順一視点
押し込まれた助手席で、仁志が圧し掛かってくる。 てっきり車に乗せられて仁志のマンションに連れて行かれるのだろうと思っていた僕は、事の次第に気が付いて血の気がひいた。 「やっ、やめろ、って」 仁志の胸を押し退けようと腕を突っ張ったけれど、 「いたっ」 仁志は、片手で簡単にそれを封じる。 力の差は歴然で、抵抗しても無駄だということは今までに何度も経験して身に沁みている。けれども今回ばかりは、抵抗しないわけにはいかない。何しろ、ここは僕のアパートのすぐ側だ。もしも通りかかった人が、覗き込んだりしたら――。 「やめろってば! 痛いって言ってるだろ」 きつく押さえつけられ、シャツとセーターを同時に捲り上げられて、悲鳴に近い声をあげた。 「何考えてる、このバカッ。離せっ」 仁志は僕の叫びを無視して、太股で僕の脚を押さえたままジーンズのボタンに指をかける。僕は、その手を外そうと身体を懸命に揺すった。 「バカ! やめろ、何するんだ、こんなとこでっ」 僕の声はもう情けなくも半泣きになっている。 「人が見たらどうする」 (こんな――) 車の中でレイプされているようなところ、近所の人に見られたりしたら、 「もう、ここにいられないだろっ」 「だったら、引っ越しゃいいだろ」 返ってきたのがこの言葉で、僕はいっぺんに力が抜けた。 (……それで?) それでなのか――こんな真似をしているのは。 仁志は、僕の抵抗が止んだからか、圧し掛かっていた腕の力を弱めて、それでも僕の上からはどかずに、ゆっくりと唇を重ねてきた。 「…ッ」 ガバッと仁志の身体が離れる。背中がぶつかったのだろう、車体が揺れた。 「いてぇ」 僕が噛んだ唇を押さえて、仁志は低い声で唸った。 「……僕だって、痛い」 思わず涙が滲んだけれど、目を逸らさずに睨んだ。 「順一」 「退けよ」 睨んだまま言うと、仁志はおとなしく助手席のドアを開けた。 僕は、セーターを降ろしジーンズのファスナーを上げボタンをとめて、先に降りた仁志の顔は見ないようにして、車の外に出た。 「順一」 もう一度名前を呼ばれて、 「……帰れよ。もう……うちに来るな」 絞り出した声は、苦くのどに絡みついた。 下を向いているから、仁志の表情はわからない。掴みかかられるだろうか、と一瞬考えたけれど、 ガチャ 静かに車のドアの開く音が聞こえた。 ハッと顔を上げると、仁志が黙って運転席に乗り込んでいる。一度も振り向かずにキーを回す。 そして、エンジン音とともに濃紺のスカイラインが遠ざかる。 自分で「帰れ」と言ったくせに、本当に行ってしまった仁志を、僕は呆然と見送った。 「あ……」 怒らせたのだと気がついて、急に身体が震えた。 (仁志……) 口を押さえて、思わずその場に座り込み、 「大丈夫?」 いつかと同じ声を聞いた。 「新、崎さん……」 いつの間に、ここに? 背中から覗き込むようにして僕を見る目が、労わるように優しく細められた。 「若いね、彼」 僕の左腕を掴んで、引き上げるようにして立たせる。 「あ、あの」 (いったいどこから見られていたのだろう――) 焦る僕の心を読んだかのように、 「今、来たところ。すぐに追いかけようと思ったんだけど、純一がいたからね。送り届けてから来たら……」 続きの言葉を飲み込んで、新崎さんはいきなり謝った。 「ゴメンね」 「え?」 「彼を、ずい分、煽っちゃったから」 もうとっくに影も形もないスカイラインの消えた先に目をやる。 「それは……」 確かに、新崎さんは仁志の事を挑発していた。でも、それは確か、仁志が先に何か失礼な事を言ったからじゃなかっただろうか。違ったかな。最初、新崎さんが、一緒にお花見をしないかと誘って、それで―― (それから……?) 酒が入っていたからか、きっかけを思い出せずにいると、 「少し寒くなったね。ねえ、君のアパートで飲み直さないか」 新崎さんに言われて、僕は目を見張った。 「うちで?」 「うん。目の前だし。俺がビールと食べ物、買ってくるよ」 「あ、でも」 「散らかっているからとか言うのナシね」 手を振って、新崎さんは踵を返した。本当にコンビニに行くらしい。僕は慌てて、追いかけた。 「あの」 「ん?」 「やっぱり、あの……」 どう上手に断れば角が立たないだろう。頭の中でグルグル言葉を探していると、 「ああ、さっき俺が言ったこと気にしてるんだ。大丈夫。さすがにいきなりあがりこんで変なことなんかしないよ。手は出さないから、安心して」 「…………」 そんな心配をしていたわけではなかった僕は、完全に言葉を失った。 「まあ、さっきのは『売り言葉に買い言葉』ってヤツ。彼、独占欲ものすごく強いでしょう。ああいうの見るとダメなんだよね。俺」 新崎さんは苦笑いした。 「まあ、これも何かの縁でしょう。君とはちょっと一緒に飲みたいんだ」 「…………」 結局、断る言葉も見つからないまま、二人でコンビニでビールとつまみ、それから夕飯代わりの鍋焼きうどんまで買って、僕の部屋に戻った。 「へえ、すごくきれいにしてるじゃない」 「掃除したばかりだから」 「きれい好きなんだ」 「そういうわけでも……」 「だってほら、床に、塵一つ落ちてないよ」 その床に直に座って、新崎さんは言った。 「真面目そうな人だと思ったけど、本当にそうなんだね。掃除も手抜きしないっていうか」 「そんなことないです。本当に、今回はたまたま一気にやっただけで。その、年末の大掃除もしなかったから」 「大掃除か。俺もやってないな」 ビニールケースから取り出した缶ビールのプルトップをひいて、 「まあ、とにかく乾杯」 目の高さに持ち上げた。僕も、仕方なく同じ動作で応える。 「乾杯」 どうして、こんなことになっているんだろう。 今日初めて出会った人と――いや、正確には二回目だけれど、それでも充分『初対面』に近い――そんな人と、こんな風に自分の部屋で飲んでいるなんて。 (仁志が知ったら、何て言うだろう) そう考えた途端、黙って帰ってしまった仁志の事を思い出し、一気に気持ちが沈んだ。 ああ、そうだ。こんなことをしている場合じゃないんだ。 「あれ? どうしたの?」 「えっ、あ……」 「彼のこと思い出して、暗くなってるって感じだね」 「そ……」 どうしてわかるんだ。 「ねえ、君、ええと、順一くんって呼んでいいかな」 甥っ子と同じ名前だから憶えやすい、と新崎さんは言った。 「順一くんって、結構、彼に振り回されているんじゃない」 図星を指されて、何も言えない。言えないので、ビールを口に運ぶ。 「ワガママそうだものね、彼。自分の道は誰にも邪魔させないって『俺様』道を突き進んで生きてきたような」 「それは……」 確かに、仁志にはそういうところもあるけれど――でも、ただ我侭というわけじゃない。 「君との付き合いも、強引に始まったんじゃないの」 そう――だろうか。あの出会いは―――。 初めて会った夜を思い出して、僕は顔が熱くなるのを感じた。慌てて、缶に口をつけてのどを冷やす。 「デートなんかも、彼の言いなり?」 「言いなり、ってことはないです。どこに行きたいかとか、聞いてくれるし」 「聞いて『くれる』ね」 新崎さんは、含んだ目つきで口の端を上げる。言いたい事がわかって、僕は口を閉ざし、缶ビールに手を伸ばした。 「もし順一くんが、他の誰かと一緒に出かけたい、とか言っても許さないタイプだよね、彼」 (それは―――あたってる) 「それでまた君が、そういう束縛も我侭も、許してるんだろうね」 「どうして、そんなことを言うんですか」 わざと意地悪を言っているみたいだ。 僕の問いには答えずに、新崎さんは 「順一くんって、中央線?」 全く違う質問を返してきた。 「え、ええ」 何を言い出すんだ? 「会社は、新宿なんだよね」 「はい」 「知ってる? 三鷹から新宿までの間で、中央線から富士山が見えるところあるの」 「えっ」 知らない。 「本当ですか。どこで?」 「いつも朝、何時の電車に乗ってる?」 「今は、7時33分です。たまに前後しますけど……時間帯によって、見えたり見えなかったりするんですか」 「いや。見えたり見えなかったりはするけど、天候だよね」 「はあ」 それでいったいどこから富士山が見えるのだろう。それを訊ねると、 「ふふふ……秘密」 新崎さんは嬉しそうに笑った。 「秘密、って……」 「探してみなよ」 「探して、ですか」 「じゃあ、ヒント。進行方向、向かって右側の窓から見える」 「それはそうでしょう」 北を見たって、しかたない。 「わかりました。じゃあ、月曜から通勤の時に探してみます」 「そうそう。見つけたら教えろよ」 チーズカマボコをかじりながら片手で缶ビールのプルトップを引く新崎さんは、すっかりひとの部屋に馴染んでしまったようだ。 「ほら、順一くんも」 僕にも二本目の缶を差し出す。いや違った、三缶目だ。いつのまにか飲んでいたみたいだ。 それから新崎さんは仁志のことには全く触れず、会社のことなど話し始めた。新崎さんも、今は違うけれど、入社して三年間は僕と同じ営業職だったそうで、仕事の話も通じる所が多くて、面白かった。 けれども、話の合間に席を立って台所に行くときなど、どうしても仁志の顔が浮かんできてしまい、そのたびに、 (電話しようかな) なんども迷ったのだけれど、結局、何もできなかった。 そのうちに、お酒が回ってきて、だんだん何が何だかわからなくなってきてしまい、次の日が日曜だからという理由で新崎さんを泊めてしまった。 その事に気がついたのも、情けないことに翌日の朝だった。 |
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