清水十哉は、三十歳の誕生日を訃報で迎えた。
「兄さんが?」
地球の反対側でコーヒー豆の栽培にいそしんでいた兄清水一哉が、トラック事故に巻き込まれて死亡したという。
「だからね、トオヤちゃん、成田までカズヤちゃんの子供を迎えに行くから、来てちょうだい」
叔母の言葉に、十哉は叫んだ。
「子供?!」



十哉は、身内が少ない。自分が中学の時、両親が飛行機事故で死んだ。
機長の精神障害によるものだったらしいが航空会社から支払われた賠償金はとても兄弟二人が十分に暮らしていけるという額ではなく、六つ年上の兄が大学を中退して、十哉の高校卒業まで面倒を見てくれた。
十哉は自分の大学進学に関しては、絶対に兄の世話にはならないと決めていた。兄と確執があったわけではない。むしろ兄弟仲はとても良く、十哉は兄が好きだった。けれども、自分の為に、兄がせっかく入った大学を中退せざるをえなかったという事実には、いくら当の本人が『いいんだよ』と言ってくれても、負い目を感じていた。
だから十哉は大学に進む時の条件を自分に課した。
奨学金で学費の払えるところ、寮があって生活費がバイトで十分賄えるところ、就職に有利なところ。
最後の一つは、早く自分で稼いで兄に楽をして欲しかったのだ。
それで地元の国立大学の教育学部に入った。学費の全額を奨学金で払い、生活費の一部までも国の育英制度を利用した。教員になればそれは返済免除と聞いて、今では地元の公立高校の数学教師をしている。
そして、兄一哉は、驚いたことに十哉の大学進学とほぼ同時にブラジルに渡った。


それから十二年。


最初の頃は頻繁に届いたエアメールも、年に一回ほどに減っていたが、それでも兄はブラジルの太陽の下で元気にしているのだと、笑っているのだと、思っていた。
(兄さん…)


「トオヤちゃん、こっちこっち」
死んだ父親の妹、真紀子が、右手を大きく振っていた。
「すみません、遅くなって」
「いいのよ、学校のほうも大変だったでしょう」
「春休みが近いんで、大丈夫です」
「ああ、そうね、もう三月ですものね」
本当は卒業式の準備もあれば、浪人が確定した生徒のケアという仕事もあるのだが、実の兄の海外での事故死という話に周囲は皆いたく同情してくれて、一足早く休みを取らせてもらえることになった。
両親の飛行機事故に続いての兄のトラック事故という事実に、同僚の世界史教師宮内は、真面目な顔で十哉を心配して言った。
『お前は、乗り物には乗らないほうがいい』
その後下品な冗談も続いたのだが、今の十哉はそれに笑える状態ではなかった。
「叔母さん、その兄さんの子供って」
「今、由美子が連れて来るわ」
由美子とは真紀子の一人娘で、十哉にとっては従姉妹にあたる。
十哉の両親が亡くなったとき真紀子は甥っ子二人を引き取ろうとしたのだが『年頃の娘のいる家に』という周囲の反対と一哉の意思で、それはかなわなかった。

「お母さん」
結婚してから急に太った由美子が、小さな少女を連れて現れた。
少女だと、十哉は思った。
白い小さな顔、真っ黒な瞳、桜色の唇。きれいに切りそろえられたおかっぱ頭まで、お人形のような子供だった。
由美子に手を引かれて、おずおずと近づいてくる。
「学くんですって」
「マナブ…くん?」
十哉は、学という簡単な漢字も思い浮かばないほど、驚いた。
(男の子?)
「一哉さんにはあんまり似ていないけど、でもおでこと鼻と顎は少し似ているかもね」
学の顔の中でもあまり特徴の無いところを指して由美子が言った。
「ママ似なんでしょう」
真紀子の言葉に、十哉ははっとした。
「そうだ。この子の母親は、その、兄さんの奥さんっていうのは?」
何しろ兄が結婚していたことも子供がいることも、十哉は全く知らなかったのだ。
真紀子は困った顔で、十哉を見返して応えた。
「行方不明らしいの」
「えっ?」
「一年以上も前にこの子を置いて出て行ったって。カズヤちゃんの遺品に手紙やら写真やら、なんやらあってね。日記みたいなのにそんなことが書いてあったって、あっちの人が言ってたの」
「その日記やらなんやらって?」
「別便で送ってくるらしいから、そのうち届くわよ」
二人の会話の間、学はじっと十哉を見ていた。
その視線に気が付いて、十哉は学を見た。
吸い込まれそうな黒曜石の瞳に、自分の顔が映るのを見た。
「学、くん?」
学は、こっくりとうなずいた。
「えっと、日本語はわかるんだよね」
またこっくりとうなずく。
「当たり前じゃない、両親とも日本人なんだから」
十哉と同い年の由美子は、昔からものの言い方に遠慮が無い。
「日本人って…ああ、そうだな」
ブラジルで結婚していたと聞いて、無意識に肌の浅黒い子供が来ることを予想していた自分を知る。
「ほら、あなたの叔父さんの清水十哉さんよ。これからお世話になるんだから、ご挨拶ちゃんとしないとね」
由美子が目を細めて学の頭を撫でると、その艶々とした黒髪がゆっくりと動いた。頭を下げると、髪はサラリと音をたてるように顎に向かって流れた。
「はじめまして、よろしくお願いします」

(ああ、そうだ)

兄の忘れ形見を自分が引き取るのだと、十哉はあらためて目の前の子供を見つめた。




「はじめまして、よろしくお願いします」
緊張に震えたような声が印象的だった。
十哉は少し前かがみになって、その瞳を優しく覗き込むと
「こちらこそ、宜しく」
安心させるように微笑んだ。
学の目元が、ほんの少し赤く染まった。
「本当に、うちで引き取ってもいいんだけど、由美子の旦那が子供嫌いで」
「あら、別に子供が嫌いって訳じゃないわよ。ただ孝彦さんは、赤の他人と一緒に暮らすよりは血のつながった叔父さんと暮らすほうがいいだろうって言っただけで」
「ああ、いいんですよ。おばさん、由美ちゃん」
親子の会話に慌てて口を挟んで、十哉は言った。
「一哉兄さんの子供だったら、僕が引き取って当たり前です」
「でも、またお嫁さんもこないうちにねえ」
叔母の言葉に、十哉は二重の意味で苦い笑みを見せた。
自分の娘も決して早婚とは言えなかった叔母からの『まだ結婚しないのか』攻撃は、しばしば十哉を辟易させていたし、今の場合、この父親を亡くして引き取られていく子供に聞かせるべきものでは決してない。
叔母の言葉を遮るようにして
「思ったより大きな子で安心しました。まだ赤ん坊だったら由美ちゃんにヘルプに来てもらうところだったけど、学くんならしっかりしていそうで、同居も楽しくなりますよ」
そして学を見て
「ねっ」
と、うなずいて見せた。
学の瞳は何か言いたそうに揺れたけれど、結局恥ずかしそうにうつむいただけだった。
「じゃあ、このままうちにつれて帰りますね」
「あら、ご飯くらい一緒しましょうよ」
「でも、学くんが疲れているようですから。食事は落ち着いたら、是非叔母さんの手料理をご馳走してください」
「あら」
真紀子はちょっと嬉しそうに笑った。
「そうね、そしたら、また電話するわ」
「お願いします」
十哉は学の肩に腕を添えて、駐車場へと案内した。
由美子も車で来ていたため、そこで別れ、十哉と学は二人きりとなった。
まだどこかぎこちないまま、十哉は助手席に座った学の横顔を盗み見て、兄の奥さんというのはさぞや美人だったのだろうと考えた。
「学くんは、歳はいくつなの?」
当り障りの無いところで話のきっかけを作る。
「……十一」
ポツリと応えた返事に、十哉は
「えっ?それじゃあ、あっち行ってからすぐに結婚したんだ。いや、できちゃった結婚だったのかな」
つい口を滑らせて、慌てて口元を押さえた。
「…ごめん」
謝ると、学は意味がわからないような困った顔をして首をかしげた。
「そっか、じゃあこっちじゃ小学校だな。何年だ?六年生か。転入の手続もしないとな」
「学校…」
「日本の学校、大丈夫かな。アメリカンスクールとかの方がいいのかな」
ハンドルを遊ばせながら、十哉が自分に尋ねるように呟くと
「学校…行ってなかったから…」
学が言い、十哉は危うくハンドルを持っていかれそうになった。
対抗斜線にはみ出そうになった車の体制を立て直して、十哉は学を見た。
「学校、行ってないって?」
学はコクリとうなずいた。
(ブラジルには、義務教育ってもんは無いのか?)
自分には大学まで進めと言ってくれた兄が、実の息子を学校に行かせていなかったという話に十哉は少なからずショックを受け、次には
「あっ、ひょっとして、身体が弱いとか?」
何らかの理由を見つけようとした。
「それも…あります」
まつげを伏せたまま、学は応えた。
「そうか、じゃあ、勉強はどうしていたんだ?」
どこか説教くさい物言いに、自分が教師であることを思い出す。
「お父さんが、見てくれました」
「そっか」
そういうことも、あるのだろう。
自分の息子に学という名をつけた兄が、教育をないがしろにするとは思えない。しかし、学校に行かずとも教育は出来る。その証拠に、この目の前の少年は幼い外見とは裏腹に十一歳とは思えない理知的な瞳をしている。
「あの…」
「ん、なんだい?」
「僕、日本語は話せるけど、書いたり読んだりするのは苦手なんです…」
「あ、そうなの?」
「だから、学校は、もう少ししてから…」
「うーん」
確かに、日本に慣れないうちに学校に放り込むのは危険かもしれない。帰国子女が日本の慣習になじめずにいじめを受けるケースは自分が教鞭をとる高校ですらあったし、何しろ、この子は父親を亡くしたばかりなのだ。
そう思い、
「そうだね。焦って行くこともない。落ち着いてからどうするか考えよう」
十哉が笑いかけると、学もどこかほっとしたように笑った。

初めて見た学の笑顔に、十哉はドキリとし、そしてすぐに言い聞かせた。
(馬鹿、相手は子供じゃないか)



「とりあえず、この部屋を使って」
独身の十哉の住まいは、寝室とリビングそして狭い台所にユニットバスという簡素なアパートだった。マンションと呼ぶには古めかしい外見。けれども中は、大家が二年前にリフォームをしていて小奇麗にはなっている。八畳のフローリングのリビングに六畳の和室。今までは和室に布団を敷いて寝室代わりに使っていた。その和室を学の部屋にすることにした。
「五月には、もう一部屋あるところを借りよう。それまで、ちょっと窮屈だけど我慢してくれよ」
ちょうど家賃の更新時期も近づいていたので、ゴールデンウィークに引っ越しするつもりで十哉が言うと
「ごめんなさい」
と、学が謝った。
「何が?」
「迷惑、でしょう?」
白い額の綺麗な眉が、申し訳無さそうに寄せられる。
「何言ってんだよ」
「だって…」
さっきの叔母の言葉を気にしているのかと、十哉は努めて明るい声を出した。
「一人暮らしも味気なくってね。結婚は面倒だけど、子供は欲しかったんだ」
正確に言うと本意ではないが、そう言った。
そして、しゃがんで学の両脇の腕を取り、うつむいている顔を見上げるようにして覗き込んだ。
「僕は、兄さんが大好きだった。兄さんのお陰で、今こうしていられるんだよ。その兄さんのたった一人の息子なんだから…大切にする」
そう言うと、学の瞳が見る見る潤んで、涙の粒がポトリと落ちた。
そして、その場にうずくまって泣き出した。
「ああ、ごめん」
泣かすつもりじゃなかったと、十哉はうろたえた。
「ごめん。兄さんの話は…」
亡くしたばかりの子供に酷だったか。
どうしていいかわからずに、十哉は泣きじゃくる学をそっと抱きしめた。
学は泣きながら、十哉の胸にすがりついて小さな声で呟いた。
「ごめんなさい…」




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