　その日、会社について自分の机の上を見るまで、今日が何の日だか、本当に忘れていた。

「おっ、義理チョコ一号！」
　ありがとう！　と言う安田の声がデスクに響く。
「いいえぇ、いつもお世話になっています」
「義理じゃありませんよぉ、愛情チョコです」
　事務職の牧田さんと野村さんがそろって返事をする。
　僕も慌てて、二人にありがとうと礼を言った。
（バレンタインだった……）

　昨日、仁志のところから帰るときに、
「明日、どうするんだ？」
　ごく普通に尋ねられた。あんまり普通だったから、
「うん、三連休明けだから……仕事たまっているだろうし、明日は来れないかな」
　いつものスケジュール確認くらいに思って応えてしまった。
「そうか、じゃ、また電話する」
「うん、水曜はたぶん早く終われる。何も入っていないし」
「わかった」
　本当にごく普通の会話だった。
（仁志、バレンタインだって知っていたのかな……）

　仁志の態度からも特にその気配はなかったから、知らなかったのだと思いたい。
「バレンタインかぁ。俺もう一昨年くらいから、奥さんからも貰えなくなっちゃいましたよ」
　隣のシマの木村さんが言うと、
「俺だって、牧田さんと野村さんと、あと保険のオバちゃんくらいだ」
　鈴木課長が笑いながら答える。
「その点、安田や芦田はいっぱいもらえるんだろ」
　木村さんにからかわれて、
「いっぱいなんて貰えませんよ」
　安田が謙遜している。新人だった去年、他の部署からもたくさん貰っていたはずだけど。
「営業先の女の子からも来るんじゃないの」
「ないない、ありませんって」
「芦田は？　本命はいるのか」
　いきなり矛先を向けてきた木村さんに、
「えっ、あ、はい、いえ」
　よくわからない返事を返してしまった。
「どうした、芦田」
「いえ、なんでもないです」
　机の上の義理チョコをしまって、
（どうしよう）
　考え込んでしまった僕を、安田が心配そうに見つめる。
「おい、芦田」
「あ、うん」
「どうした？」
「うん……」
　とても相談できることじゃない。
　男同士の場合のバレンタインは、どうするべきか。

「アイツと何かあったのか？」
　気を使ってくれたらしい安田が、小声で尋ねる。
「別に。何かあったわけじゃないけど」
「ならいいけどな、チョコ見て変な顔していたからさ」
「……うん」
　どうしよう。聞いてみようか。
「あのさ、安田」
　安田の腕を掴んで、部屋の隅に引っ張った。
「何だ」
「男同士でも、チョコとかやったほうがいいのかな」
「えっ」
　安田は一瞬驚いた顔で僕を見て、それから急に舌をもつれさせた。
「あ、そりゃ、確かに、おと、おとこど、同士でも？　好きな相手になら、お、贈ってもいんじゃないか、ああ」
「贈るべきだと思うか？」
「あ、いや……」
　ひどくうろたえている安田に気がついて、
「ゴメン。変なこと聞いて」
　僕は謝って、自席についた。
（やっぱり、今日の帰り仁志のマンションに寄ってみよう）

　ところが、その日の夕方、僕の携帯が鳴った。
　仁志からだと思ったそれは、
「ふ、文絵さん？」
　思いがけない相手で、声が裏返った。
「仕事は何時に終わるのかしら。八時に迎えに行くからそこのビルの前で待ってて」
「えっ」
「車で行くから、八時ちょうどに出てきてね」
「いえ、あの」
「都合悪い？」
「いいえ、その、何があるんですか」
　
「ちょっとした集まりだけど、仁志も行くらしいから順一さんも連れて行ってあげようと思って」
「仁志？」
「そう。順一さんは何もしなくていいのよ。じゃ、また後でね」
　もっと色々尋ねたいことがあったのだけれど、すぐに携帯は切れてしまった。僕の電話番号を誰から聞いたのだろう。
（仁志かな？　それとも正輝か）
　正輝のような気がする。

　仁志のマンションに行くつもりだったけれど、仁志がいないのなら仕方ない。よくわからないまま、約束の時間にビルを出て玄関で待った。向かいの道路を見ていると、まさに八時ちょうどに、真っ黒に輝くベンツが滑り込んできた。
「順一さん」
　後部座席の窓がスルスルと下りて、文絵さんの白い顔が覗いた。きれいな指先が手招きをする。
「こんばんは」
　近づいて頭を下げると、運転席からいかにもと言う白手袋の男性が降りてきて、後ろのドアを恭しく開けてくれた。
「どうぞ」
「乗って」
「あ、はい」
　文絵さんの隣に座ると、香水だろう、フワリと花の香りがした。
　僕を乗せると、車はすべるように走り出した。
「どこに行くんですか？」
「えっ？　ああ、銀座よ」
「銀座？」
「と言っても場所は新橋よりかしらね。エリアで言うなら汐留っていうのが正解かしら」
「いえ、あの、正確な住所を知りたいんじゃなくて」
「ああ」
　文絵さんは笑って、
「うちの店で、バレンタインナイトパーティーっていうのやってるの。まあ、バレンタインに限らずいつでも何か理由つけてなんとかナイトパーティーとか言ってるけど」
「パーティー」
　集まりと聞いたとき、ほんの少し嫌な予感はしたんだけれど――
「あの、僕、こんなかっこうで」
「あら、いいのよ。言ったでしょ。うちの店の、内輪のパーティーなんだから」
「うちの店？」
　ここで初めて、その言葉に気がついた。
「文絵さん、お店持っているんですか？」
「持ってるんですか、って？」
　文絵さんはクスッと笑った。
「持っているのは、店じゃなくてビルだけどね」
　横目で僕を見て、ププッと吹き出す。
「ああもう、順一さんってホントかわいい」
「なに言ってるんですか」
　何を笑われているのかわからず、僕は額をかいた。

　

　最近急に開発が進んだ汐留と、文化の歴史の色濃い銀座のちょうど中間くらいにそのビルはあった。地上三十五階建ての、ホテルも併設したＦＥビルが、フジシマエクセレントビルの略だと言うことを初めて知った。
「でも本当は、ＦはフミエのＦなのよ」
　高速のエレベーターで最上階まで一気に連れて行かれながら、ガラス張りの向こうに見える宝石箱のような夜景に呆然とした。
（こんなすごいビルのオーナーなんだ……）
　今更ながら、藤嶋グループの財力を思い知らされる。
「いっそのことＦＦビルにしたかったんだけれど、ゲームと同じになるからって却下されたの。でもエクセレントって言うのもどうかしらね。ダサイと思わない？」
　と、小首をかしげる文絵さんに、
「はあ」
　間の抜けた返事しか返せなかった。

「いらっしゃいませ。あ、これは文絵様」
　エレベーターを降りて突き当たりの自動ドアは、中に入ると、折れた通路の先にもう一枚厚い扉があった。その扉の前に立っていた背筋のやたら真っ直ぐ伸びた黒服の男性が、文絵さんの姿を見て慇懃に頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました」
「ああ、気にしないで、勝手にやるから」
　中まで付き添おうとした男を軽くあしらって、文絵さんは
「順一さん、入って」
　気後れしている僕を、押しやった。
　何が『ちょっとした集まり』だ。広い店内には、ざっと見ても二百人は下らない、大勢の人たちがいた。
「文絵様、お久しぶりです」
「こんばんは、文絵さん」
　次々に声がかかるのに微笑んでうなずきながら、文絵さんは僕を比較的静かな奥のテーブルに連れて行った。
（仁志はどこにいるんだろう）
　不安な気持ちで捜していたのに気がついたのか、
「仁志ならカウンターにいるわよ」
　文絵さんが教えてくれた。見ると、確かに半円形になったカウンターの一角にひときわ派手な集団があって、その真ん中で仁志がグラスを傾けていた。
「あそこ行く？」
「えっ…いえ……」
　どうしてだろう。仁志に会いに来たはずだったのに、文絵さんに尋ねられて、僕はとっさに首を振っていた。
「その、盛り上がっているみたいだから、後で……」
　言い訳のように付け加えた。
「そうね、まず何かお腹に入れてからにしましょう。順一さんも食べてないんでしょう」
　文絵さんの言葉が終わらないうちに、何人もの男性や女性がフルーツやオードブルの乗った皿を運んできた。カクテルグラスを運んで来た女性はそのまま僕たちの席についた。
「文絵さん、これ、この春の新しいメニューなんだけど、試してみて」
　文絵さんと親しいらしいその女性は、僕たちの前にグラスを置いた。
「あら、イチゴ？　可愛いじゃない」
「でしょう」
　脚の長いカクテルグラスにピンク色の液体が揺れている。ピックに刺さった赤い実を見るまでもなく、甘い香りがイチゴのカクテルだと教えてくれる。
「男性の方にも、飲んでいただきたいわ」
「順一さんなら、こういうのむしろピッタリね」
　二人から勧められて、舐めるように飲んでみたら、鼻の奥まで芳醇なイチゴの香りが膨らんだ。
「おいしい。思ったほど甘くなくて」
　何も考えず口に出した言葉に、
「でしょう。嬉しい。男の人にもそう言ってもらえると思ったの。これで意外にアルコール度数は強いのよ」
　その女性は嬉しそうに手を叩いた。明らかに年上だけれど、その仕草はかわいらしかった。
「本当、おいしいわ。名前は何にしたの」
「今日がデビューだから、バレンタインにちなんだ名前にしようかと思ったんだけど」
「そうねえ」
　二人の会話を聞きながら、僕の目はどうしてもカウンターの仁志を追ってしまう。
　そこには初めて見る、友人と一緒の仁志がいた。
　思えば、僕は仁志の友人と言うのは正輝しかしらない。
（いや、正輝は友人と言うよりももっと近いところにいる従兄弟なんだけど……）

　そういえば不思議と、仁志の口から正輝以外の名前が出てくることは無かった。仁志だって普段は大学生だし、大勢友達がいてもおかしくないのに。そう思いながら、自分の知らない人たちに囲まれている仁志を見ると、なんだか胸がうずいた。独占欲だろうか。自分の中の嫌な気持ちに蓋をしようとがんばっていたその時に、
（あ…）
　背の高い男の子が、甘えるように仁志の背中にしなだれかかったのを見て、ドキリと心臓がはねた。
「あらあら、ここで奥さんが見てるとも知らないで、大胆なことする子ねえ」
　文絵さんが、僕の耳元で囁いた。
　僕は、持っていたカクテルグラスを握り締めた。
「知ってる？　トオルってモデルの子。若い子向けの雑誌によく出ているみたいだけど」
「……いいえ。そういうの見ないので」
　若い子じゃないですし、と付け加えたのは冗談にもならず、笑えなかった。
「仁志、呼んでくるわね」
「いえ、いいです」
　そのトオルという子が邪魔をして、仁志の顔は見えない。どんな顔をしているんだろう。迷惑そうなのか、笑っているのか――　知るのが、怖かった。
　僕は、グラスに残っていたカクテルを思い切って空けた。
「順一さんっ？」
「本当、おいしいですね、これ」
　息を吐きながらグラスを置いたら、プーッと文絵さんが吹き出して、
「いい飲みっぷり、二杯目もいきましょう」
　僕に抱きついてきた。
「文絵さん？」
「いい機会だわ。あの子にもお仕置きが必要よ」
　何を言っているのか、わからない。イチゴの香りと文絵さんのつけている花の香りで、頭が朦朧とする。
「そういえば、正輝は来てないんですか」
「あの男がこんなイベントデイに一ヶ所に落ち着いてるわけないでしょう」
「ふうん」
「だから、今日は順一さんが、私の彼ね」
　テーブルの上のチョコレートをつまむと、僕の口に押し込んだ。
　それを合図のように、それまで遠巻きにしていた人たちが、僕たちの席に近づいてきた。
「紹介してくださいよ、文絵さん、そちらの方」
「初めまして。私はこの近くで美容院をやってる者です。文絵さんにはよくいらしていただいているんですよ」
「お勤めは近くなんですか？　すごく真面目そうで素敵な方」
　とってつけたようなお世辞まで付いて、次々に名刺が差し出される。
「だめよ、みんな。私のかわいいイチゴちゃんに手を出さないで」
　ふざけた文絵さんが再び僕を抱きしめると、歓声が上がった。
「あ、あの」
「あっ、可愛いっ、耳まで赤くなってる」
　いきなり知らない女性の指が耳にまとわりついて、僕はとっさに目を閉じた。

　
「何してる」
　低い声とともに、腕を引っ張られた。
　顔を上げると、恐ろしい顔をした仁志が立っていた。
「なんでここにいる。今日は仕事が忙しいんじゃなかったのか」
「私が誘ったのよ」
　僕の首にしがみついたまま、文絵さんが答えた。
「あなたは自分のお友達と遊んでればいいでしょう」
　仁志がものすごい目で睨んだけれども、文絵さんは全く臆することなく、
「バレンタインに恋人がよその人と遊んでいる者同士楽しくやってるんだから、邪魔しないでちょうだい」
　ヒラヒラと手を振った。
「誰が、よそで遊んでるって」
　仁志の眉間に深いしわが寄る。そこにタイミングよくトオル少年が現れる。
「どうしたの、ヒトシさん、誰それ」
　酔っているらしい仕草で仁志にもたれかかって、僕を顎で指した。
「うるさい」
　乱暴に振り払われて少年は床に倒れた。
　仁志のそんな態度に背中が震えた。
「ゴメン……帰る」
　コートを掴んで、店の外に出た。酔いはすっかり覚めて、こんなところまで来てしまったことを後悔した。
「待てよ。どこに帰るんだ」
　エレベーターまで仁志は追いかけてきた。
「家に」
「仕事はどうした」
　腕をつかまれて、それを振り払いながら、僕はコートのポケットに手を入れた。中から小さな箱を取り出す。
「これを渡そうと思っただけだ」
　仁志の大きな手のひらにそれを押し込んだ。コンビニで買ったチョコレート。今日それを買うのは、死ぬほど恥ずかしかった。店員さんが忙しそうでなければ、領収証をもらって社用のふりをしようと思ったくらいだ。
　仁志が手の中のそれをじっと見つめる。
「……忘れてたんだ、今日、バレンタインだって」
　小さくつぶやいてちょうど開いたエレベーターに乗ったら、仁志も乗り込んできて――
「んっ」
　いきなり口づけられた。
「や……んぅっ」
　抵抗して開けた唇の間に力強い舌が滑り込む。
　高速で一階まで降りていくエレベーターの中、身動きも取れないくらいに強く抱きしめられて、口腔を激しく蹂躙される。
「ん……ふっ」
　軽やかな音とともにエレベーターのドアが開いたとき、僕は腰が抜けて、仁志に抱きかかえられていた。

「大丈夫ですか？」
　ベルボーイは僕を酔っ払いだと思ったらしい。確かにキスに酔っていた。
「大丈夫だ」
　仁志はボーイに言った。
「３００１号室にチェックインする」
「えっ」
「藤嶋仁志だ。サインは後でする」
　胸ポケットから財布を出して、カードを渡す。
「あっ、はい」
　藤嶋の名前にボーイが緊張したのがわかったけれど、僕は、みっともなく抱きかかえられたままだった。
　再び別のエレベーターに乗って、三十階で降りる。フカフカの絨毯に足をとられながらようやく歩く。
「３００１号室って？」
「うちでおさえている部屋」
「そんなのあるんだ」　
「誰かと泊まるのは初めてだ」
「……嘘ばっかり」
「何？」
「…………」　
　さっきの、トオルや他の大勢の男たちに囲まれた仁志の姿が浮かんで、ついやきもちみたいなことを口にしたら――
「そんなかわいいこと言う舌、食っちまうぞ」
　仁志は、物騒なことを言って、廊下の真ん中で再び口づけてきた。
「それでなくても、イチゴ味でたまんねえってのに」
「仁志、イチゴ、好きなんだ」
　胸にすがり付いて、吐息のように尋ねたら、
「ああ、今日からな」
　男らしい顔で笑った。
　

　

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