十哉は、混乱する自分の気持ちを持て余したまま、長い間床に座り込んでいた。
亡くなった兄の顔が、養子を反対した叔母の顔が、坂上と宮内の顔までも次々と浮かんでは消え、そして結局は学の顔が浮かぶ。この二週間足らずの間に見た様々な学の表情。
笑った顔も泣いた顔も、うつむく顔も見上げる顔も、一つ一つが胸を震わせた。

兄の子供だと思っていたから。
大好きな兄の、たった一人の忘れ形見だと思っていたから。
本当に、父親になろうと思っていたのだ。
(学…)

『いつのまにか十哉さんのことが…好きになってた』
『僕のこと、好きになって欲しいって、思った…』

学の涙に濡れた顔が、十哉の胸をざわつかせる。
自分の気持ちがわからなくなってくる。
兄の子供だから可愛いと思った――そのはずだ。けれど―――。
ふいに、あの夜の背中の重みが、肩に添えられた腕の温かさが、よみがえった。
『と…さん…』
あのときの小さな囁き―――あれは『十哉さん』と言っていたのか。

背中が震え、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
「学…」

ふと気がついて顔をあげる。いつのまにか部屋は薄暗くなっている。
部屋を飛び出していった学のことが、突然、気になった。
慌てて立ち上がって玄関に向かい、そして、学がどこに居るのか見当もつかないことにぞっとした。

不吉な予感に心臓が鼓動を早める。
慣れない日本で学の頼る先などどこにもない。困った時に訊ねていく友人の一人すらいないのに、こんな時間までどこに行っているのか。
自分が放っておいたことも悔やまれて、額に焦りの汗が滲んだ。
上着を掴んで飛び出すと、今まで学と歩いたことのある道を片端から探し回った。
桜の樹の公園にも行った。
陽の落ちた公園の空に浮かぶ白い桜の花は幻想的なまでに美しかったが、今の十哉の目にはそれも映らなかった。
目にしたいものは、捜しているものはただ一つ。
(居ない…)
時間が経つにつれ、十哉の焦りはひどくなる。
「警察に…」
行こうと呟いた時に、後ろから呼び止められた。
「先生」
振り向くと坂上が数人の友人と共に立っていた。
「どうしたんだよ。顔色悪いけど?」
宮内の一件で話をして以来、坂上は気安く口をきくようになった。
その上卒業したことも手伝ってか教師に対する口調ではないが、粗雑な言葉には誠意があった。
「さっきから…誰か、さがしてるのか?」
「あ、ああ」
藁にもすがる思いで、十哉は訊ねた。
「男の子、中学生くらいの、いや、もっと幼く見えるかも知れない。髪の毛が肩くらいで女の子にも見えるかも…」
「あ、俺、知ってる」
坂上と同じクラスだった中里という少年が応えて、十哉ははっと振り向いた。
「このあいだ駅前一緒に歩いてたでしょ。清水先生が美少女とデートしてるって、皆で騒いだんですよ」
にこにこと邪気無く笑う中里を見て、十哉はあからさまに失望した顔をした。
「その子を探しているのか?」
坂上が、卒業してから急に大人びた顔で心配そうに十哉を見る。
「ああ、もし見かけたら……いや、いい…気にするな」
思い直して、十哉は片手を挙げるとその場を立ち去ろうとした。
その時、もう一人の少年が言った。
「俺、さっき、見たかも」
「えっ?本当か、高橋」
高橋もまた坂上の同級生だ。
「ショートボブの綺麗な子。黄色っぽいシャツ着てなかった?」
「あ、ああ、そうだ」
学の黒髪が映えるレモンイエローのシャツは、スニーカーを買った日に一緒に買ったものだ。
「どこで見た」
肩を掴んで尋ねると、高橋は気圧されたように後退りながら答えた。
「え、駅の北口のロータリー」
「いつ頃?」
「俺たちの待ち合わせした時間より前だから、二時間くらい前かな」
「わかった、ありがとう」
十哉は、礼を言うと同時に駆け出した。
駅を挟んで南と北では、がらりと街の様相が違う。十哉の住む南側は緑の多い住宅地だが、北側に行くと飲み屋や風俗の店も多く、いわゆる歓楽街に近いところ。夜ともなると酔っ払いやガラの悪い連中も多い。
タクシーを拾おうとしたけれどこういう時に限って空車がなく、十哉は五キロ以上の道のりをひたすら走って駅に着いた。
北口のロータリーで見渡すが、学の姿は無かった。
考えてみれば二時間以上もこんなところに一人でいられるわけはない。
学と背格好の良く似た少女が酔っ払った男と抱き合っているのを見て、ゾクリとした。

(どこに行ったんだ…)

北口の店を目についたところから覗いてまわった。お金は持っていないはずだが、誰かに誘われたということは十分考えられる。
必死に探したがやはり学の姿はどこにもなく、ふと逸らした視線の先に赤とピンクの派手なラブホテルのネオンを見つけ、嫌な想像に頭に血が上った。

『子供じゃない。もう十五歳です』

悲痛な声がよみがえる。
「やっぱり、警察に行こう…」
捜索願を出してもらおう。
ひょっとして家に帰っているかも知れないという思いも湧いたが、それならそれでいい。
学が無事ならそれでいい。
とにかく警察に行こうと歩き始めたところで、上着のポケットに入れっぱなしだった携帯電話が鳴った。
着信表示に宮内の名前を見つけて、
(こんな時に…)
十哉は出るのを止して、道を急いだ。
途中、赤信号に足を止められたところで少しだけ気になり、携帯を見ると伝言メモの表示。
とりあえず信号の待ち時間に聞くことにして再生ボタンを押した。

「お前の息子は預かった。返して欲しかったら、三億円用意しろ」

宮内が淡々とした声で吹き込んでいた。
「なっ…」
慌てて宮内に電話すると、七回コールが鳴って留守番電話に切り替わる直前にようやく出た。
「お前、さっき俺の電話シカトしただろ」
「学は、そこにいるのかっ?!」
宮内の言葉は無視して、十哉は叫んだ。
「……本当に、子供を誘拐された親のような反応だな」
少し呆れたような宮内に、
「学は、そこにいるのか?」
十哉は、今度は少し落ち着いた声で、同じ質問を繰り返した。
小さなため息をついて宮内が答える。
「いるよ」
十哉は安堵のあまりその場にうずくまりそうになった。
「よかった…」
そして
「なんで、お前のところにいるんだ?」
当然の疑問を口にする。学が宮内を訪ねていけるはずがなかった。
「坂上から電話もらってね。俺も電話で捜してもらったんだよ。北口商店街の会長はうちのPTAの役員だし、よく知っている人だったからな」
「あ…」
「家出少年の捜索って行ったら、あっという間に見つけてくれたよ」
「そうか…」
信号が変わっても、十哉はそこに佇んだまま。
「学は、どこにいたんだ?」
「…そういう話は、うちに来てからでいいだろう?…迎えに来るんだよな?」
「勿論だ」
はっとして十哉は道を逆戻りし、駅前のタクシー乗り場に急いだ。
「今、タクシーに乗る。すぐ行くから」
「ああ、待ってるよ」



一介の高校教師の身でありながら資産家の息子である宮内のマンションは、十哉のアパートが二つは入りそうな広さがある。オートロックを解除してもらい、エレベーターを待つのももどかしく部屋の前に駆けつけると、タイミングを見計らったようにドアが開いて宮内が顔を覗かせた。
「宮内」
部屋に飛び込んで、
「学は?」
奥に進もうとすると、
「落ち着けよ」
と宮内が十哉の腕を掴んだ。
そのまま、二十畳もあるリビングルームの自慢のカッシーナのソファに十哉を座らせた。
「学くんは奥で寝ている」
「寝ている?」
もうそんな時間だろうか?と、十哉は壁の時計にチラリと目をやった。
「起こしてもかまわないけど、その前に、お前、自分に確認することがあるだろう」
「確認って?」
「学くんに聞いたよ。全部」
「な…」
狼狽に言葉を詰まらせる十哉にタバコの箱を差し出し、目で断られると、宮内は自分だけタバコに火をつけた。
「子供は相手にしない、って言ったらしいな」
返事を期待した訳ではなかったらしく、黙ったままの十哉を無視して宮内は言葉を続ける。
「可哀相に。大人になりたいって、やけになってたよ」
十哉は眉を顰めた。宮内は淡々と続けた。
「手っ取り早く大人になるのにバージン捨てたがってたから、その辺の男にやるのももったいないんで、俺が協力しといたから」
「なっ!」
十哉の目が見開かれた。
「なんだと?」
叫ぶ十哉に宮内は、片手を額の前にかざしてとぼけた顔で言った。
「ゴチv」
頭の中が真っ白になって、何も言えなくなった十哉に、宮内は次々と言葉を浴びせ掛ける。
「さすがにあんな小さな子に手を出すのは犯罪かとは思ったけど、でも、本人が望んでいたんだしね。俺も抱く方は初めてだったけど、何とかなるもんだな。学くん可愛かったし。やっぱ、若いっていいねえ、肌なんか吸い付くようで、ああ、あの時の声もなかなか…」
十哉の拳が宮内を殴った。いや、殴りかかったのだが、宮内は予期していたように間一髪でかわした。十哉がそれを追いかけ、ものすごい形相で掴みかかると
「やめろっ」
隣の部屋から、坂上が飛び出してきて十哉を羽交い絞めにした。
「さ、か、がみ?」
十哉は、自分を取り戻して、何故ここに坂上がいるのかと呆然と見た。
宮内は十哉の腕からすり抜けて、改めてソファに座りなおして言った。
「泰明に学くんを迎えに行ってもらったんだよ」
「酔っ払って抵抗するのを車に乗せるの、大変だったんだからな」
坂上は憮然とした顔で十哉を見る。
いつの間に宮内は坂上のことを泰明と呼んでいるのかと、あまり関係ないことを考えて、十哉は二人の顔を見比べた。
「わかったと思うけど、今さっきの話は嘘だよ」
そう言って宮内が坂上に目で促すと、坂上は十哉を掴んでいた腕を離した。
十哉も立ち上がってソファに戻った。十哉の落ち着いた様子を見て、宮内はゆっくり話を続ける。
「会長から連絡もらって、俺が行くより早いから、泰明に店に行かせたんだよ」
「チャリだったから駅まではすぐだったけど、ここまではタクシーで大変だった。言ったけど、ベロベロに酔っ払っていたんだからな」
坂上の言葉にフッと宮内は笑った。
「まさに手っ取り早く大人になるのに、大学生の集団に誘われて飲んでたらしいよ。バージン捨てるってのも、そのまんまだったらあながち嘘にはならなかったかもね」
宮内の言葉に、十哉は顔に血を上らせた。
「タクシーの中で、お前とのことずっとしゃべってたって…だから、泰明には全部バレてる」
「別に、誰にも言わないよ、俺。透にしか言ってない」
そう言う坂上にチラリと視線を送って、宮内は、十哉を見て微笑んだ。
「さっき、どんな気分だった?娘を取られた父親の気持ち?それとも、恋人を寝取られた男の?」
宮内の問い掛けに、十哉はソファに身体を沈めた。

わからない。

いや、わかっているのかもしれない。ただ、それを自分が許していないだけだ。
兄の子供だと思ったから、初めから恋愛の対象外だった。
どんなに可愛らしくて愛しくても、それは、自分の子供に対する愛情だと、そう思い込んだ。
まぶたを閉じると学の白い小さな顔が浮かぶ。肩の上で揺れる黒髪。けぶる睫に縁取られた黒曜石の瞳。
誰にも渡したくないほど、愛しい。

「恋人ならお前のものだけど、娘ならいつかは他の男のものだな」
タイミングよく呟かれた宮内の言葉に、
「それは、嫌だ」
十哉は目を開けて答えた。
身体を起こして立ち上がる。
「ありがとう、宮内」
「確認できた?」
「ああ」
十哉は気まずそうに笑った。
「宮内と坂上には、これから頭が上がらないな」
そう言うと、坂上は
「俺はいいよ。俺、清水先生には、すげえ感謝してるから」
宮内の隣に移動して、自分の所有を見せつけるように肩に腕をまわした。
宮内が苦笑する。
この二人にもあれから色々あったんだな。と、十哉は微笑んで、そして勝手知る宮内の部屋を進んだ。
奥のベッドルームには上等なダブルベッドがある。その中に、小さな学が眠っていた。
ベッドの端に腰を下ろして、顔を覗き込む。
酔っ払っていたという学の顔は、確かにいつもより上気していて、汗ばんでいた。
そっと指を伸ばして、額に貼り付いている前髪をかきあげた。
それが合図のように、ゆっくりと学が目を開けた。
睫を震わせて焦点の合わない目で十哉を見る。
そして、十哉を認めた瞬間、唇を震わせた。
十哉は、片手で学の頬を包み込むと、その唇にそっと親指を這わせて囁いた。
「帰ろう」
学はじっと十哉を見つめる。十哉は思いを込めてもう一度言った。
「帰ろう。俺たちの家に」
両腕で学を抱え起こすと、学はおずおずと十哉の腕にしがみついた。
「十哉、さん…僕…」
泣きそうな小声で呟く。
「帰っていいの?……僕、一緒にいても、いいの?」
「一緒にいて欲しい――息子としてじゃなく」
学がはっと十哉を見る。十哉はその揺れる瞳の間に軽く口づけた。
「…ここじゃあ落ち着かないから、とにかく帰ろう」
すぐに、照れ隠しに学の髪をぐちゃぐちゃとかき回し
「子供のくせに、大酒飲んで、とんでもないヤツだ」
そう言うと、学は頬を染めてうつむいた。
「子供じゃ…ない」
十哉はその伏せられた睫を愛しそうに見つめて言った。
「子供だよ」
学の瞳が悲しげに十哉を見上げた。それをこの上なく優しい瞳が見返す。
「でも、前言は撤回させてくれ。子供は相手にしない、って言ったの」
「十哉さん?」
「好きだよ」
「あ…」
学は大きな瞳をこぼれんばかりに見開いて、そして十哉の胸に縋りついた。
十哉は、その華奢な身体を力強く抱いた。

「帰ろう、学、俺たち二人の家に」
もう一度繰り返すと、学は十哉の胸の中で何度も何度も頷いた。




END








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