりしてくれた。正直、それは居心地が良かった。 秋山君も、僕によく話しかけてくれるようになった。そんな時、どんなつまらない答えしかできなくても、僕は幸せだった。ただ、後になって、もっと気の利いたことを言えばよかったと後悔することも多かったけれど。 そんなある日、思ってもいない事件が起きた。 事件という言い方は、当てはまらないかも知れない。ともかく、僕にとっては青天の霹靂だった―――この二人が、喧嘩をするなんて。 「高橋、俺とダブルス組もうな」 二週間後の球技大会、何の種目に出るかという話になったときに、秋山君は当然のように言った。種目は、テニス。どっちもかなり上手いと聞いている。僕は、運動という運動は全てダメだったから、二人のことをうらやましく思って見た。 (この二人なら、一年生ペアでも優勝するかもね) そう思って、ぼんやりと高橋君の顔を見ると、何故だか彼は返事を渋っていた。 「どうしたんだよ、高橋」 秋山君が、窓の桟に後ろ手に肘を掛けたまま、高橋君の顔を覗き込んだ。 僕の前の席に座っていた高橋君は、少し躊躇った後、 「そのことなんだけど、俺、工藤と組もうかと思うんだけど」 と、いきなり言った。 秋山君よりも、僕が、驚いた。 「なんでっ?!」 思わず裏返った声を出すと、高橋君は僕を見て困ったように笑った。 「だって、工藤、運動……その、苦手だろ?俺が、ちょっとでもカバーできればとか、思ったんだけど……」 僕は、唖然として言葉が出なかった。 「ちょっと待てよ、だったら、俺はどうなるんだよ」 秋山君が不機嫌そうな声を出して、僕は背中が震えた。 「お前なら、誰と組んでも、いいとこまで行けるよ」 高橋君の応えに、秋山君の顔に朱が散った。 「お前の親友は、俺じゃなかったのかよ」 秋山君の叫び声に、教室中の視線が僕たちに集まった。 (どうしよう……) 秋山君が、怒っている。 高橋君が、僕とダブルスを組むって言うから。 (何か、何か、いわなくちゃ―――) そう思ったのに、今度は萎縮して言葉が出ない。 何を言っても、秋山君にまた嫌われてしまうんじゃないか。その思いが僕の口を貝のように閉ざしてしまう。 そうしている間にも、クラスメイトの興味津々といった視線が不躾に送られてくる。 秋山君と高橋君は、少しの間睨みあっていた。 そして、秋山君は、チッと舌打ちして教室を出て行った。 僕はようやく、金縛りが解けたように、自由になった口を開くことができた。 「だめだよ、高橋君」 「何で?工藤は、迷惑だったか?」 そう言って僕を見る高橋君の顔はひどく真剣で、僕は胸が詰まってしまった。 迷惑だなんて――言えなかった。 秋山君を怒らせたということでは、僕にとって迷惑でないはずはないのだけれど、それでも、高橋君の真摯な瞳を見てしまったら、何も言えなくなってしまった。 黙ってうつむくと、高橋君の大きな手が僕の髪に触れた。 くしゃっと僕の頭を撫でるのは、高橋君の癖だ。けれども、このときの手はあまりに優しくて、柔らかな風のようで、僕は不意に泣きそうになった。 唇を噛んで、涙をこらえた。 何で、涙が出るのか分からないから。 秋山君が、怒ったこと? この二人が、僕のせいで喧嘩したこと? 高橋君が、優しいこと? 涙の理由(わけ)はこの全てであってどれでもない気がした。 その日から、秋山君と高橋君は口を利かなくなった。 四時間目の授業が終わると、秋山君は教室を出て行く。 よそのクラスの生徒とお昼を食べているらしい。 それまで三人で食べていたお昼ご飯が、高橋君と二人きりになった。 高橋君は、相変わらず優しくて、何かと明るく話し掛けてくれたけれど、僕の気持ちはふさいだままだった。 (このままじゃ、いけない……) 秋山君と高橋君は、小学校からずっと一緒の親友だ。 それが、こんなことで喧嘩なんかしてちゃだめだ。 改めて、僕とダブルスを組むと言った高橋君を恨めしく思ったけれど、そんなことはとても言えない。 (高橋君が僕と組むのを諦めてくれればいいのに) そう思って何度かそれらしいことは言ってみたけれど、高橋君は、こればかりは頑として聞かなかった。 そして、高橋君と秋山君が口を利かなくなって三日目に、僕は、あることを思いついた。 (僕が、怪我をすればいいんだ) もちろん、本当の怪我じゃない。湿布を貼って包帯を巻いて、捻挫したとでも言おう。 足だと歩くのに不自然だから、手首にしよう。 そんなことまで計算して、僕は、次の日左手首にグルグルに包帯を巻いて行った。 「工藤、どうしたんだ?」 朝一番に、高橋君が僕の手を見て駆け寄ってきた。 僕は、前の夜考えたことを懸命に思い出しながら、話す。 「家の階段ですべって、手をついたときに、捻っちゃったんだ」 「大丈夫か?」 「うん、でも直るのに二週間以上かかるって……」 高橋君は、顔色を変えた。 「だから、球技大会には、出られない……」 僕の声は、他人の声のように聞こえた。 「工藤っ」 「だから、高橋君は、秋山君とダブルスを組んで……」 高橋君が、僕の肩を両手でつかんだ。僕の目をまっすぐ見て言った。 「お前……わざとやったのか?」 僕は、かあっと顔に血が上った。 恥ずかしくて―――こんな、猿芝居をしている自分が恥ずかしくて、駆け出した。 「工藤っ」 左手の嘘の包帯を握り締めて、走った。 体育倉庫の裏まで来て、壁に持たれて激しく息を吐くと、すぐに高橋君の大きな身体が現れた。 「工藤……」 高橋君が、一歩ずつ近づいて来る。 僕は、身体を縮こませる。 小さくなって、消えて無くなりたかった。 高橋君は僕の正面に立って、僕の左手首にそっと触れた。 僕は、その手を取り戻して右手で握り締めた。 「わざと、怪我したのか?」 「ちっ、ちが……」 「俺とダブルス組みたくなくて、わざと、やったんだろ?」 「ちがっ」 怪我なんか―――していない。 「何で、そんなことしたんだよ……」 高橋君の顔が、泣きそうになった。 僕は、耐え切れずに包帯を解いた。 「違うよっ、怪我なんかしてないっ」 自分で巻いた嘘の包帯を、泣きながら解いていった。 「嘘なんだっ。怪我なんか、してないっ」 湿布を投げ捨てて、その場にうずくまった。 恥ずかしくて、情けなくて、死んでしまいたかった。 「なんで……?」 高橋君が、静かに尋ねた。 僕は、泣きじゃくりながら、応える。 「あき…秋、山君と、仲、なおり……」 「秋山と?」 「喧嘩…して、ほしく、な…んだ……二人……嫌だ……」 途切れ途切れに訴える僕の言葉は、一体、どれだけ伝わっただろう。 うずくまって、泣きじゃくる僕の耳に、 「聞いたか、秋山」 高橋君の声が飛び込んで来てはっと顔を上げると、そこには秋山君も立っていた。 僕たちを追いかけてきたのか。 高橋君は、秋山君に向かって言った。 「俺たちが、喧嘩してると、工藤が泣くんだよ」 秋山君は、黙って僕を見つめる。 僕は、再び、死にたいほどの羞恥心に襲われて下を向いた。 「俺は、工藤を泣かせたくない。だから、仲直りしようぜ、秋山」 秋山君は、黙っていた。二人がどんな顔をしているのか、下を向いてうずくまっている僕には分からない。 しばらくたって、秋山君の声がした。 「……ああ……わかった」 その応えを聞いて高橋君が、 「前に聞いたよな『お前の親友は、俺じゃないのか』って」 凛とした声で言った。 「お前の親友は、俺だよ。そして、俺の親友もお前だ―――高橋昭の親友は、秋山周介だ」 そして、静かに言葉を続けた。 「でも、俺が、一番好きなのは―――工藤葵だ」 時が、止まった気がした。 |
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