仁志視点

 頭を冷やそう。そう思って車に乗った。

 順一に「帰れ」と言われて俺は少なからず動揺していた。
 あのままあの場に居たら、それこそ順一に何をしたかわからない。

「僕だって、痛い」
 そう言って俺を睨んだ順一の顔が頭をよぎって、無意識にアクセルを踏む足に力が入った。自分がどこをどう走っているのかに気がついたのは、ずい分経ってからだ。
(川崎か?)
 何でこんな所を走っているんだ。
 標識も見ずに飛ばしていた事を考えると、事故らなかったのが奇跡だ。マンションに帰ろうとハンドルを切りかけて、今戻れば、隣の二人の『いいカモ』になるだけだと思った。

「あらぁ、順一さんと仲直りできなかったのお」
 わざとらしく大声を出す文絵が容易に想像できる。
 そして正輝のニヤつく顔も。
「そりゃあ仁志さん、アンタがワルイ」
 全く似てないみのもんたの真似をする正輝の声に、俺は家に帰るのをやめて、横浜方面に車の鼻先を向けた。
 ホテルに泊ろう。頭を冷やすにはその方がいいだろう。

 藤嶋グループのポートフロンテージFホテルは、横浜でみなとみらいの計画が生まれたばかりのころ――ちなみに俺は生まれる前――俺の祖父が、造船所の跡地を買い取って建てたものだ。
 五年前に大規模なリニューアルをして、低層階に名だたるブランドショップを数多く呼び込んだので、今じゃランドマークや大観覧車と並んで横浜の名所の一つになっている。そのリニューアル計画の際、まだ女子大生だった文絵が綿密なマーケティングと、それ以上に細かい口出しをしたらしく、文絵は今のポートフロンテージを自分の作品だと自負している。ただひとつ残念なのが、
「お祖父様の付けた名前を変えられなかったことよ。ポートフロンテージフジホテルじゃねえ」
 なんだそうだ。
 藤嶋グループのホテルのほとんどには、フジホテルの名がついている。祖父はそれをブランドとしていた。文絵は百歩譲って、ポートフロンテージについてはそれをFと表記させる事で折り合いをつけた。それでもまだ本当は『ポートフロンテージ』というのも変えたかったのだと、こぼしていた。
 結局、その文絵の作品に泊るのかと思うと、何だか、逃げても逃げてもお釈迦様の手のひらの上だったという石猿のようで癪にさわるが、一番心地よいホテルなのだからしかたがない。正輝からは、
「だから仁志はシスコンなんだよ」と、からかい半分に言われるが、身内の贔屓目でなく、俺は文絵の商才は評価している。
 あの小姑根性さえなけりゃ、いい姉だ。

 いつもの部屋にチェックインを済ませて、シャワーを浴びた後、ルームサービスを取ろうとしたのだが、思いなおしてキャンセルした。
 元々そんなに食べたいわけじゃないから軽いものでいい。なら、順一のいない部屋で独りモソモソ食うよりは、せめて人気(ひとけ)のあるラウンジで景色でも眺めながらのほうがマシだと思ったのだ。
 最上階のバーラウンジに行くと、わざわざ出てこなくてもいいのに支配人が現れて、文絵の言う『VIP席』に自ら案内をする。
「どうぞ、こちらのお席に」
「一人の時には、気を使ってくれなくていいから」
「そう言われましても」
 顔見知りの支配人は、口元をほころばせた。
 まだバータイムには少し早い。ビールと軽食を頼んで、煙草に火をつけた。



「もうすぐだよ」
 はしゃいだ女の声に、すぐに観覧車のライトアップのことだと気がついた。これを見るためにわざわざやって来たというふうな女のグループが、嬉しそうに窓の外を指差している。
「きれーい」
「ホント、花火みたい」
 あまりによく聞くフレーズに思わず苦笑が洩れる。そんな歌詞もあったな。

 それでも俺も、初めてこれを見たときにはその美しさに目を奪われたものだ。ブル―、グリーン、イエローと鮮やかに光の糸を伸ばす大観覧車を眺めながら、子どものころの記憶をよみがえらせる。


 順一は、この眺めを知っているだろうか。


 もちろん有名な大観覧車だ。できた当時は話題になったし、一度も見たことないなどとは言わないだろう。だとしたら――
(いったい誰と一緒に見た?)
 あの、大学時代に付き合っていたという男とだろうか。
 それとも、他に――
(まただ)
 自分に呆れて、息を吐く。
 自分が酷く嫉妬深いということは、順一と付き合い始めて知った事だが、過ぎた時間(とき)にさえも嫉妬するとは、全く度し難い。
 けれども、もしもできることなら時を戻して、昔の順一まで自分の物にしたいと思う。
 この時計でもある大観覧車のイルミネーションを逆回転させて、五年前、いや十年前までさかのぼらせて、順一が初めて恋する男に自分がなりたい。
(……って、そんときゃ俺は小学生か)
 不毛な思いに、我ながら情けなく肩の力を落とした時、いきなりその肩を叩かれた。
「よう」
「填島」
 振り返ると、ここ数年来の遊び友達、填島(まきしま)が立っていた。汐留にある業界最大手の広告代理店に親のコネで入社しながら、副業のネットビジネスの方で本業の数倍稼いでいるという男だ。

「トオルがお前を見つけてさ」
 そのトオルは、填島の後ろで機嫌悪そうに横を向いている。自慢のきれいな顔が台無しなふくれっ面だ。
「ほらトオル、お前が話したかったんじゃないのか」
 填島がトオルを前に押しやったが、トオルは、
「別に……」
 ふくれたままだ。
「何だよ、機嫌悪そうだな」
 モデルのトオルとは、昔、遊びで付き合っていたことがある。その頃も、何か拗ねてはこういう顔をしていたな。
「俺が何かしたか」
 その頃の会話を思い出して口に出すと、
「何かぁ?」
 トオルは声を裏返らせた。自分の声に慌てて、さっとあたりを見回し、今度は声をひそめて言う。
「まさか、忘れたわけじゃないだろ」
「何をだ」
 本当に心当たりがなくて訊ねると、
「なっ」
 トオルは、今度は顔を赤くした。
「二月。バレンタインの夜っ」
「バレンタイン?」
 バレンタインの夜は、順一と一緒だった。仕事で忙しいとか言っていたくせに、わざわざ俺のいる店までチョコレートを持ってきたのだ。あまりに健気でかわいくて、そのままホテルに連れ込んでしまった。
 ついついあの夜の激しいセックスまで思い出していたが、
「なに考えこんでるんだよ」
 トオルに罵声を浴びせられて、顔を上げた。
「あの日、お前と何かあったか」
 言われてみれば、順一が来る前にトオルと何か話をしたような気もする。
「信じられない」
 トオルは大げさに首を振って、俺の隣に腰を降ろした。全面ガラス張りの窓に向かってしつらえられた半円形のソファには優に大人四人が座れる。トオルの向こう側に填島も腰かけた。

「憶えてないんだ?」
「だから何をだよ」
 いいかげん俺も苛々してきた。それを声色に感じ取ったのか、トオルの顔が一瞬、怯えたように歪んだ。
「もう、いい」
 トオルが諦めたように言うと、
「ホントにいいのかぁ」
 ニヤニヤと填島が人の悪い笑みを浮かべる。
「何だよ、填島が知ってんなら言えよ」
「いやいやいや」
「はあ〜」
 トオルは、大きな溜め息をついた。
「本当に、あんたって、自分のことしか見えてない男だよね」
「いや、今は、自分のことすら見えてないぞ。何せこいつは、今、恋する男だからな」
「何だよ、お前ら。二人して俺を怒らせに来たのか」
「そういうわけじゃないって」
 と、填島は片手をあげて、自分達の注文をする。俺も食事が済んだので、カクテルを頼むことにした。
「ドライ・マンハッタン」 
「かしこまりました」
「まあ、それで、トオルのことはともかく」
 ウエイターが去ると、填島がいつもの調子で仕切り直す。
「偶然会えてよかったよ。仁志、明日の夜、空いてる?」
「明日?」
「表参道でプロムがあるんだけど」
「プロム、って、何だよ」
 ハイスクールの卒業パーティーに、何故、俺が呼ばれないといけないんだ。
「つーか、お前だってオヤジだろう。保護者か、先生役か」
「そうじゃなくって、コンセプトがプロムっていうの?」
 填島は、自分で自分に尋ねるように語尾を上げた。
「森泉がニューヨークから帰ってきたのは知ってるだろ。それで流行(はやり)の表参道に店出すらしくって、そこのコンセプト」
「意味わかんねえ」
「今、セレブに憧れるOLとか多いじゃん。で、パーティードレスなんかも着たいんだけれど、そうそう機会があるわけじゃない。ヒトの結婚式じゃ主役にはなれないしな」
 ウエイターが、銀のトレイでカクテルを運んできた。
「あ、ありがと、そこに置いて。そこでだ、そんな彼女たちに擬似セレブパーティーの機会を与える。背中のあいたドレスにピンヒール、ブランドのバッグなんかを見せびらかす機会をね」
「それでプロムか」
 パーティーの練習という意味では、言葉の使い方は適当なのかもしれない。それにしても、いかにもあの森泉の考えそうな事だ。
「SEX and the CITYの見過ぎだと思うけどね」
 トオルが、マティーニを口に運びながら上目遣いに俺を見た。
「でも、仁志が一緒に行ってくれるなら、僕も行こうかな」
「あいにく。俺はお前のパートナーにはなれないな」
 思わせぶりな黒い瞳を見返して、はっきりと断った。
「もう相手がいる」
「ふん」
 トオルはグラスを置いて、俺のタバコに手を伸ばし、
「フツーのサラリーマンなんだって?」
 紫煙と一緒に吐き捨てた。
「どこがいいの」
「全部」
 ニヤリと笑ってやると、トオルはひどく悔しそうな顔をした。
「ホントあんたってサイテーだよ。フツー昔の男にそんな事言える?」
「お前こそ、ヒトの恋人つかまえて『どこがいいの』なんて言ってるじゃないか」
「はいはい、だから両成敗。ここはこの大岡忠相にあずけてあずけて」
 填島が割って入ってきたのを潮時に、切り上げる事にした。
「じゃあ」
「えっ、まだ早いだろ」
「ちょっ、仁志、怒ったの?」
「別に。明日早いから、もう寝る」
「嘘だろ、まだ宵の口」
「ねえ、謝るから。もうちょっと一緒に飲もうよ」
 引き止める二人を振り切って立ち上がる。
「悪いな。ここの支払いはいいから、ゆっくり飲んでろよ」
 伝票を取ってウェイターに渡す。この後の二人の飲食も部屋に付けてくれと伝えてカードキーを見せれば、俺のことを知っているらしく、
「かしこまりました。藤嶋様」
 恭しく頭を下げられた。
 追いかけてきた填島が、
「そのお前のかわいい恋人と一緒に来いよ。絶対楽しいから」
 俺のポケットに名刺サイズの紙を押し込んだ。明日のプロムの招待状らしい。
 俺は黙って手を振った。
 間違っても、順一が行きたいと言うはずがない。
 その後、トオルから携帯に電話が掛かってきたが、無視をした。





 翌朝、まだ早い時間にチェックアウトして、俺は順一のアパートに車を飛ばした。昨日は「もう来るな」と言われたが、俺がそれを「分かりました」ときくような男じゃないことは、順一も承知だろう。
 八時半という時間に、まだ眠っているだろうかと思いながら呼び鈴を押すと、
「はい?」
 戸惑うような声とともに、すぐにドアが開いた。
「仁志」
 順一は、俺を見てひどく驚いた顔をした。順一のアパートには、来訪者の顔を確かめるものが無いのだ。それも無用心だなと内心思いつつ、
「順一、昨日は」
 悪かった――と続けようとした俺は、その言葉を飲み込んだ。順一の後ろから、あの男、新崎とかいったアイツが現れたのだ。
「あれ?」
 来ちゃったんだ、と笑う男にカッとして、
「この」
 土足のまま部屋に上がって、胸座を掴もうとして、
「やめっ」
 順一に止められた。
「やめてくれ、仁志」
「何で、こいつがここにいる。泊ったのか」
 思わず怒鳴っていた。
 順一の部屋に俺以外の男が泊った。
 そう考えただけで、嫉妬で頭が焼き切れそうになった。
「泊めたよ」
 そんな俺の気持ちも知らず、順一は、寝起きの無防備な顔を晒しながら言う。
「いいだろう。普通のことだよ。それとも僕は、友だちを家に泊めることも許されないのか」
(友だちを――)

 昨日会ったばかりじゃないのか。
 俺が妬いたことだって、分かってるんだろう。 

 俺は、不意に、目の前のおとなしそうな顔が憎らしく思えた。
 何も知らない顔をして、俺の中を、こんなにかき回して。
 みっともないと思う。
 こんな俺は、俺じゃない。

 日曜の朝っぱらからこんな醜態を俺に演じさせる順一が、今日は、たまらなく憎い。

「そうだな」
 俺は、ポケットから携帯電話を出した。
「お互い、友だちはいる」
 着信履歴の一番上にコールする。
「ああ、トオルか」
 順一の顔が青ざめたように見えた。それを見て、却って加虐的な気分になって、わざとらしいほど優しく、まだ寝ていたらしい相手にささやいた。
「昨日は、途中で悪かったな」
「どうしたの? 仁志? マジで?」
「今日の夜、やっぱりお前に付き合うよ。表参道だっけ。ヒルズで服を揃えるから待ち合わせしよう」
 受話器の向こうで、何だか訳のわからないことをトオルが言っていたが、全く耳に入らない。
 
 俺は、順一の視線だけを意識していた。

 携帯を閉じて、
「今日は、お互い、オトモダチと仲良くする日だな」
 そう言ってやったら、
「トオル、って」
 順一が、聞き取れないほど小さな声で訊ねた。
 順一は、トオルのことは知らないはずだ。
「俺の、友だち」
 苦々しい気分で答えたら、順一は何か言いたそうに唇を震わせた。
 いつもならむしゃぶりつくその唇から、次にどんな言葉が出てくるのかと待ったけれど、
「そう」
 ずいぶん待って出たのは、そんなそっけない一言だった。

 



 




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