「課長、印刷終りました」
そっと近づいて声をかけたら、
「ああ、そこに置いといて」
藤田課長はパソコンに向かったまま顔もあげてくれなかったから、やっぱり怒っているんだと思った。
「すみませんでした」
思い切って謝ったら、
「えっ?」
課長は顔をあげて、驚いたように目を瞠った。
「何?」
「さっき、印刷室で言ったこと」
「ああ」
課長はいきなり破顔した。そして、ちょっといたずらっ子っぽい顔でニヤリと笑って言った。
「ホントのことじゃないか」
うわーん。いい人だ。
「ごめん、それで迷惑ついでに、今一枚プリントアウトするから、権藤部長にファックスしてくれる?あの人、メールで送っても見ないんだよね」
「あ、はい。わかりましたぁ」
プリンターからウィンという音がしたので飛んでいって、それをファックスにセットした。
やっぱり藤田課長っていい。
チラリと見たら、課長はまたパソコンに向かって真剣な顔をしている。さっきの顔とのギャップがまたいい。
課長!私、バレンタインダービー、課長に賭けますね!!
課長にはなんのメリットも無い話だけど、私は誓った。
東宮主任がいようが、渡来補佐がいようが、このバレンタインダービーは課長を頭にするわ!
そして私は、さっきもらった紙に気合を込めてグリグリと印をつけた。


藤田課長はじめ上の人たちが会議で不在になると、なんとなく私ものんびりしてしまう。
しばらくは伝票の整理とか、ファイルの差し替えとかいつでもいいような仕事をこなしていたけれど、だんだん暇になってきた。いえ、やることはあるんだけど、いつまでっていうのが無いとどうも真剣にやる気にならないのよね。
同期の子にメールでも送ろうかなって開いたら、タイミングよく由美子からメールが入って来た。
藤田課長に賭けること伝えなきゃって思ったら、メールの内容はバレンタインの話じゃなかった。

『B1で内定者研修やってる!すごいハンサム見つけたよ』

うちのビルの地下一階は研修室と会議室になっている。研修室はいつもは代理店さんの研修をやっているんだけど、そうか、今日は来年度入社する新人の入社前研修の日だ。
内定者を囲い込むのに、この時期呼び出すのよね。
それにしても『すごいハンサム』っていうのが気になる。B1の研修室は、外への窓がない分、閉塞感を出さないように片面だけはガラス張りになっていたりするから、ちょっとくらいなら覗けるかしら。ブラインドを下ろされていたら見えないけど。
よし。
「郵便局で切手買って来ますけど、なにかついでに買ってくるものとかありますかぁ?」
声をかけたら平手君が手をあげた。
「ごめん、タバコでもいい?」
「いいですよぉ」
「あ、じゃ、華ちゃん、俺も」
次々に頼まれる。
ふふふ、これで多少帰りが遅くなっても大丈夫ね。
「じゃ、行ってきまーす」
「ヨロシク」
「ありがとね」
感謝の声を聞きながら、まっすぐ地下に。頼まれたものは帰りに買えばいいもんね。
そして、研修室のガラス窓は幸いにもブラインドを上げた状態で、中のフレッシュマンが丸見えだった。
四大卒の子は私と同じ歳くらいなのよね。でもやっぱり子供っぽく見えるのは、私がオジさんに慣れてしまっているからかしら。
そして、由美子の言っていた『すごいハンサム』はすぐにわかった。
うちの会社って、男も顔で取るようなところあるんだけど――営業用?――でも、その割合整った顔立ちの集団の中でも、特に際立って端正な顔の人がいた。
新人の中にいて、一人だけ大人っぽい。
明日からバリバリ働けそうだわ。まあ、見た目だけね。だって、本当のところどういう人か知らないし…って思っていたら、ふっとその彼に以前会ったことがある気がしてきた。
えーっ?どこでだったっけ?
顎に手を当てて考えていたら、突然肩を叩かれた。
「ひっ!」
「何してるんだ?」
書類の束を抱えた藤田課長。ああ、会議って、ここでやっていたのねーっ。
そして、藤田課長を見た瞬間、彼の記憶がよみがえった。
「あっ!」
「な、何だ?」
藤田課長が、私の声に驚く。
「課長、あの人、前に課長を訪ねてきた人ですよね」
件のハンサムをそっと指差した。
「え?」
課長は今初めて気がついたというように研修室を見て、
「ああ、今日、内定者研修だったのか」
ほんの少し表情を変えた。どうって言われても表現しづらいんだけど。優しい感じ?
課長と一緒に会議をしていた人たちは次々にエレベーターのほうに歩いていったから、私と課長の二人だけが並んでその研修室を覗きこむ形になった。
と、その時そのハンサムさんが、突然、振り向いた。
げげっ!視線を感じちゃったのかしら。
私も焦ったけど、課長はいきなり踵を返して、大またで歩き出した。
「あ、課長、ちょっと待ってくださいよ」
突然の課長の行動に、つられて後を付いて行った。
「今の人、お知り合いですよね」
「知らん」
「でも、一度うちの部に来ましたよね」
「知らん」
藤田課長は取り付くシマも無くエレベーターに消えていく。私も一緒に上がってもう少し問い詰めてみたい気がしたんだけど、お使いを頼まれていたことを思い出した。
買って帰らなきゃ、本当にサボっていただけになっちゃうものね。
藤田課長には、今度また聞くことにしようっと。


「課長ぉ〜っ」
「何だ、うるさい」
三時のお茶の時間、昨日のお客さんが置いていった銀のぶどうの東京バナナを配りながら、私はあの男前な新人くんの話題をむし返した。
「本当は、知っている人でしょう?お得意先の息子さんか何かですか?」
「何でそんなに聞きたがるんだ?」
「ええー、だっていい男なんですもの。課長と関係のあるコネ入社だったら、来年ここの部署かも知れないですよねぇ」
お茶を運んできたトレイでニマニマする口許を隠すと、課長は呆れたようにため息をついた。
「あいつは、俺の部署には来ないよ」
「何で、わかるんですか?」
「そんなの渡来が…いや、なんでもない」
「え?渡来補佐がどうしたんですか」
「何でもないない」
「言いかけたこと、やめないでくださいよぉ」
口を滑らしたかどうかしたみたいで、言いかけてからかなりうんざり顔になった課長に、私はしつこく喰らいついてしまった。だって気になるんだもん。
「渡来補佐が、どうしたんですかぁ?」
「え?俺が、どうかしたの?」
「ひっ」
またもや焦って振り返ると、綺麗な渡来補佐がにこやかに立っていた。
何で、また?
という私の疑問は、課長が代弁してくれた。
「何しに来たんだ?」
「何って、あ、東京バナナだ。これ結構、美味いよね」
渡来補佐は、藤田課長の机の上の黄色い袋をとても自然に取り上げて、ピッと破ってなかみを食べた。
「これって東京土産の定番だから、却って東京の人間が食べることって少なくない?」
「その少ない機会を、何でお前が横取りする?」
「あ、食べたかったの?」
「べつに」
課長は、椅子に深く腰掛けなおすと、お茶を飲んだ。
渡来補佐は、突然私を振り返って
「それで、俺がどうしたって?」
訊ねた。そう、私も訊ねている途中だったんだ。
「あ、そうなんですぅ。もともとの話は、さっき見た内定者研修のハンサム君の話でぇ」
ハンサム君なんておちゃらけたような表現は、当然、渡来補佐を意識して。
いい男って表現はちょっとナマナマしすぎるもんね。
あれ、さっき課長にはそんな言いかたしたんだっけ?うーん、藤田課長の方が気安いってことかな。
――なんていうことを私が色々考えている間に、
「内定者のハンサム君?」
渡来補佐の表情が変わった。
「さっき…って、わざわざ見に行ったんだ?」
渡来補佐に言われて、ドキッとした。
「い、いえ、ワザワザっていうほどの…」
「ワザワザなんて見るわけないだろっ!」
私と課長が同時に言った。
へ?
私に訊いているんじゃないの?
渡来補佐も、私じゃなくて課長を見てるし。
なんなの??
「ワザワザじゃなくても、覗いて見たと?」
「あーっもう、お前何しに来たんだよっ」
「昨日ご馳走になったから、今日は俺がおごろうと思って、誘いに」
「何が嬉しくて、二日連荘で、お前と夜飯食わなきゃなんないんだ」
「断る理由だって無いだろう?それとも、何か?終わった後、約束でもしているのか?」
「馬鹿言え。内定者研修の終わる時間、何時だと思っているんだよ」
と、ここで二人の間に気まずい沈黙。
私はといえば、この会話を聞き取るのがやっと。
とても中身を理解できないんだけど、今、何となくわかるのは――課長、ピンチ?
「内定者研修の終わるのは、四時だよ。俺は人事部採用室の人間でね。それくらいは把握している」
渡来補佐の綺麗な顔が、ニッコリと微笑む。そりゃあ、とっても綺麗なはずなんだけど――何だか怖いよ。
「でも、営業の藤田課長も、ちゃんと知っているんだね。来年度の新人のことまで、よく……」
「いや…」
「でも、俺は、『仕事が』『終わった後、約束でも』あるのかって、訊いただけなんだけど……」
「いや、だから、何も約束とか、無い、って…」
「じゃあ、今日の夜は大丈夫だね」
有無を言わせぬクロージング。
渡来補佐も、実は営業向き?
課長の『何となくピンチ』を目の当たりにしながら、何の助け舟も出せなかった私。
しぶしぶ頷く課長を見て、渡来補佐は意気揚々と帰っていった。
そして課長は、恨めしそうに私を見た。
「お前が、変な話題を出すからだ」
「はあ」
でも、やっぱりわからないわよ〜っ!!
なんだったの?
今の二人の会話。


* * *

私の疑問は解けないまま、バレンタインディがやってきた。
正確に言うと前日。
藤田課長に賭けたのはいいけど、正直あの二千円は捨てたと思っているのよね。
そう、二千円も賭けたの。四口。
だってあの時は、課長に悪いことしたなって思った直後だったし、渡来補佐に詰め寄られていた課長はよくわからないけど何となくお気の毒だったし…。
でも、ちょっぴり後悔。
給料日まであと一週間。二千円は、大きい。
二千円あれば外ランチなら二日分、社内食堂で四日分、昼マックで済ませるなら五日分のお昼代よ。マジで明日から昼マックかなあ。
自宅通勤ってことで入社したんだけど、実は今、家を出て一人暮らししているのだ。
無理言って出たから家賃とかも助けてもらえないの。お金使うくせ、早く直さないと大変。
バレンタインダービーも何とか課長に一番になってもらいたいのに、この金欠じゃ私がチョコ買うわけにもいかないし。辛いところよ。
あーもう、東宮主任のガセネタでも流してチョコレート阻止しちゃおうかな。
『実は、ホモです』
なんちゃって。
あれ?
なんか、今、閃きそうになったんだけど。何だろう?
うーん。
夢の中で解いたテストを思い出そうとして、その問題自体がわからないってな感じ。答えのほうが先に出てるって言うか―――。
ああ、だめだ。
大体、私、夢もすぐ忘れちゃう人間なのよね。


なんてことをぼうっと考えていたら、
「ごめん、華ちゃん、手伝ってくれる?」
突然課長に呼びかけられた。
ビクッとして振り返って見ると、ダンボール箱が三つ。
「何ですか、これ?」
「クライアントがね、送ってくれたんだよ」
「何をですか?」
「チョコレート」
「えっ?」
「ほら、去年、アメ横の菓子問屋から管財貰っただろ?あそこのオバちゃんって専務だけどさ、その人が『営業なら使うだろ』って」
「課長、あの専務に気に入られてましたからねぇ」
平手君が手伝いに来て、ダンボールの中を確認して言った。
「節分の豆よりは使えますよ、たぶん。とりあえず明日訪問する先には、もって行きますか?」
「いや…」
藤田課長は、チョコレートの箱の裏を見て首を振った。
「賞味期限、見てみろ」
「げっ、ギリギリ」
「微妙に過ぎてるのもある……食えなくは無いだろうけどな」
「なんで、そんなの…」
「売り物にならないから、送ってくれたんだよ。あのオバちゃんは営業が配るバレンタインの義理チョコなんて形があればいいって思ってんだから」
「はあ、これもあの専務からの究極の義理チョコですかね」
「ははは、そうだな」

その言葉に、私は閃いた。

今度こそ、これははっきり閃いた。
「課長!これ、いくつ届いています?」
「あ?五十個入りが三つだから、百五十だろ」
そう言ってから課長は、あからさまにうんざりした顔をした。
私は、逆に小躍りした。

バレンタインダービーのお約束―――『義理チョコも含む』

ダンボールのあて先は、紛れも無く藤田課長宛てになっている。
「やったーっ!!」
「ど、どうした?華ちゃん」
「わーい。明日は、いい日になりそうですねぇ」
「は?」
二人はぽかんとしていたけれど、説明はまだ出来ない。
課長、配当入ったら、ご馳走しますね!!





おわり




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