宮内が帰ってしまってしばらくはギクシャクとした空気を拭いきれなかったが、それでも十哉は無理にも平然と振舞い、学も次第にいつもの調子を取り戻した。 いつものといっても、二人暮しを始めてから数日しか経っていない。最初の頃の敬語こそ無くなったものの、まだ学は時おり遠慮がちだ。十哉は、少しでも学との距離を縮めたいと思っていた。 「今日は、鍋でも作るか?」 「鍋?」 「せっかく買い物に行こうとしたんだろ?一緒に行って、材料買って、夜は鳥鍋でもしよう」 小学生が鍋で喜ぶとは思わなかったが、一緒に買い物に行くとか何かを作るとか、そういうことを学が喜ぶことに気付いていた。 「うん」 案の定、学はニコッと笑った。 つられて笑って、思わず学の小さな頭をくしゃっと撫でると、学はちょっと身じろいだ。 十哉は一瞬、自分の性癖を暴露した後で思慮の浅いことをしてしまったかとドキリとしたが、学がくすぐったそうに目を細めたので安心した。 「鳥鍋って、鳥を入れるの?」 「鳥だけじゃない。白菜とか、椎茸とか、豆腐とか…」 「鳥は何?」 「鳥っていえば、鶏だろ、普通」 「ふうん」 「春菊は食べられるか?」 「シュンギクって何?」 「じゃあ、今日、食わせてやる」 「美味しい?」 「ちょっと苦いかもな」 「苦いのは、嫌だ」 「子供だな」 「……だって、子供だもん」 二人では食べきれないほどの食材を買い込んで、夕方を待ちかねてリビングのテーブルの上にポータブルのガスコンロを据えた。 大きな鍋に二人で一緒に切った鶏肉や野菜を入れていく間中、学は頬を染めていた。 「そんなに鍋を覗き込むから、顔がゆだってるぞ」 「もう大丈夫かな?」 「肉はまだだな。ほら、灰汁をとれよ」 「アク?」 「この白いのをこれですくうんだよ」 やって見せると、学は面白そうに瞳を輝かせた。 腕を伸ばして十哉の手からおたまを奪うと、せっせと灰汁取りを始める。 「灰汁だけ取るんだぞ」 「うん」 リビングに白い湯気がひろがり、室温が上がる。 「このところ肌寒かったからちょうどよかったな」 十哉は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、 「お先に」 と、始めてしまった。 「ずるい、僕も」 「ビール飲めるか?」 「飲めるよ」 「嘘つけ」 十哉が笑うと、学は桜色の唇を小さく尖らせた。 不意に見せる愛らしい表情に、ドキリとしたが、 「本当だよ。お父さんが飲むのにつきあったりしたもの」 兄の顔が浮かんで、慌てて頭を振った。 「兄さん、いや、お父さんは、よくお酒飲んだの?」 「えっ?ううん、あんまり。えっと、時々…」 「そっか…」 ちょっとした沈黙。 困ったようにうつむく学に、十哉は優しく謝った。 「ごめん、まだあんまり、お父さんの話はしたくないよな」 「ううん」 学が首を振る。 「お父さんの話して。お父さんと十哉さんの話」 「俺の?」 「うん」 こっくりとうなずいて、学はじっと十哉を見つめる。黒い瞳が期待に潤んでいる。 「お父さん、よく十哉さんの話をしてくれたの。だから、十哉さんからも、お父さんの話を聞きたい。二人の話」 「俺の…」 もう一度同じ言葉を呟いた。 離れて十二年も経つ兄が、遠い異国の地で自分のことをどう語っていたのだろう。 十哉こそ訊ねてみたい衝動にかられたが、今はこの子の期待に応えるのが先だろう。 「学のお父さんは、俺にとっても親代わりみたいなもんで…」 ビールで咽喉を潤して、ポツリポツリと話し始める。 湿っぽくならないように、楽しい思い出を中心に語ると、学は瞳をきらきらと輝かせ、そしてたびたび可愛らしい声をあげて笑った。 学のその顔が嬉しくて、十哉もいつになく饒舌になった。 一人暮らしの夕飯では味わうことのできない穏やかで温かな家庭の雰囲気に、次第に十哉も酔っていった。 その夜、リビングに布団を敷いて眠っていた十哉は、ふと背中の重みに目を覚ました。 自分の背中に、何か温かなものが触れている。 背中から肩に廻された腕が、それが学だということを教えてくれた。 学が、そっと十哉を抱くようにして身体を寄せている。 シャンプーの香りがふわりと鼻をくすぐった。 学の頬が肩甲骨の上あたりにそっと擦り付けられた。 十哉は心臓が騒ぐのを気づかれないように、息を呑んだ。 じっと寝たふりを続けていると、学も一緒の布団に横になったままじっとしていた。 次第に落ち着いてくると、十哉はふと子供の頃に飼っていた猫を思い出した。 寝るときはどこかに行っているのに、自分がすっかり寝てしまってからいつのまにか布団に入ってきて背中や腹に丸くなった身体を摺り寄せてきた。翌朝、目を覚まして、その温かな固まりに気がついて、ジワリと幸せな気持ちになったものだった。 今も、十哉は背中の温かさに切ないほどの幸せを感じた。 「と…さん…」 かすかな声で学が囁いた。 (父さん…) 十哉の胸がぎゅっと詰まった。 俺は、父親になれるのだろうか。 ゲイの自分が子供を持つことなど、今まで考えられなかったけれど。 学の父親になれるのだろうか。 なろう、と思った。 ならなくてはいけないと思った。 たった一人の兄の残したいたいけな少年。 初めて学を迎えた日に兄に誓ったように――学の父親として出きるだけのことをしよう。学を幸せにしてやろう。 そう胸の中で繰り返していると、不意に背中の温もりが消えた。 そっと起き上がった学が、物音を立てないようにゆっくりとリビングから和室に戻っていく。 背中でその気配を聞きながら、十哉は固く瞳を閉じた。 学のいなくなった背中はひどく寒々しく、十哉は、学の気配が完全になくなると寝返りをうって布団にもぐりこんだ。 肩に残る学の腕の感触の余韻に浸りながら、十哉は再び眠りに落ちた。 翌朝。 学はあどけない顔で片目を擦りながら起きて来た。 「おはよう、十哉さん」 「おはよう」 昨夜のことは夢だったのかと思ってみたが、肩に残る温かな感触は、到底夢では無い。 「いい天気だから、今日はどこか出かけるか?」 昨日から急に父性本能が目覚めているな、と内心で苦笑しつつ十哉が言うと、 「出かける?」 学は嬉しそうに顔をあげた。 「遊園地とか」 そう言ってから、十哉は、春休みの遊園地の人ごみを思って少しだけうんざりした。 そのわずかな表情の動きを学は見逃さない。 「どうしたの?」 「あっ、いや、遊園地は混んでいるだろうなと思って」 その言葉に学はがっかりしたように黙った。 「あ、いいんだよ。混んでいるのは、この時期当たり前だし」 十哉は慌てて言い募った。 「ただ、待ち時間が長いと、学も退屈するだろうなと思って」 「そんなに待つの?」 「うーん、人気のあるものだとね、二時間くらい平気で待つことになるな」 「二時間?」 学は目を瞠った。 「どうする?行きたいなら、行くぞ」 十哉が訊ねると、学は首を横に振った。 それは、自分が並んで待つのが嫌だと言うよりも、乗り気で無さそうな十哉の気持ちを思いやってのことのようで、十哉は申し訳ない気になった。 「それじゃあ、花見でもするか?ここから少し歩くけど、大きな公園があって、今ごろは桜が満開だと思う」 これもまた小学生が花見を喜ぶだろうかという疑問も湧いたが、意外にも学はひどく嬉しそうに十哉を見上げた。 「サクラ?」 「ああ、ブラジルにも桜ってあるのか?」 「うん。日本から贈られて来たたくさんのサクラの樹が、すごく綺麗に花を咲かせているの、見に行ったことがある」 「へえ」 「お父さんが、連れて行ってくれたんだよ」 言ってしまってから、学はほんの少し顔を曇らせた。 十哉はそれには気づかないふりで明るく笑って言った。 「そうか。じゃあ、今日は、日本の桜を見に行こう」 遅い朝食の後、二人して綿シャツにジーンズというラフな格好に着替えた。 スニーカーを履いて出ると、ぶらぶらと並んで歩く。学は先日買ってもらったばかりの白いスニーカーが嬉しくてたまらない様子で、たびたびつま先を高く上げては汚れていないかを確認した。 武蔵野の緑を色濃く残すその公園は、本当なら、十哉のアパートからは歩いて三十分ほどの距離だ。けれども二人は特に急ぐでもなく、途中で他人の庭につながれた犬を覗き込んだり、川というには忍びないほどの水流の中に小さな鳥を見つけたりしながら、ゆっくりと歩いたので、おかげで公園に着いたのは家を出てから一時間以上も後だった。 平日とは言え春休み中の花見日和のこと、いくつもある大きな桜の樹の下では、シートを敷いて陣取った集団がにぎやかに宴会を開いていた。 十哉と学はその集団から離れたところまで移動して 「あそこに座ろう」 適当なベンチを見つけた。 広い公園を見渡せる場所にある木のベンチは、そこに座ると、ちょうど大きく枝を広げた桜を見ることが出来た。もちろんその樹の下にも先客がいるのだが、静かに桜の花の美しさを愛でるには十分な距離。 「疲れた?」 隣に座る学を振り返ると、 「ううん」 首を振る学の前髪に桜の花びらが付いている。 (歩いている間に付いたんだな) と、指を伸ばすと、学が驚いたようにまつげを震わせた。 「花びらが、付いてる」 言い訳のように言って、指先に乗せた小さな花びらを見せると、学はふっと笑った。 そんな些細な表情に妙な色気を感じて、十哉は動揺した。 自分の子供と言ってもいい少年にときめいてしまう自分に呆れる。 (これで手を出したりしたら、犯罪だな) 思わず口元が緩んで、それをごまかすためにポケットからタバコを取り出した。 灰皿の無いことに気がついた。 「学、のど乾いてない?」 「ううん、大丈夫」 たかが缶ジュース一本も遠慮する学に目を細めて、 「俺はビール飲みたいんだけど、買ってきてくれる?」 そう言うと、学は微笑んでうなずいた。 使いを頼むだけで、こんなに嬉しそうな顔をされるなんて。 十哉も嬉しくなる。 (子供っていうのは、可愛いもんなんだな…) 正直、自分の受け持つ生徒たちをここまで可愛いなどと思ったことは無い。なのに、学の表情や仕草はいちいち十哉の琴線に触れる。 (これが血のつながりってやつなのかな) 学の愛らしい顔に、全然似てはいないのに、兄の面影を重ねてみて、十哉は幸せな気分に浸った。 「すぐ戻るね」 そう言って学は駆け出していった。 「転ぶなよ」 小さくなる後ろ姿を目で追いながら、学とならこうやって『親子ごっこ』も悪くないと十哉は思った。 はらはらと散る桜の花びらが遠くから風に舞ってきて膝の上に落ちた。 ふと、学の帰りが遅いことに気がついた。 売店は公園に入ってすぐのところにあったのを確認している。 迷うはずは無い。 初めて来た所とはいえ、ビールとジュースを買うだけだから、不自由があるはずも無い。 心配になった十哉は立ち上がって、公園の入口へと向かった。 すれ違ってしまわないように慎重にあたりを見渡しながら歩いていると、学らしい人影が二人の男に引きとめられているのが見えた。 十哉は足早に近づいた。 大学生くらいだろうか、若い男が二人して学に絡んでいる。 「いいじゃん。そのお友達も一緒にこっちにおいでよ」 「ち…」 「高校生?中学生かな?可愛いね」 「ビール持ってる。不良だなあ」 「ちが…」 学は困った顔で首を振るが、酔っ払った二人には通じない。 「じゃあ、君だけでもおいでよ」 そう言って強引に学の手を引く男の腕をつかんで、十哉は厳しい声を出した。 「ひとんちの息子に、何してる」 「は?」 腕をつかまれて一瞬剣呑になりかけた男の顔が、十哉の言葉に反応して間抜けた。 「息子?」 もう一人の若い男も、酔いが覚めたように真顔で学を見た。 「この子は、私の息子だけれど、どういった用でひきとめているんだ?」 もう一度解からせるようにゆっくりと言うと、男は慌てて学から手を離し、そして 「やっ、いや、すみません、俺たちちょっと酔っ払っていて…」 焦ったように後退さった。 「大学生?未成年じゃないのか?人の見分けもつかないほど飲酒しているのは感心出来ないな」 教師らしい物言いで、十哉が端正な顔を凄ませると、 「スミマセンでしたっ」 二人は慌てて走っていった。 少し離れた桜の樹の下で仲間らしい集団が二人を迎えて、興味深げにこっちを見たが、十哉はフンと鼻で息をついて学の肩に手を廻した。 「大丈夫か?」 「はい」 「ああいう時は、大声出すんだよ。嫌なら嫌ってはっきり言わないと、わからないんだから、ああいう輩は」 「ごめんなさい」 「…別に、謝ることはない」 そう言いつつも、十哉は苛々とした気持ちが抑えられない。 (酔っ払いが、汚い手でさわりやがって…) 普段にない汚い口調で内心毒づいた。 学はうつむいてトボトボと歩く。そのだらんと下げた両手にビールとジュースの缶が握り締められているのに気がついて、十哉は足を止めた。 缶ビールを握った右手にそっと指を伸ばす。 缶ビールごと学の小さな手を包みこむ。 「あーあ、ビールも生温くなってるじゃないか」 半分笑いながら言うと、学は 「ごめんなさい」 小さな声で、また謝った。 十哉はそのビールを受け取ると、立ったままプルトップを引いた。 プシュッという派手な音と共に泡が吹き出した。 「うおっとぉ」 したたり落ちる泡の滴を避けて十哉が慌てて腕を伸ばして足を引く。 「あっ」 さっき自分が絡まれた時に振ってしまったからだと気がついて、学は慌てた。 「ごめんなさい」 三度目のごめんなさいに十哉は学の頭を小突いた。 「お前、謝りすぎなんだよ」 学が大きな瞳で十哉を見つめる。 「お前は、俺の子なんだから、親にいちいちつまんないことで謝るな」 「十哉さん…」 「こういうときは、ケラケラ笑えばいいんだよ」 十哉の目が優しく細められ、学はそれを見て不意に顔をしかめた。 次の瞬間、十哉に抱きつく。 「おっ、と」 思いがけない衝撃に、十哉はビールの缶を落としてしまう。 転がった缶からジュワジュワと溢れるビールが地面にしみこむように、自分の中に学の存在が染み込んでいく―――十哉は、そんな思いがした。 |
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