順一視点
トオル――その名前には聞き憶えがあった。 文絵さんに連れて行かれたバレンタインディのパーティー。その会場で、仁志の背中に甘えていた青年だ。モデルだと聞いたけれどいかにもという感じの、華やかな子だった。 「昨日は、途中で悪かったな」 「今日の夜、やっぱりお前に付き合うよ」 仁志はひどく優しい声で、そう言った。 昨日、あの後、仁志はそのトオルと会っていたのか。 「帰れ」と言ったのは僕だ。追い返したのも。だから、その後仁志がどこに行こうと、僕に何か言う権利など無いのだけれど、それでも、 (あの子と会っていたのか……) 一度しか見ていないのに密かに気になって忘れられなかった顔が、脳裏に浮かんだ。本当にきれいな子だった。 「じゃあな」 仁志が背中を向けて玄関のドアを開けたとき、思わず声を出しそうになった。 行かないでくれ――と。 けれども、新崎さんがいるということが、僕にその言葉を飲み込ませた。これ以上、人前で醜態を晒す勇気が無かった。 (行ってしまった) まるで昨日のデジャ・ヴ。悪い夢でも見ているんじゃないかと思った僕の後ろから、 「やれやれ、こう言っちゃ何だけど、本当に彼、若いっていうか、ガキだねえ」 新崎さんののんびりした声がした。 「なっ」 思わず振り返って、 「元はといえば、あなたが泊ったからでしょう」 言ってしまって、ハッと口を抑えた。 「いえ、すみません」 八つ当たりだ。自分で泊めておいて。たった今も、仁志に言ったじゃないか、僕には友だちを家に泊める権利も無いのかと。 「すみません――本当に」 恥ずかしさに顔が上げられない。新崎さんも呆れているだろうと思ったら、 「順一くんって、カワイイね」 クスクスと笑われて、顔に血が上った。カワイイって、何だ。 「あの……」 「彼もオトモダチと遊ぶみたいだし、俺たちも遊びに行く?」 「いいえ。……すみません」 何度も「すみません」を繰り返して、新崎さんには、帰ってもらうことにした。正直、昨日泊めたのも成り行きだったし、休みの日に一緒に遊びに行くほど親しい相手ではないだろう。 そして、仁志にとってトオルは『親しい』相手なのかと考えて、胸の奥がザラリとした。 「朝飯くらい、一緒したかったけどね」 玄関で靴を履きながら、新崎さんが振り返った。 追い出すような真似をして、失礼な事をしているという自覚はある。 「すみません……また今度」 「今度があるんだ」 「あっ、いえ」 弾んだ声を慌てて否定すると、新崎さんは大げさに肩をすくめて笑った。 「そんなソッコー拒否しなくても」 「すみません」 もう何回言ったかわからない。 自己嫌悪に溜め息が出そうになる。 「まあ、いいや。どうせご近所だし、また会うこともあるでしょう」 新崎さんは、ヒラヒラと片手を振って、 「また会う日まで♪ 会えるときまで〜♪」 よくわからない歌を歌いながら、アパートの階段を下りていった。 「はあ」 我慢していた溜め息を大きく吐くと、すぐに仁志の顔が浮かんだ。 『今日の夜――お前に付き合うよ――』 付き合う――? 仁志は、あのトオルという青年と、今日の夜どこに行くのだろう。何をするのだろう。次々に嫌な考えが浮かんでくる。もともと明るい性格などとは思ってないが、こと仁志との恋愛に関しては、自分でも嫌になるほどネガティブなのだ。 「もう考えるな」 自分に言い聞かせ、朝食用にトーストを焼く。冷蔵庫を開くと、 「あっ」 昨日新崎さんがコンビニで買ったトマトジュースがそのまま残っていた。ひょっとして朝用だったんだろうか。飲ませず追い帰したことに、罪悪感が増す。胸が重くなって、冷蔵庫を閉じると、セットしたトースターの取り消しボタンを押した。 (昨日の掃除の続きでもしよう) バスタブやシャワーヘッドは既に掃除済みだったけれど、思い切って天井の換気扇までやっつけることにした。色々考えないためにも、こういう作業に没頭したい気分だ。 隠れていた大量のカビやホコリに顔をしかめながら、ほとんどむきになって腕を動かした。自分の胸のモヤモヤまでこそぎ落すように。けれども、目の前の汚れは消えてくれても、仁志の言葉もトオルの顔も、消えてはくれなかった。 追い立てられるように、次々に掃除のし残しを見つけては、唇をかんで雑巾を動かす。 見違えるほどきれいになったレンジ台を前にして、 (何、やってんだ) 自分のしていることに気がついたら、情けなくて、力が抜けた。 (これじゃあ、まるで、亭主の浮気を疑って嫉妬に狂う主婦だ) 真っ黒に汚れた雑巾を見て、ふと、仁志は今までに一度でもこういった掃除をしたことがあるのだろうかと考えた。 「きっと……無いだろうな」 きれいに片付けられた、豪華なホテルのような部屋。雑巾にできるような古いタオルの一枚も無い。 ―――住んでいる世界が違うのだ。 『それでまた君が、そういう束縛も我侭も、許してるんだろうね』 昨夜の新崎さんの言葉が浮かんだ。 許している――そうじゃない。許すとか、許さないとか――そんなレベルじゃなく、僕は、仁志に逆らえない。 例えちょっとした喧嘩をしたとしても、僕の中にはいつだって、仁志に嫌われたくないと思っている自分がいる。あまりにも自分とは違う、全てに恵まれすぎの男に「嫌われたくない」という卑屈な気持ち。 その自分の卑屈さに気がついたら、ネガティブ思考に拍車がかかった。 すなわち、同じ男同士なのに情けないとか、やっぱりこんな自分は仁志にふさわしくないとか、今は良くてもそのうち必ず仁志に捨てられてしまうだろうとか。 この「捨てられる」という発想こそが、卑屈以外の何ものでもない。 「ああ、もう……」 仁志と付き合っている間、こんな思いをし続けることになるのだろうか。 「なんか、疲れた」 それはそうだろう。けっこう遅くまで飲んだ翌日、朝から何も食べずに掃除をしまくっているのだ。自分できれいに磨いた床に座り込み、バタンと仰向けに倒れると、指の先に充電中の携帯電話があった。そのまま手にして、慣れたボタンを押す。 今、どこにいる? 何してる? トオルっていう子は、そこにいるのか。 謝りたいのか、責めたいのか。わからないまま、コールを聞いた。仁志の声を期待していたのに、聞こえてきたのは事務的な女性の合成音。 「…………」 携帯に出られない理由を勘繰ると、胸が締め付けられるように痛んだ。 「……もう、……」 それだけ言って、慌てて切った。 何を言うつもりだったんだ。 もう、嫌だ? 疲れた? それとも、もう、あんなことはしないから許してくれ? もう、仁志の嫌がることはしないから、戻って来て――? 全部正解のような気がして、そのまま目を閉じた。 やっぱり寝不足だったらしく、すぐに睡魔が襲ってきて、沈むように眠ってしまった。 激しい音にビクッと目を覚まし、それが玄関のドアを開けた音だと気がついたときには、大きな手に肩を押さえつけられていた。 「ひ、仁志?」 まさに今にも喰い付いて来そうな狼のように獰猛な目をして、仁志が目の前にいた。正確に言うと、僕の上に馬乗りになっている。 パーティー用だろうか、初めて見る高そうな生地のスーツに派手なネクタイ。こんな状態なのに、色男ぶりに思わず見惚れた。 仁志は、何も言わずに僕を睨んでいる。呼吸が荒いのは、まさかここまで走ってきたわけじゃないだろうが、そうとう慌てているように見えた。 「どう、したんだ?」 訳がわからずそう訊ねると、仁志は目を鋭く細めた。 「もう、何だよ」 「え?」 「もう何だって、言いたかったんだ」 激しい問い掛けに、 「あ」 昼間の携帯電話のことを思い出した。 「別れねえぞ」 仁志の言葉に、僕は目を瞠った。 「何を言おうとしたか知らないが、もうやめようとか、別れるとか言うんなら、聞かないからな」 (仁志……) 思いがけない言葉に僕が何も言えずにいると、仁志は、グッと唇をかんで、 「誰にも、渡さない」 肩に置いた手に力をこめた。 「順一は俺のものだ。絶対に、誰にも、渡さない」 『それでまた君が、そういう束縛も我侭も、許してるんだろうね』 そうじゃない。 許すとか、許さないとか――そうじゃなく、僕は今、この束縛を、身体が蕩けそうなくらい幸せな気持ちで受け止めている。 「仁志……それで、来たんだ」 僕の、うっかりつぶやいた一言のために。表参道から車を飛ばして? 「ちょうど店で着替えてて……しばらく気がつかなかった」 それが大変な失策でもあるかのように仁志は唸った。 「着歴見て、メッセージ聞いて」 仁志はそれまで鋭かった瞳の険を消すと、柄にも無く、ためらいがちにつぶやいた。 「血の気が引いた」 「なんで」 「あいそ尽かされたのかと思って」 仁志から出たとは思えない言葉。 「どうして、僕が仁志に愛想尽かすんだよ」 逆のことならあったとしても。 「謝ろうと思ったんだよ。ごめん」 僕もこの状態に毒気を抜かれたのか、すんなり言葉が出た。 「新崎さんのこと軽率だった。もうしないよ、仁志の嫌がること」 いくらただの友だちだといっても、相手に色々勘繰らせるようなことをするのは良くない。トオルの件で、身をもって知った。 「ホントに、ごめん」 「順一……」 仁志の声が掠れた。 肩にあった右手がゆっくりと頬に触れ、親指が唇をこじ開けるように撫ぜる。これはいつものサイン。 僕はゆっくりと目を閉じた。 飢えた狼が圧し掛かってくる。 「あ……仁志……っ」 せっかく磨いた床に仁志は土足であがっていたけれど、それを注意するような余裕など当然無かった。 そんなことより、いつものように翻弄された僕は、仁志が好きだというあられもない声を、開け放していた窓やアパートの薄い壁越しにご近所に聞かせることになったのだけれど、もちろんそれに気づいたのも後の祭りだ。 |
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