しばらく泣き続けていた学が静かになったので、そっと顔を覗き込むと、泣き疲れてしまったのかいつのまにか眠っていた。 空港で会った時に垣間見た、大人びた顔はどこにも無い。ただただあどけない寝顔に、父親を失った十一歳の少年の気持ちを思いやって十哉は胸を詰まらせた。 飛行機の中でも、ゆっくりとは眠れなかっただろう。 そっと横にして、座布団に頭を乗せようとすると 「う…ん」 口の中で何か小さく呟いて寝返りをうった。 「今、布団、敷くから」 返事は無いとわかっていたけれどそう話し掛けて、十哉は押入れから来客用の布団を出した。 布団に運ぶと、学は枕に顔を埋めて、それを両手で抱きかかえるようにして眠った。 (苦しくないのか?) うつぶせた寝姿がおかしくて、十哉はくすっと笑った。 そして、ポケットからタバコを取り出すとリビングのソファに身体を沈めた。 長時間の運転で身体は疲れていたが、意識は妙に冴えている。 突然の兄の死を悲しむ間もなく訪れた新しい生活。 想像していたよりずっと大きかった甥っ子との共同生活。 (いや、赤ん坊に来られるよりは、ずっとマシだったが…) 大きくタバコの煙を天井に向けて吐き出した。 これからのことを考えると、片付けないといけない問題も多かった。 まずは、学の生活に必要なものを買いに行こう。 服も、靴も、日用品も。 あの少年は、小さなボストンバッグ一つしか持ってきていなかった。 今までの生活で必要だったものは、全部ブラジルに置いてきたのか。 そう考えた時、十哉はハッとした。 タバコを灰皿に押し付けて、リビングの床に置きっぱなしになっているボストンバッグに手をかける。 中を開けると、わずかな着替えの詰まった奥に、小さな箱がしまわれていた。 そっと取り出すと、思った以上に軽い箱の中で、カラリとぶつかる音がした。 (兄さん…) 分骨をしてきたのだ。 兄の身体のほとんどはブラジルの大地に眠り、そしてこの小さな箱に一部が収められて、そして十二年ぶりに日本に帰ってきたのだ。 「兄さん」 よく日に焼けた兄の笑顔がよみがえる。 最後に会ったのは、自分の入寮の日だったか。自分で持つといったのに、寮の入口まで鞄を持ってきてくれた。 大学生活を始めるにあたって寮に入ると言ったとき、兄はほんの少しだけ寂しそうな顔をして、そしてその後、破顔した。 『お前が、そうしたいのならそうすればいい。俺もやっと肩の荷が降りるな』 『やっぱりお荷物だったのか』 と、すねるように言った自分に、兄は優しい瞳で言った。 『お前がいたから、がんばれたんだよ。ありがとう』 ありがとう。 あの時、その言葉を言うべきだったのは、自分のほうだ。 十八だった自分は照れくさくて、言えなかった。 兄の言葉すら冗談に済ませて――― そして、兄は旅立った。勤めていた運送会社を辞めて、ブラジルに。 そして、そのまま、二度と会えないところに。 「兄さん――」 張っていた気が、いきなり緩んだ。 兄の死を聞いてから、はじめて泣くことが出来た。 「兄さん。学のことは、俺が、ちゃんとするから。大切にするから―――」 だから、安心してくれと何度も心の中で繰り返した。 その夜、夕食の時間になっても学は起きなかった。 よほど疲れているのだろうとそのまま寝かせることにして、自分も水割りと買い置きのチーズだけで夕食を済ませた。 兄のことを思って泣くのには、ちょうどいい。 さすがに子供の前では、泣けないから。 そう考えて、兄の言った 『お前がいたから、がんばれた』 という言葉の意味が、ほんの少しわかった気がした。 そっと和室の襖を開けると、学は、今度はちゃんと顔を上向きにして眠っていた。 長いまつげが時たま震えるのは、何か夢でも見ているのか。薄く開いた唇、とがった顎。整った小さな顔。この子が、兄がこの世にたった一人残していったものだと思うと、切ないほどに愛しくなった。 「学、おやすみ」 そして、これからよろしくと、囁くように呟いた。 翌朝、台所の物音で目がさめた。 台所といっても、玄関入ってすぐのスペースに小さなレンジ台と冷蔵庫があるだけだが。 (おなかがすいて、何か探しているのか) 十哉は、リビングのドアを開けて声をかけた。 「学くん」 「わっ」 小さな叫び声とともに皿の割れる派手な音。 「大丈夫か?」 「ご、ごめんなさいっ」 慌てて割れた皿の破片を拾おうとする学の腕をつかんで引き寄せる。 「危ないから、こっちに」 「でも」 「いいから、ほら」 学をリビングに押しやって、自分は押入れから掃除機を取り出した。 「破片を踏むといけないから、こっちに来るなよ」 そう言って掃除機のスイッチを入れたとき、流し台の上に置かれたボウルの中に、冷蔵庫に入れっぱなしにしていたキャベツが千切られて綺麗に洗われているのに気が付いた。 レンジの上にはフライパンがかけられていた。その横には卵が二つ。 どうやら、おなかがすいてのつまみ食いとは違ったらしい。 割れた皿を片付けて学のところに行くと、学は身体をすくませた。 「朝飯、作ってくれようとしたんだ」 「ごめんなさい」 「何で謝る」 「お皿――」 「俺が驚かしたからだろ。こっちこそ、ごめんな」 学は目元をほんのり朱に染めて、十哉を見上げた。 「でも、そんなことしなくていいから」 十哉は、学の髪をくしゃっと撫でて、 「子供は、そんなこと気にしなくていいんだ」 ニッコリ笑う。 「俺も、あんまり料理は得意じゃないけど、まあ、全然出来ないわけじゃないから、今朝は俺が作るよ」 そう言って、自分のことを俺といっているのに気が付いて、 「これから家族なんだから、お互い変な遠慮は無しにしよう。学のことも学って呼び捨てにするからな」 照れたように頭をかいた。 「うん」 学の顔がぱあっと明るくなる。 「ありがとう」 「俺も――ありがとう」 十哉がそう言うと、学はまた不思議そうに首をかしげて、黒髪を肩の上で揺らした。 「今日は学の服とか色々買いに行こうな」 朝食を済ませて、台所の流し台に皿を片付けながら十哉が言うと、その後ろを自分の使った食器を持って追いかけてきた学は、申し訳無さそうに眉を寄せた。 「どうした?」 「着替えとか、あんまり持ってこなくて、ごめんなさい」 「謝るなよ」 十哉は笑って 「シャツの二、三枚くらい買う甲斐性はあるんだよ」 「カイショウ?」 「ああ、まあいい。とにかく、この辺の地理も教えておかないとな。これからここで生活するんだから」 「ここで…生活…」 小さく呟いて、学はまるで夢見るような表情で十哉を見た。 その顔にまたドキッとし、十哉は学の持っていた食器を奪うようにして、流し台に向かった。 「着替えたら出るから、準備しておけよ」 「はい」 そう素直に返事したものの、学の準備など何もない。台所に立つ十哉の後ろ姿を見つめたまま。 十哉は振り返って、学の丸い瞳が飼い主の言葉を待つ子犬のそれに見えて、思わず微笑んだ。 「皿、拭いてくれるか」 「はい」 学は嬉しそうに十哉の隣に並んで、皿を受け取った。 「本当は新宿あたりのデパートに出たほうが安くて良い物が揃ってるんだが、今日はご近所商店街を紹介するのが目的だからな」 そう言って、駅前の商店街でシャツ、靴、下着などを買い揃えていく。 「なんか、プリティーウーマンみたいだな…グレードは桁違いに低いけど」 自分の冗談に十哉が笑うと、学もつられて笑う。 「プリティーウーマン、知ってる?」 「あ、ううん」 「だよな」 十哉は自分の質問に呆れた。あれが流行った頃、学はいくつだ。 美容室の前を通りかかったとき、十哉はふと学の髪を見た。 視線に気が付いて、学が顔をあげる。 おかっぱ頭は、学の小さな顔に良く似合っていた。 「その髪型って…」 「はい」 「兄さんの趣味だったのかな」 言ってしまって、なんだか変な質問だと自分でも思った。案の定、学は意味がわからないと言うように小首をかしげる。 「いや、その、女の子みたいな髪型だろ」 (しまった) 学が恥ずかしそうに下を向いてしまったので、十哉は慌てて取り繕う。 「やっ、似合ってるよ。うん」 「髪は…」 唐突に学が口を開く。 「お隣のおばさんが切ってくれてたんです」 「え?」 「たまにお父さんが切ってくれたけど、そうするとガタガタになっちゃって、その後でやっぱりおばさんがまっすぐ切ってくれるんです」 「そっか…」 「まっすぐなのが珍しいからって」 「そうだな」 最近じゃ、日本でもこんなにまっすぐな黒髪はそうそうお目にかからないだろう。 「兄さんは剛毛だったけどな」 笑って 「学のお母さんは、黒髪もそれは綺麗な、美人だったんだろうな」 昨日、空港からの帰りに思ったことを口に出すと、学のうなじがピクッと震えた。 「あ…」 その母親も行方不明でいないのだという事実に、十哉は自分の発言の迂闊さを呪った。 「ごめんな」 慰めるように肩を抱くと、学は身体をこわばらせて、それでもそっと頭を寄せてきた。 自分の腕の中にすっぽりとおさまる小さな身体。薄い肩。 十哉は、ひどく保護欲をかき立てられている自分を感じた。 その次の日も、十哉は学をつれて近所を歩いた。 早くこの町に慣れて欲しい。そして、日本の生活にも。 今は春休み中だが、四月になって学校が始まったら学は一日の大半を一人で過ごすことになる。そうしないためには、学自身も学校に通わせるのが一番なのだが、こっちの生活に慣れるまでは心配だ。 「そういえば」 近所のファミリーレストランでハンバーグ定食をつつきながら十哉が訊ねた。 「身体弱いって言ってなかったか?」 「えっ、あ…」 「あっちで学校行ってなかった理由に、それもあるって言っただろ?何かあるんなら、俺にも言っておけよ」 「いいえ、もう…大丈夫、です」 「もう大丈夫、って」 「あの、小さい時の話で…だから、もう…」 「学?」 ナイフとフォークを握った学の手が小刻みに震えて、皿の縁をカチカチと鳴らす。 それに気が付いて、学は両手を握り合わせた。 十哉は、何故か、自分が小さな子供を苛めているような気持ちになって、その震える手の上に自分の手を重ねて言った。 「何か言いたくないのなら無理には聞かないけど、俺たちはもう家族なんだから、何でも、身体のことでもそれ以外でも、何でも話してくれよ」 「十哉さん…」 学の黒い瞳が十哉を見つめる。 長いまつげが震え、そしてそっと伏せられる。 「ちゃんと…話すから…もうちょっとだけ…待って下さい」 「学」 学のその言葉は図らずも学に隠し事があるのだという裏づけとなってしまい、十哉は胸がざわついた。 |
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