順一視点

「すごい」
 いつのまにか満開になってしまった桜を見上げて、思わず感嘆の声を漏らしてしまった。確か先週の土曜日に同じベンチで見上げたときには、まだ蕾も固そうで、本当に今年の春は桜が遅いと感じていたのに。
たった一週間で、こんなにも違ってしまうのか。
(そういえば、ここのところ急に暖かくなったからな)
 小さな児童公園の真ん中に立つ一本の桜は、大きく枝を伸ばして僕の頭の上まで満開の桜を届けてくれている。なんだか得した気になって、花見気分で、コンビニで買ったサンドイッチを――家で食べるつもりだったのだけれど――袋から取り出した。食べながら、仁志にも見せてやりたいと、ふと思った。そう、豪華な食事も珍しいお酒もいらない。こんな風にコンビニで買ったサンドイッチとビールかなんかで、近所の公園でぼんやり桜を見て過ごす。そんな時間があってもいいんじゃないか。
 一人で見るには勿体無い桜の下で、昨夜の喧嘩とも言えないやり取りを思い出して、僕は小さく溜息をついた。


 仁志と付き合い始めてから、週末は仁志のマンションで過ごすことが多くなった。二月、三月の土日は、ほとんど家にいなかったから、さすがに部屋がマズイ状態になってきて、先週の土曜日は仁志のところに行かずに、布団を干したりシーツやカバーの洗濯をしたり、掃除機をかけたりとハウスキーピングに徹したのだ。桜の蕾を見たのも、切れた洗剤の買い出しに行った帰りだった。
 そして今週も――
「明日は掃除をしたいから、今日は家に帰るよ」
 ホテルから届けてもらったらしい立派過ぎる夕食の後でそう言うと、仁志は、形のいい眉を寄せた。
「先週やっただろう」
「先週したから今週はしなくていいってものじゃないよ。っていうか、先週、風呂の掃除までできなかったんだ。あと玄関も。少し掃除したら、なんだか汚れてるところが気になって」
「そんなの、誰かにやらせろ」
「誰かって、誰だよ」
「掃除代行業なんて、いくらでもあるだろう」
 当たり前の顔をして言う仁志に、僕は呆れてしまった。
「普通の家では、そんなもの頼まないよ。引っ越すわけでも無し」
 そう言えば、仁志のこの部屋はずいぶんきれいにしていると思ったけれど、定期的に家政婦さんが通っているらしい。正輝の部屋も。なんて甘やかされているんだ。
「仁志も、部屋の掃除くらい自分でしろよ」
 僕の説教に耳を貸さずに、
「そうだ。引越ししろ」
 仁志は唐突なことを言った。
「何?」
「順一がうちに住めばいい。そうしたらあのアパートに帰ることも無い」
「何を言い出すんだ」
「その方が会社に通うのだって便利だろう」
 確かに、そうだけど。
「何もわざわざ西の果てのアパートに帰って、満員電車に揺られて通勤することも無い」
 仁志の言い方に、ムッとした。
「確かに、僕のアパートは西の果てのウサギ小屋だけど」
 大学時代から住んでいる、愛着のあるアパートだ。
「ウサギ小屋?」
 クスと仁志が笑った。それが癇に障って、
「狭くて古いけど、気に入ってるんだよ。満員電車だって慣れれば快感だしね」
 勢いで言ってしまった。
「快感?」
 上目遣いに見つめる仁志の眉が、片方だけ跳ねあがる。
「えっ、いや」
 そういう快感じゃない。言葉のあやだ。
「知らない男とくっついて揺れるのが快感なのか?」
「ちがう」
「たまにケツとか撫でられたりしてんのか」
「そんな」
「じゃあ、何が快感なんだ」
 テーブルを回り込んで、仁志が覆い被さってくる。
「嘘。快感は、嘘です」
 すぐにギブアップすると、
「じゃあ、引っ越して来い」
 男らしい顔でニヤリと笑った。
「それは無理」
 即答。
「なんで」
「更新したばっかりだから」
「はい?」
「三月末で契約更新したんだ。家賃一月分余計に払ったし。勿体無いだろ」
「そんなもん、俺が払ってやるよ」
 再びカチンと来た。
「なんで、仁志が払うんだよ」
「家賃が勿体無くて引っ越したくないとか言うからだ」
「そんなこと言ってない」
「たった今言った」
「僕が引越ししたくないのは、あのアパートが気に入ってるからだって言っただろう」
「どこがいいんだ」
 仁志は肩をすくめて言った。
「だったら、この部屋をリフォームして順一の好きなようにすればいい。ウサギ小屋を作ればいいだろう」
「なっ」
 僕は椅子を鳴らして立ち上がった。
「ウサギ小屋で悪かったなっ」
「えっ?」
「たまに、仁志の金持ちぶったところ、ひどく鼻につく」
 そのまま上着を掴んで、玄関を飛び出した。

 ――どうして僕は、何かあるとすぐに飛び出したり、逃げ出したりしてしまうんだろう。
(自分でも、嫌になる)

 ふうと、何度目かの溜息をついたとき、目の端を何かが走り抜けた。と思ったら、それは駆け戻ってきて、
「これ、お兄ちゃんの?」
 ベンチの横に置いていたコートを指差した。四、五歳くらいの男の子だった。
「う、うん」
「貸して」
「え?」
 男の子は、僕のコートを広げるとベンチの下に裾を半分ほどたらして、
「落ちないように持ってて」
 僕に命じて、ベンチの下にもぐりこんだ。
(な、何なんだ……)
 唖然としていたら、いきなり
「もういいよぉーっ」
 男の子は、声を張り上げた。
(かくれんぼ?!)
 何も僕の座っているベンチの下に隠れなくてもいいじゃないか。しかも、僕は共犯と言うか、匿っていることになるのか。持っててといわれて、つい押さえてしまったコートを見て焦っていると、
「ジュン、どこかなあ」
 のんびりした声とともに、父親らしい男が歩いてきた。
(うっ……子供同士じゃないのか)
 ますます気まずい。知らん顔して立ち上がろうかとも思ったけれど、それもこの子に悪いような気がする。足元にいる少年を気にかけていると、
「あれ?」
 父親は、気がついたのか、僕のほうに近づいてきた。
「あの」
 話し掛けられて、
「すみません」
 とっさにあやまってしまった。
「えっ?」
「いえ、その」
 右手の下のコートを握り締める。父親は僕のコート見て、その下に気がつくと小さく吹き出した。ベンチの下を覆い隠す裾をめくって、
「ジュン、見ぃつけ」
 言われて男の子はもぞもぞ這い出して来て、
「あーあ」
 膝についた砂を払った。そして、顔を上げると唇を尖らせて、僕を睨んだ。
「お兄ちゃんがしゃべったからだ」
「あ、ゴメン」
 思わずあやまった。 
「ばか、ジュン。他の人に迷惑かけるんじゃないよ」
 コツンと小さい頭を小突いて、
「ここ、いいですか?」
 父親は、僕の隣に腰掛けた。
「えっ、あ、はい」
 腰掛けられてから返事するのも間抜けだけれど。
「えーっ、まだ遊ぼうよ」
 男の子は、父親の腕を引っ張ったけれど、
「俺はこの人とお話があるの。ほらそこの砂場で海底基地を作ってな。あとで、水持ってってやるから」
「はあい」
 砂場を振り返った男の子は、意外に素直に従った。楽しそうに砂の山を作っている。
「水かけたら、崩れちゃうんですけどね」
 クスクス笑う父親に、
「あ、あのっ」
 話があると言われたのを思い出して、姿勢を正した。
「ああ」
 僕を振り向くと、
「実は会うの二回目なんですけど、覚えていませんよね」
 笑いかけるその顔には、確かに見覚えがあるような無いような。
「新宿で」
 と言われても、すぐにはピンとはこなかった。なにしろ毎日のように新宿を歩いている。会社があるから。
 けれど、
「酔って具合悪そうにしてて」
 少し困ったように付け加えられた言葉に、はっとした。
「あ、あのときの」
 僕が仁志に言われた言葉にショックを受けて(もちろんお酒も入っていたけれど)、しゃがみこんでいたときに声をかけてきたサラリーマン。
「すみません、その話をしたかったわけじゃないんですが」
「いえ、あの時はありがとうございました」
「ああ、だから違うんですよ。私としてはまた会えた偶然が嬉しくて、思い出してほしかっただけです」
「はあ。確かに、すごい偶然ですね」
 新宿でたまたま助けてくれた人が、近所の人だったなんて。
「この近くにお住まいなんですか」
「ええ。すぐそこ。あれです」
 目の前のマンションを指差して、彼は笑いながら種明かしをするように言った。
「実は、あの夜、あなたが路地を歩いてくるところから見てたんです。偶然と言うならそこかな。いつも近所で見かける彼に似ているなと思って見ていたら、具合悪そうにして座り込んだから」
「えっ?」
「声かけてみたら、やっぱりそうだった」
「僕のこと、知ってたんですか」
「よくこのベンチに座っているでしょう」
「う……」
 確かに、僕は学生のころからこの公園が好きで、通りかかると意味も無くここに座ってぼんやりと景色を眺めていた。アパート暮らしだから庭の代わりに公園の草木や花の育つのを眺めたりしていたのだ。しかし、そんなことを他人に知られているなんて―――。
「ああ、ごめんなさい」
 黙ってしまった僕が気を悪くしたと思ったのか、彼は慌てて言った。
「別に、ストーカーのように盗み見ていたわけじゃないですよ。たまたま見かけることが多くて。コンビニでも何度かすれ違っているんです」
「あ、そうなんですか。いえ、そうですよね、近所なんだし」
「家は? やっぱり、この近く?」
「すぐ先のアパートです。ここからだと五、六分の」
「ああ、ひょっとして森山さんのところの」
 大家さんの名前を出されて、驚いた。
「知ってるんですか」
「あ、うん。いや、それこそご近所だからね。親の代からの知り合いって言うか」
「親の代から? ずっとあのマンションに?」
 それにしては、新しそうなマンションだし、そんなマンション暮らしの人がご近所付き合いをしていると言うのもなんだか意外だ。いや、偏見かもしれないけれど、マンションだと二つ隣はもう「誰が住んでいるかもわからない」って言うのが普通だと思うから。
 僕の思いが顔に出たのか、
「あのマンションが建つ前は、戸建てだったんですよ。古い家でね」
 彼は懐かしそうに目を細めた。
「バブルの時、ここら一帯の…六世帯かな、業者に半分脅されて土地を売って、その代わりそこに建ったマンションに優先的に住んでるんです」
「ああ、なるほど」
 うなずいてみたけれど、バブルのときは小学生だったからよくわからない。地上げとか言うやつかな。
「そう言えば、まだ名前も言って無かったですね」
 唐突に彼が言った。
「新崎雄一郎です」
「あ、芦田順一です」
「ジュンイチ? どんな字を書くの」
「順番の順に一です」
「長男なんだ」
 新崎さんが笑う。
「姉が二人いますけど」
「へえ、うちと一緒だ」
「そうですか」
「ついでに言うと、漢字は違うけどあの子もジュンイチ。純粋の純に一」
 砂場で遊ぶ子供を目で指す。
「えっ」
 あ、そう言えばジュンって呼んでいたような。
「新崎純一君ですね」
「え? いや、苗字は三島だけど」
「え?」
 二人して、顔を見合わせた。しばらく見詰め合ってしまって、
「ひょっとして?」
「お子さんじゃないんですか?」
 同時に口を開いた。
「うわ、ショック」
 新崎さんは、口元を押さえた。
「やっぱりそう思ってたんだ。俺、いや、私、そんなに親父っぽく見えました?」
「えっ、いいえ」
 ただ、登場したときがあまりにそれらしかったから。
「ジュンはすぐ上の姉の子です。同じマンションに住んでいて、休みの日には遊び相手をさせられてるんですよ」
「そうだったんですか」
「一応、独身ですから」
「はあ」
「結婚なんかしていません」
「そうですか」
 にこやかに繰り返されるその言葉に、意味があるなんて思えなかった。そう、このときは。
 

 
 





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