気がつくと、彼のことばかり目で追っていた。 まだ小学生だった自分でも、その気持ちが何なのかはわかった。 僕は、同級生の秋山周介君に、恋した。 間違いなく初恋だった。 秋山君はスポーツの得意な生徒で、クラス対抗リレーなどでは必ずアンカーだった。それに引き換え僕はひどい運動音痴で、徒競走はいつもビリ。小学生にとって多少勉強ができることなど、なんの尊敬にも値しない。足が速くて、サッカーが上手くて、長く泳げて、跳び箱もだれより高く飛ぶ、そんな秋山君はクラスのヒーローだった。 「おい、秋山、寝るな」 担任の横山先生が、教科書で秋山君のつむじを軽く叩くと、クラス中に笑いが起きた。 「えっ、あれ、俺、寝てませんよ」 秋山君は、口元をぬぐいながら先生を見上げる。 「だったら、あの黒板の問題、解いて来い」 「らじゃ!」 そう言って前に出たけれど、秋山君はチョークを持ったまま固まってしまった。 「どうした、秋山」 「いや、なんか、解けそうなんだけど、ここまで、出ているんだけどさ」 「もういい、時間がもったいないから、早く座れ」 横山先生の呆れた声に、またクラス中にどっと笑いが起きた。 僕も思わず笑って、戻ってくる秋山君と目が合ったとき、彼が不意に嫌な顔をしたので慌てて下を向いた。 (何でだろう?) 何で、あんな嫌な顔をしたんだろう。 みんな笑っていたのに。僕だけじゃないのに。 その理由は、すぐに知ることとなった。 掃除の時間、ゴミを捨てるために焼却炉に向かった僕は、秋山君が仲のいい男の子たちと裏階段の陰でサボっているのを見た。秋山君は、掃除はよくサボる。そのたびに女子に注意されては、隠れるところを次々に変えていて、そんな様子も楽しそうでうらやましかった。秋山君たちは、僕には気がついていない。大きなゴミ箱を抱えたまま、階段に近づく。焼却炉に行くには、その階段を上って裏庭に出ないといけない。 「あいつさ、工藤葵」 突然、秋山君に、自分の名前を呼ばれてビクッとした。 「ムカつくんだよな。さっき、俺が問題解けなかったの、笑ったんだぜ」 (えっ?) 心臓が、ドキドキと鳴り始めた。 「あれは、みんな、笑ったよ」 秋山君と一番仲のいい高橋君の声。 「違うんだよ、あいつ、ちょっと頭いいと思って、俺のこと馬鹿にしたんだぜ」 「そうかな」 「そうかもね」 これは、清水君だ。 「工藤って、なんか、大人ぶって、俺たちのこと馬鹿にしてるみたいだし」 「だろ?」 (ち、違うよ……) 頭から血の気が引いていく。 「いっつも静かにしていて、休み時間もほとんど話ししないじゃん」 「たまに、俺たちのことみてるぜ」 「それが、馬鹿にしてんだよ」 「子供だなあ、って?」 「だって、子供じゃん、俺たち」 違う、違う、馬鹿になんてしていない。 うらやましいんだよ。楽しそうにはしゃいでいる君たちが。 秋山君と一緒に騒いでいる君たちが。輝いている君たちが。 「なんか、あいつ見るとムカムカすんだよね」 秋山君の一言が、致命傷だった。 僕は、彼らに何を言うこともできず、ふらふらと階段を上って裏庭に続く道を歩き、もうもうと白い煙を吐く焼却炉の前に立ち、そしてゴミ箱の中身を空けた。 心臓は相変わらずドキドキとなりつづけ、膝が震えた。 カクンと、その場に膝をついてしまった。 涙が、出た。 『なんか、あいつ見るとムカムカすんだよね』 秋山君に、嫌われていた――――― その事実が、僕を打ちのめした。 その時、後ろから声をかけられなかったら、衝動的に焼却炉の中に飛び込んでいたかもしれない。 「どうしたの?大丈夫?」 僕の顔を覗き込むように、おかっぱの背の高い女の子が立っていた。 名札が黄色だから、僕と同じ六年生だ。 「大丈夫?」 僕が泣いているのに気がついてくっきりした眉を寄せた。 「あ、うん」 僕は、慌てて涙をぬぐった。 「ちょっと、煙が、目に入って」 自分でもわざとらしいいい訳だった。 その女の子は、くすっと笑って言った。 「こんなところで、座り込んで泣いてるから、間違ってものすごく大切なものを燃やしちゃったのかと思った」 ものすごく大切なものを―――――― そうだ。 僕は、今日、たった今、ものすごく大切なものをなくしてしまった。 呆然と、その子の顔を見つめると、その子は僕の前で手を振った。 「ねえ、本当に、大丈夫?」 「あ、うん……」 「二組の工藤君でしょう?私、三組の前原翔子」 自分の持ってきたゴミを投げ入れながら言う。 「う、うん」 何で、僕のこと知ってるんだろう。 僕の疑問は口には出されず、当然、その応えも返ってはこない。 「寒いね、しばらくここで火にあたってく?」 「え?」 「ほら、座っていたから、膝、汚れてるよ」 「あ、うん」 僕は、馬鹿みたいな返事しかできず、それでも前原さんの言うとおりに膝を払って、焼却炉の口からヒラヒラと覗く炎を見つめた。 僕の涙が乾いてわからなくなるまで、前原さんは付き合ってくれた。 それ以来、僕は、前原さんと挨拶をするようになった。 そして、秋山君とは、口もきけなくなった。 もともと、秋山君とは同じクラスでも話すことなんて数えるほどしかなかった。 たまたま当番でプリントを配るとき、給食のお皿を渡すとき、図工の授業で一緒の班になったとき……そんな、ほんの僅かな触れ合う機会を、僕はどんなに楽しみにしていただろう。幸せを感じていただろう。 けれども、もう、それすらも望めない。 僕は、彼に嫌われているのだから―――― プリントも、給食のお皿も、さりげなく避けると別の当番が代わって渡してくれる。けれども、誰も、僕が秋山君を避けていることなど気が付かないだろう。その程度しか、僕らの間には、今までも何もなかったのだ。 卒業間近の、図画工作の時間。 僕は、図工では秋山君と同じ班だった。誕生日順で出席番号が決まる学校だったから、二人とも九月生まれの僕らは同じ班になったのだ。 以前は、それがものすごく嬉しくて、図工の時間も楽しみだったんだけど…… 「今日の時間は、写生、人物画です」 図工の先生は、若い女の先生で人気があった。 「みんなもうすぐ卒業だから、クラスの仲間をしっかり覚えておくように、お互いの顔を写生しましょう」 先生の声に、笑いともブーイングともとれる声が起きた。 「はい、静かに!」 先生は手を叩いて、そして言った。 「前の席に座っている人を描くこと」 また、クラスが騒がしくなった。 僕は、心臓が凍りついた。何故なら、八つ合さった机の、僕の前に座っているのは――― (秋山くん……) 怖くて、顔が見れなかった。 どうしよう。僕なんか描きたくないに決まっている。 『なんか、あいつ見るとムカムカすんだよね』 あの日の声が、頭に蘇る。 「あっ……」 僕は、とっさに横を向いて言った。 「清水君、席、換わろう」 「えっ?」 隣の席の清水君は、驚いた声を出した。 「何で?」 「あっ、だって、清水君、仲いいし……」 (秋山君と……) 秋山君の名前すら、口に出せず、僕が下を向くと、 「清水、かっこよく描いてやるから、俺もかっこよくかけよ」 秋山君の声がした。 「おう」 清水君は、嬉しそうに僕と席を換わった。 僕は、目の前になった山本君に小さく頭を下げて、筆箱から2Bの鉛筆を取り出した。 二時間連続の授業の後で、クラス全員の顔が貼り出された。 教室の後ろを飾る三十八人のクラスメイトの顔。 「卒業式まで、貼っておきますからね」 先生の言葉に、誰かが言った。 「じゃあ、この紙に寄せ書きしようぜ」 「あっ、それいい」 「ええっ、嫌だよ、俺、こんなの」 「なんだよぉ、俺の描いた絵が気に入らないのか」 再びクラスが騒がしくなり、先生がパンパンと手を打つ。 「静かにしなさいっ。本当に、このクラスが一番騒がしいわ」 みんなが笑う。僕も、何とか笑おうとした。 けれども、唇の端が不自然に持ち上がっただけで、とても笑うことはできなかった。 放課後、みんなが帰ってしまっても、僕は教室に残っていた。 誰もいなくなったことを確かめて、教室後ろの壁の前に立つ。 秋山君が描いた清水君の顔と、清水君が描いた秋山君の顔が、並べて貼ってあった。 僕は、鼻の奥が苦しいくらいに痛くなって、そのまま、ボロボロと泣き出してしまった。 どうして、席を換わろうなんて言ってしまったんだろう。 本当なら、僕が秋山君を描くはずだったのに。 秋山君を、描きたかった。 二時間ずっと彼の顔を見て、そして、この白い画用紙にその全てを写したかった。 そして、秋山君に僕の顔を描いてもらえたなら、それは一生の宝物になっただろう。 「うっ……ふっ……うう……」 僕は、秋山君の絵を見ながら、何時間もそこで泣いた。 そして、すぐにやってきた卒業式。 あの顔の絵に寄せ書きがされることは、なかった。皆、それぞれ用意したサイン帖を回していた。もちろん、全員じゃない。男子の半分くらいはそんなことしなかったし、僕も回さなかった。秋山君のところには、大勢が――他のクラスの女子までも――ひと言もらいに集まっていた。僕のところには、多分全員に頼んでいるのだろう女子の何人かがサイン帖を持って来て、僕は、何を書いていいかもわからず、当り障りのない言葉を書いた。 卒業式では、泣かずにすんだ。いまどき卒業式で泣くなんて、女の子でもそんなにいない。けれども、僕の心は泣いていた。涙が外に出ないですんだのは、あの日、教室で泣いたからだ。あの時、泣き尽くしたんだと思う。だから、涙は出なかった。 でも―――心では、泣いたんだ。何故なら、もう二度と秋山君とは会えないと思ったから。 秋山君が行くのは、地元の公立の南中。僕は、大学までエスカレーター式の私立の中学に行くことが決まっていた。 三組の前原さんも僕と同じ中学だった。僕の名前を知っていたのは、そのためだ。先生から聞いていたらしい。 中学に入って、前原さんとは、二年の時一度だけ同じクラスになった。 明るくてしっかりした前原さんは、クラスでも人気があって、それは僕にほんの少しだけ秋山君を思い出させた。 けれども、さすがに三年の月日が、僕の中から秋山君の存在を少しずつ消して行ってくれて、あの悲しかった思い出もようやく忘れられそうになったとき、再び、秋山君が、僕の前に現れた。 「工藤、工藤だよな」 高等部の入学式の朝、僕にそう呼びかけたのは、高橋君だった。 六年生の時、秋山君と一番仲の良かった子。いや、三年ぶりに見る彼は、もう『子』なんていえない、僕と同じ歳とは思えない堂々とした体躯を持った男になっていた。 「あ」 呼びかけられて、とっさに返事できずにいると、 「俺、南小で一緒だった高橋、高橋昭だけど、覚えてねえ?」 高橋君は、八重歯を見せて笑った。 「う、ううん、覚えてるよ……その、びっくりして……」 僕より十五センチ以上は上にある顔を見上げて言うと、 「受験してさ、高校から星城なんだよ」 高橋君は、うちの制服のブレザーを親指で指した。 「そうだったんだ」 確か、高橋君は、秋山君と同じ南中だったはずだ。 「秋山もだぜ」 高橋君の口からその名前が出て、僕は、一瞬、頭の中が真っ白になった。 「クラス発表って、どこに掲示されてるんだ?」 高橋君に訊かれても、上手く言葉が出ない。 「一緒のクラスだといいな、工藤。なっ」 屈託なく笑って僕の肩に腕を回すのに、誘われるようにフラフラと歩いた。 (秋山君も……?) そして、人だかりのする掲示板の前で、僕の目はただ一人の人をすぐに見つけた。 (秋山君) 三年ぶりの彼は、高橋君ほどじゃないにしろ身長も伸び、大人びた顔をして、それでもあの頃のガキ大将っぽい雰囲気をどこか持ったまま、僕の前に現れた。 「よう、高橋、俺たち同じクラスだぜ」 そう言って、高橋君の横にいる僕に目を留めて、秋山君は驚いたように目を瞠った。 「ラッキー!工藤は?一緒じゃないのか?」 高橋君が僕の名前を探す。 僕は、馬鹿のように固まって佇んでいる。 「あっ、工藤も一緒だよ。すげえ!すげえ偶然じゃん?」 そう言って、高橋君は、僕と秋山君を見比べた。 「どうした?」 高橋君の言葉で、ようやく身体が自由になった。 「えっ、ううん……」 慌てて、首を振ると 「なんで、高橋が、工藤と一緒にいるんだ?」 秋山君が、訝しげな顔で高橋君を見た。 僕の身体が、再び硬直しそうになる。 (僕の名前を呼んだ……) 秋山君の口から自分の名前が出ただけで、こんなにも胸が苦しくなる。 僕は、秋山君のことを、忘れてはいなかった。 「ここにくる途中で、会ったんだよ」 「ふうん」 秋山君が、僕を見る。 僕は、居たたまれなくなって、 「じゃあ、入学式で」 その場を立ち去ろうとしたのに、高橋君が許してくれなかった。 「何でだよ、工藤。せっかくなんだから、一緒に行こうぜ」 「えっ」 振り返ると、 「ほら、俺たち外部じゃん、色々教えてくれよ」 高橋君は、人懐っこい顔で笑った。 秋山君も別段嫌なそぶりもしなかったので、僕はそのまま彼らと一緒にいた。 秋山君の傍にいるということは、僕にとって、嬉しくて、苦しくて、幸せで、恐ろしい、そんな感覚だった。 入学式が終わってクラスに入ってからも、高橋君は何かと僕に声をかけてきた。 「お前、工藤、かまいすぎじゃねえ?」 秋山君の言葉に僕がビクッとすると、高橋君は 「だから色々教えてもらいたいんだよ。購買とか、あと、部活のこととか、なっ」 そう言って、僕の頭に手を乗せてくしゃっと撫ぜた。 「部活は……僕、入っていないから」 「あっ、そうなの?」 「それに、部活だったら、こんどオリエンテーションがあるから、その時、聞けばいいよ」 僕が応えると、秋山君がクスッと笑った。 何故笑われたか分からずに、僕は顔に熱が上った。 「工藤、変わってないな」 秋山君のその一言で、心臓が凍った。 『なんか、あいつ見るとムカムカすんだよね』 忘れていた、いや、忘れようとしていた言葉が、頭の中にリフレインする。 そうだ、僕は―――嫌われていたんだ。 |
HOME |
小説TOP |
NEXT |