「由美子の風邪ももう全快したから、いつでも良いわよ」
受話器の向こうで真紀子の明るい声が響く。
延び延びになっていた食事を一緒にどうかという誘い。
「孝彦さんが休みの日曜のほうがいいでしょう?」
「どっちでもいいわよ。孝彦さんはいてもいなくても、別にねえ」
真紀子は一緒に暮らしている娘婿が苦手らしく、そんなことを言った。
十哉は苦笑いして、それでも日曜日にと、約束をした後に切り出した。
「学のことなんですけど、正式に僕の養子にしようと思うんです」
「え?」
真紀子が息を飲むのが聴こえた。
「トオヤちゃん?別にそこまですることないんじゃないの?大体、結婚もしてないのに、いきなり父親にならなくてもいいじゃない。一緒に暮らすってだけでも、もう…ねえ…」
コブ付きだとますます結婚できないと言わんばかりの慌てた口調。
叔母の焦った顔を思い浮かべながら、十哉ははっきりと言った。
「父親になりたいんですよ。学の、ちゃんとした父親に」
カタンと音がして振り返ると、学がリビングのローテーブルにマグカップを置いて、座ったまま十哉をじっと見上げていた。マグカップに添えられた指先が小さく震えている。
十哉は受話器を握ったまま、目だけで笑って見せた。
「でもね、甥っ子っていうだけでも十分でしょう?無理して籍に入れなくっても…一緒に暮らしてあげるだけでも…」
(暮らして『あげる』んじゃない…)
真紀子の言葉に心の中で反駁し、十哉は言った。
「家族になりたいんです」
真紀子は黙った。
十哉は背中に痛いほどの視線を感じた。
学が自分を見つめている。

今の会話をどう受け止めただろう。
自分が父親になるということを喜んでくれただろうか。

十哉は、うぬぼれではなく、喜んでくれていると思った。
一緒に暮らしてまだ二週間足らずだけれど、学との間に確かに通じるものを感じていた。
桜の花びらの舞う公園で、抱きついてきた学を思えば、自分が父親になることを望んでいるということを疑う余地は無かった。

真紀子との電話を切って振り向くと、頬を赤く染めた学が両手をきつく握り締めてじっと固まっていた。
「今の、聞いたよな」
話し掛けながら腰をおろす。
学の正面に座って、視線を合わせて
「今日、市役所に行こう。そして養子縁組の書類をもらって来よう」
言ってから、
(まるでプロポーズみたいだな)
と、十哉は思った。
学が唇を震わせて何か言おうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
(こんなときに…)
誰だ、と立ち上がって、十哉は玄関のドアを開けた。
グレーの作業着を着た男が大きなダンボールを抱えていた。
「印鑑をお願いします」
それがブラジルから届いた兄の遺品だということに気がついて、十哉は胸を震わせた。
学と養子縁組の話をしている最中に、兄の思い出の品が届くなんて。
まるで兄もこのことを喜んでくれているようだと、自分でも勝手だと思う解釈をつけながら、荷物をリビングに運んだ。
「兄さんの荷物が届いた。学のも入っているのかな」
そのとき学の顔色が変わったことに、興奮ぎみの十哉は気がつかなかった。
「重いな」
独り言ちながらガムテープをはがすと、中には色々なものがぎっしりと詰められていて、一番上に茶色の封筒がのっていた。
自然と最初にそれに手を伸ばし中のものを取り出すと、手紙と共にばらばらと写真が出てきた。アルバムに整理しきれていない写真をまとめて入れたのだろう。
手紙のほうは、丁寧な日本語で書かれていた。
それに目を通した十哉は、浮かれた気持ちに水を浴びせかけられた。

『亡くなられた清水一哉さんの遺品と、養子学くんの荷物を送ります』

(養子?)
不思議なことにさっきまで自分も使っていた言葉の意味が飲み込めず、なんどもその文を読み返す。
床に散らばる写真の中に、学の笑った顔を見つけた。大きな木のテーブルで蝋燭の立てられたケーキを前にしてフォークをかざしている。右下にオレンジの蛍光色で日付が入っているのは今どき流行らないが、その1998という数字に違和感を持った。
五年前の写真の学は確かに幼いものの、六歳の子供には見えなかった。
そっと取り上げて裏返すと、忘れもしない兄の几帳面な字で『学、十歳の誕生日に』と書かれていた。
ゆっくりと学を振り返ると、血の気が引いて紙のような顔になった学がぼんやりと十哉を見返した。
「学…」
自分のものとは思えない声を聴きながら訊ねた。
「お前は…兄さんの子供じゃなかったのか?」
学は無表情とも言える顔で静かにうなずいた。

カッと十哉の頭に血が上った。

さっきまで大切な兄の子だと信じて、そして自分の子供として育てようと思っていたのに。
(年齢すら…)

「本当は、いくつなんだ」
「…十五…」
かすれた声が応える。
「四つもサバ読んだのか」
「……」
「十五じゃ計算が合わないって知ってとっさにごまかしたのか?それとも、全部計算づくか?」
言っているうちに感情が高ぶってくるのを抑えられない。
何の疑いも持たずに信じていただけに、ショックは大きかった。
「騙していたんだな」
声を荒げると、学が叫び返した。
「違う」
学の真っ青だった顔に血が上り、目には涙が溢れている。
「騙すつもりなんて無かった。十哉さんに会えたら、それだけでいいって思ってた」
ボロボロと涙をこぼしながら、
「ずっと…十哉さんに会いたかった…」
学はあえぐように言った。
「一哉さんは、いつも十哉さんの話をしてくれた。お母さんが突然いなくなって僕が独りになったときも、僕と同じくらいの歳で両親をいっぺんに亡くした十哉さんが、どんなにしっかりしていたかとか、話してくれた。十哉さんは頭も良くて優しくてかっこよくて…どんなに自分が自慢に思っているかとか、昔の写真と一緒に話してくれた…」
一気に言って大きくしゃくりあげると、学は涙でぐちゃぐちゃになった顔で十哉を見た。


「だから、僕は…いつのまにか十哉さんのことが…好きになってた」


十哉は、呆然として学を見た。
学は手の甲で涙を拭った。
「嘘をついたのは、ごめんなさい……会えるだけでいいって思ったのに…会ったら、ちょっとの間だけでも、そばに居たくなって…ちゃんと本当のこと言わなきゃって思ったのに……十哉さんが、ゲイだって聞いて…」
十哉の眉が僅かに顰められる。
「僕のこと、好きになって欲しいって、思った…」
そう言って自分を見つめた学の顔がひどく艶めかしく映り、十哉は激しく動揺した。

「馬鹿な…」
頭の中が混乱して、正常に考えられない。なのに、唇が動いた。
「子供は…相手にしない…」
これは宮内との会話だっただろうか?宮内が坂上のことをそう言ったか?
ガンガンと脈打つ耳鳴りを聞きながら、考えた。
学が切り裂くような声で応えた。
「子供じゃない。もう十五歳です」
すがりつく学を突き放して、十哉は言った。
「子供だよ。まだ俺の半分しか生きていない」

不意に、学の表情が消えた。まるで蝋燭の火が一瞬にして消えたかのように。
そして黙ってうつむいた。

ゆっくりと顔をあげた学は、無邪気で愛らしかった顔に、言い表せない壮絶さを漂わせて言った。
「…ごめんなさい」
いきなり立ち上がって、学は部屋を出て行った。
玄関を飛び出していく学を十哉は引き止めることも出来ず、ただぼんやりとリビングでドアの閉まる音を聴いた。




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