仁志視点

「たまに、仁志の金持ちぶったところ、ひどく鼻につく」
 そう言って部屋を出て行った順一を見送りながら、
(こういう場面、前にもあったな……)
 既視感というにはあまりにもはっきりした感覚に、自分たちの喧嘩のパターンに気がついた。なんであいつはいつもいつも、怒ると飛び出していくんだ。そしていつもならそれを追いかける俺なのだが、パターンに気付いた今、なんだかその通りにはしたくない。
 ソファに座りなおして、煙草に火をつけた。
 何をいったい怒っているんだ。
 順一が怒る理由がわからない。引越しして来いといったのが、そんなに嫌だったのか。あいつは俺と一緒に暮らしたくはないのか。
『それは無理』
 あっさり答えた顔が浮かんで、フィルターに歯をたてた。
(ったく……)
 いつだって、俺のほうが惚れている。


 カチャリと玄関のノブの回る音がして、
(戻ってきたのか?)
 ホッとしながらも顔には出さず、わざと渋面を作ってみたが―――
「何やってるのよ」
 リビングのドアが開くと同時に浴びせ掛けられた声に、それは本物になった。
「文絵……」
 後ろには、当然と言うか、正輝の顔もあった。

「何しに来た、お前ら」
「何しにって、仁志が順一さん怒らせちゃうから」
 夜だというのにしっかり塗りたくられて奇妙に光る唇を尖らせて、ソファにドスンと腰掛ける文絵。
「奥さんに逃げられたご主人を慰めようと、ね」
 ちゃっかりビール持参の正輝。六本入りのケースに入ったそれは、最近正輝が気に入ってハワイから空輸している地ビールだ。
 いや、そんなことより
「何で、怒らせたとか、わかるんだ」
 前から気になっていたんだが、この二人、うちに盗聴器でも仕掛けているんじゃないか?
 俺の質問をきれいに無視して、
「あなた、さっきウサギ小屋がどうこうって言ってたわよね」
「えっ? ああ」
「順一さん、ウサギ飼ってるんだ?」
「いや?」
「まあっ、正輝まで何言ってるの」
 文絵は、わざとらしいほどに目を瞠り、
「二人ともそこそこ頭は悪くないって思ってたんだけど、常識は無かったのねぇ」
 ふうっと溜息をついてみせる。
「文絵にだけは、常識を語られたくないな」
「まあ、そうね」
 うなずく正輝を軽く叩いて、
「じゃあ、あなたたち、エコノミック・アニマルって言葉知ってる?」
 突然、何を言うんだ、このオンナ。
「日本人に対する蔑称だろ?」
「働き過ぎ、稼ぎすぎ、で文化が無い。経済大国日本に対しての外国からの評価」
「じゃあ、ウサギ小屋は?」
 何でそうくるのか、と、一瞬言葉に詰まっていたら、
「ああ、俺、聞いたことあったワ。日本人の家のこと。やっぱりどっかの外国人が言ったんだっけ」
 正輝がケロリと言った。文絵が満足そうにうなずく。
「そう、日本人は、ウサギ小屋に住んでいるってね」
「狭くて、小さくて、汚いってことなんかな」
 そんなとこ、自分住んでないからわかんないね――と笑う正輝に、俺は、自分が今しがた順一に言った言葉を思い出して、内心青ざめた。
(狭くて、小さくて、汚い……)
「自分で言うんならともかく、ひとからウサギ小屋呼ばわりされちゃ、キズつくわよね」
 もっともなことを言う我が姉は、
「何で、そんなこと言っちゃったかなァ。知らないって、罪ね」
 ひとのキズに塩を塗りこむのが大好きなオンナだ。
「そうねェ、ちょっと考えれば『ウサギ小屋』が誉め言葉かどうかなんて、言葉知らなくても思いつきそうなもんだしねェ」
 自分も知らなかったことをすっかり棚に上げて、正輝は文絵に同調している。
「全然、わかんなかったワケ?」
「わかんなかったも、なにも」
 ウサギのようにかわいい順一が、自分の部屋のことをウサギの小屋に例えたのだと、本気でそう思った――なんてことを、正直にこの二人に話したら、一生言われつづけるのがオチだ。
「俺だって、ウサギ小屋に住んだことは無いからな。どういう例えかなんてわからなかったよ」
「まあねェ。経済の授業でも、さすがに出てこなかったからね」
「私は、授業で聞いたけどね」
 世代が違うんだよ。
「でもね、その原文はフランス語で、実はパリでいうアパートの俗称だからそれほど蔑称にもあたらないんですってよ」
 無駄な知識をひけらかす文絵を無視して、俺は立ち上がった。
「どこ行くのよ」
「うるさい」
「奥さん追いかけるなら明日にしなよ」
「そうよ、実家に帰った妻を迎えに行くのは、翌日、手土産もって行って土下座よ」
「どうせ明日は休みだし、あわてない、あわてない」
「あのなぁ」
 すっかり俺の部屋で宴会をする気になっている二人を呆れて見下ろす。
「ほら、これ今日届いたんだけど、味濃くてうまいよ」
 言いながら栓を抜いて、正輝はサイドボードからかってにバカラのビアグラスを三つ出してくる。オノロジーの半ダースセット、この二人から誕生日祝いに貰ったが、使っているのももっぱらこの二人だ。
「いい色だろ」
「ったく」
 俺は、ソファに座りなおした。
 そうだ。いつものパターンが嫌で今回は追いかけないことにしたんだ。まあ、俺の失言はともかく、順一だって落ち着けば自分の態度が子供っぽかったことくらい気がつくだろう。明日は掃除をしたいといっていたし、夜になったら迎えに行こう。


 そして次の日。夜になったら、とかいっていたくせに、昼間に起きて正輝と文絵を追い出したら、もう落ち着かない気持ちになった。シャワーを浴びて、窓を開けて、時計を見ると、まだ二時だ。これから迎えに行けば三時すぎには会える。そう思ったら、車のキーをつかんでいた。
 はやる気持ちから高速に乗ったら、どっかの間抜けが事故ったらしく、どうにもならない渋滞だった。こんなことなら下を走ればよかったと後悔しながら順一のアパートに着いたのが四時近く。まだ掃除中だろうかと多少は気にしながら外階段を上がったが、ドアは閉じられていて、少なくとも言っていた玄関掃除をしているところに出くわすことは無かった。
 白いボタンだけの小さな呼び鈴を鳴らしてみたが、応答の気配が無い。ドアに手をかけると、カギがかかっていた。
(出掛けているのか)
 メシでも買いに行っているのかと、しばらく部屋の前で待った。
 順一のアパートは二階建てでエレベーターは無く、金属音の響く外階段を使って上り下りする。順一の部屋は階段上がって一番奥、いわゆる角部屋だ。窓の前にはさえぎる木も何もない。
 この景色を見ているのか―――ところどころ錆の浮いている手すりに両腕を預けて、順一が毎日見ているだろう景色を眺める。東京とは思えないほど緑が多い。高い建物もほとんど無いが、ひとつだけ、いかにもバブル期に立てられましたと言うようなマンションがある。あのマンションがもう少しこっちよりだったら、日照権が脅かされていたことだろう。こじんまりした順一のアパートは、ウサギ小屋という言葉が似合わなくも無い。もちろん、悪い意味じゃない。

『僕が引越ししたくないのは、あのアパートが気に入ってるからだって言っただろう』

 大学時代からずっと住んでいると言っていた。ここから高田馬場まで通っていたのか。けっこう遠いぞ。他に近場で安いところなんかいくらでもあっただろうに、何でここなのか聞いたことなかった。今度聞いてやろう。思えば、二人きりになってもあまりそういう話をしたことがない。というのも、会えばすぐ、近況報告もそこそこにセックスしまくっているからだ。
(俺が、ね)
 ちょっとばかり反省しつつ、ポケットから煙草を取り出そうとしたら無かった。昨夜、正輝に最後の一本を吸われてしまったのだった。買いに行こうかと思ったけれど、
(まあ、いい)
 順一の気に入っているというアパートの、景色をもうしばらく堪能することにした。アパートの玄関は西向きらしく、遠くの空がかすかにオレンジ色に染まり始めた。夕焼けなんて見るのは久しぶりだ。時計を見ると、いつのまにかずいぶん経っている。下の道を見ても順一の戻ってくる様子は無い。代わりに、コンビニの袋を下げて帰ってきた大学生らしい男が、階段を上がって、俺の姿に気付いてあからさまにギョッとした。チラチラとこっちを気にしながら、二つ隣の部屋のカギを開けて入っていく。
(暗そうなヤツだ……)
 俺は、それを潮時に、煙草を買いに行くついでに順一を探すことにした。順一のことだから、行動範囲がそれほど広いとは思えない。出かけているにしても、近場で済ませて帰ってくるだろう。会えなかったら、夜また来ればいい。
 順一が暮らしている町を散策するというのも楽しそうだ。今まで付き合った相手では思いつきもしなかった考えに、ほんの少し浮かれた。
 
 しかし、何分も歩かないうちに、浮かれていた気持ちは冷水をかけられ、ついでに誰かの両手でグシャリと握りつぶされたようになった。そのつぶれたところに、今度はドロドロとした黒いものが注ぎ込まれる。

 たまたま通りかかったアパートの近くの小さな公園。薄暗くなりかけた桜の木の下のベンチに順一が座っていた――男と二人で。
 二人は仲良く、コンビニで買ったらしい惣菜を食べながら、笑いあっている。眼鏡を外して子供っぽい仕草で目をこすった順一の、目元が赤く染まっているのが、ここからでもわかる。酒を飲んでいるらしい。
『酒を飲んだらひどく無防備になるから、絶対に、俺以外のヤツと飲むな』
 いつかそう言ったのに、順一は笑って取り合わなかった。
 そして今も――。
 不意に強い風が吹いて、桜の花びらを舞い散らした。花びらの一片が順一の髪に付いて、相手の男が指を伸ばす。
「順一」
 それ以上黙って見ていられず、俺はベンチに歩み寄った。
「仁志」
 順一は、眼鏡の奥の黒目がちの瞳を丸くした。
「どうして?」
「今日は、掃除をしているんじゃなかったのか」
 順一の『どうして』には答えず、俺は順一と隣の男を睨んだ。
「こんなところで、花見か」
 睨まれた男は、まったく悪びれた様子も無く、
「ああ、君」
 俺の顔を見て、微笑んだ。
「?」
 何がおかしいと、再び眉間にしわを寄せると、
「君も二度目だね。あの時迎えに来た子でしょ」
 わけのわからないことを言う。初対面で、俺のことを「子」とか言うヤツは初めてだ。ムッとすると、順一が舌をもつれさせてしゃべり始める。
「仁志、あの、この人、新崎さんっていうんだけど、前に僕が新宿で、その、具合悪くなっていたとき、助けてくれた人だよ。ほら、すぐに仁志が来て」
 何のことだかさっぱりわからない。それより、順一の右手のビールが目について、
「酒は飲むなといっただろう」
 銀色の缶を奪った。
「すみません、私が誘ったんですよ。最初にサンドイッチをいただいたのでそのお礼に。で、せっかく桜がきれいだから、そこでお花見セットとかいうのを買ってきました」
 俺もさっき覗いたコンビニを指差す。
「よかったら君も一緒にどうですか」
「あいにく、人見知りするたちで」
 知らないお前と一緒に花見なんかする義理は無い、と、順一の腕をつかんで立たせようとしたら、
「それじゃあ、野暮な邪魔しないで、先におうちに帰って待ってたら?」
 やんわりとその腕を押さえつけられた。
「何だと?」
「仁志っ」
 順一は困った声をあげて、オロオロと俺と新崎とかいう男の顔を見比べた。
「せっかく今を盛りの花を楽しんでるんだ。この風流が解せないんなら、帰ってテレビでも見てるんだね」
「桜の下で酒を飲めば風流か。日本の情緒も安くなったもんだな」
「ふふ……安くはないよ。一緒に見る相手次第で値千金(あたいせんきん)
 挑発的な目で俺を見上げる。
(こいつ……)
 こいつがさっき順一の髪に触ろうとした時、嫌な感じがしたのは間違いじゃない。
「新宿で見たときから、ひょっとしてそうかなと思っていたんだけど――」
 新崎は順一を振り返った。
「彼は、君の恋人なのかな」
「えっ」
 もともと酒でほんのり染まっていた順一の顔が、真っ赤になった。
「だったら、どうなんだ」
 何も言えない順一の代わりに答えてやると、
「いや、嬉しいね。前から気になっていた彼が、男でも大丈夫だなんて、そうそうある話じゃない」
 俺にあてつけるように、順一に秋波を送った。
「えっ、ど、どういう……」
 うなじまで赤くしながら、順一はまだトボケたことを言う。わかって言ってるのか?
「恋人がいるって言ってるだろ」
 いいかげんにしろよと低い声を出すと、
「そんなこと気にしていたら恋愛なんかできないよ。君もそういうタイプじゃないの」
 上目遣いに俺を見る目が、おかしそうに細められた。
「むかつくヤロウだな」
「君も、なかなか敵愾心を煽るって言うか、競争心をかきたててくれる子だね」
 はっ、俺と争うなんて身の程知らずもいいところだ。と思いながら、
「成人式はとうに終わってんだよ、子とか呼ばれたくないね」
 最初にムカついたところに立ち返る。
「でもまだ学生だろ、税金も払ってないくせに」
 コイツ、口調を変えやがった。
「所得税、住民税だけが税金だと思ってんじゃねえぞ、オッサン」
 相続税と固定資産税なら目玉が飛び出るほど払ってるんだ。と本当のことを言ってやろうかとも思ったが、この場合、飛び出るのは他ならぬ順一の目玉だろうからやめておく。その当の順一は、
「失礼だよ、仁志」
 オッサンなんて、と、ゴニョゴニョ口ごもっている。
「ははは……一本取られたな」
 新崎は笑って、俺の身に付けているものを上から下まで値踏みするように眺めて、
「確かに、消費税なら、ひとの何倍も払ってそうだ」
 すっとぼけたことを言う。おまけに――
「でも、親の金だろ」
(このっ)
 俺にとっては甚だ不本意な言葉に、思わず拳を握ったら、 
「いてっ」
 背中にいきなり痛みが走った。
(何だ?!)
 と、振り返ると、ガキが俺を睨んでいる。
 どうやら石をぶつけられたらしい。
「何しやがる、コラ」
 脅かすつもりで、右足で蹴るマネをしたら、
「やめろよ、仁志っ」
 順一が、そのガキを庇って立ちはだかった。
「こんな小さな子蹴るなんて、なに考えてるんだ」
 いや、蹴ってないだろ。
「仁志のそんな大きな足で蹴られたら、死んじゃうよ」
 だから、蹴ってないだろ。
「ジュンイチ」
 いきなりの新崎の呟きにギョッとした。いつの間に名前で呼ばせてるんだ。
「ジュンイチ、こっちにおいで」
「ふざけんな」
 俺は、順一の手首を掴むと、そのまま公園の外に引っ張っていった。
「痛い、痛いよ、仁志っ」
「すぐにもっとイタイことしてやるよ」
「待って仁志、何かかん違いしてるよ」
 勘違いじゃない。
 さっきハッキリ告(コク)られていただろう。どうしてこうも、鈍なんだコイツは。
「お願い、待って」
 煽っているとしか聞こえない順一の声。
 俺は、苛ついた気持ちのまま、アパートの傍に路駐していたスカイラインの助手席に順一を押し込んで、そのままシートを倒した。
「やっ……」






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