「付き合い始めたばかりのとき、僕は、仁志のことをマサキだと思っていて」
 唐突に聞こえたらしい言葉に、仁志の眉が怪訝に寄せられた。
「マサキには婚約者がいて、結婚するまでの付き合いだって聞いて、そんなのは嫌だって思った。だから、自分から別れようって……」
 眉を寄せたまま、仁志は黙って聞いている。
「その時は、そう思ったんだけどね」

 コーヒーの缶にため息を落として言葉を捜していたら、さすがに焦れたらしく、
「その時はそうで、今はなんなんだ。何が言いたいんだよ」
 僕の持っていたコーヒーの缶を奪って、ベンチの上に置いた。

「うん。今は……仁志が結婚するまでの付き合いだって言われても、それでもいいかな、って思う」
 考えていたことを言葉にすると、胸の奥は少し痛んだけれど、それでもどこかすっきりした。
「どういう意味だよ」
「仁志と付き合って、仁志がどんなにすごい相手かよくわかったし、藤嶋グループのすごさもわかった」
「だから?」
「将来、仁志が藤嶋グループの総帥になるんなら……ちゃんとした結婚をして、後継者を作らないといけないって言うのもわかるんだ」
「俺に、結婚してガキこさえろって?」
 その険悪な声を聞くまで、僕は仁志が怒っていることに気が付かなかった。
 顔を上げた瞬間、パンと頬を張られた。
「何するんだ」
 それほど痛くは無かったけれど、驚いて頬を押さえた。
「さっきのお返しだ。ふざけんな」
「ふざけてなんかいないだろう。なんで叩かれないといけないんだ」
「わからないのか」
「わからないよっ」
「恋人から、別のヤツと結婚しろって言われてんだぞ」
「…………」
 仁志は憮然として僕を睨んでいる。
 自分としては健気な決心を伝えたつもりだったが、そんなふうに言われると――
(僕の方が悪いのか?)
 おかしい。どうしてそうなったんだ。
 頬を押さえたまま俯くと、
「なんでいきなり、そんなこと言い出すんだよ」
 仁志がポツリと呟いた。
「それは……」
 ことの起こりを思い起こせば、
「文絵さんが……」
「文絵?」
 仁志の瞳が剣呑に細められた。



「何言ってんだ、あのバカっ」
 文絵さんから聞いた言葉を素直に伝えると、仁志は宿の方に向かって吼えた。
「何が藤嶋グループの総帥だ。サンデーサイレンスだ」
 いや、サンデーサイレンスはどうでもいいんだけれど。
「大体、アイツは自分で藤嶋の女帝になるとか言って、俺には、後で面倒は嫌だから子供なんか作るなとか言ってんだぞ」
「そ、そうなのか」
「正輝にも浮気はいいが他所で子供作ったらコロスって言ってる」
「そ、そう」
 大丈夫だろうか、正輝。
「だから、俺は結婚する必要も、跡継ぎ作る必要も無いってことだ」
「はあ」
 間の抜けた返事をした僕の顔を覗き込んで、
「わかってんのか、おい」
 仁志は、ピタピタと、今度は優しく頬を撫ぜた。
「あ、うん……要は、僕が、文絵さんにかつがれたってことだね」
「そうだ。アイツはお前のこと苛めたがっていたからな」
「えっ、何で」
「まあ、色々……ややこしいヤツなんだよ」
 仁志は自分の分のコーヒーにようやく口を付けて言った。
「今度アイツに何か言われたら、必ず言えよ」
「うん……」
 僕も脇にどけていたコーヒーを取って、照れ隠しに飲んだ。
 自分の言ったことをよく考えると、なんだか――
「……愛人でいい、って感じだったな」
「ええっ」
 仁志の言葉に、思わず大きい声が出た。まさに自分が思ったことと同じだったので。
「いや、なんか、さっき何がムカついたのか考えたら」
 仁志は、僕を叩いた右手を見て、乱暴に自分の髪を掻きあげた。
「アンタの言い方が、自分はいいの、って身を引くオンナみたいで」
「…………」
「なあ、本当に、アンタ、俺の愛人でもいいって思ったわけ?」
「…………」
 言葉につまって、空になってしまった缶を両手で包む。
「順一?」
「いいってわけじゃないけど、仕方ないのかなって」
「何じゃ、そら」
「だって、普通に考えたら……」
「何がフツーだ」
 ホモが普通のわけないだろと、仁志が居直っている。
「お前はテレサテンか。何で、それでもいいなんて思えるんだ、ああ?」
「テレサテンって、えらく古い」
「文絵のババアがカラオケで好きなんだよ。んなこたどうでもよくて、だから、本当に待つ身のオンナでいいのか、お前は」
「いや、いいも悪いも」
 詰め寄られて、本音が出る。
「今さら嫌だって言って別れられないくらいに、仁志にはまってるってことだよ」
 仁志の目が見開いた。
「付き合い始めた頃は、おんなじこと聞いて、そんなのゴメンだって思って別れる決心したけど、今は、そんなこと言われても、とても別れられない」
 言いながら、自分はそう思っていたのかと改めて気が付いた。
 気が付いて、可笑しくなった。
「仁志が仕方なく結婚するはめになっても、別れてやらないよ」
 クスッと笑うと、いきなり抱きしめられた。
「仁志?」
「ばかやろ……」
 僕の髪に鼻を埋めて、仁志はくぐもった声を出した。
「…なことが、あるかよ」
 仁志が照れている。
 僕は、抱きしめられたまま、ゆっくり目を閉じた。





「今、電車、出てったな」
「うん」
 気が付いたら、待っていたはずの電車も見送ってしまっていた。
「どうする。ホテルに戻って車で帰るか」
「うん……でも、登山鉄道にも乗ってみたいような」
 切符も買ってしまったし。
「じゃあ、また十五分後だな」
「寒いかな」
 薄暗くなった周りを見渡す。
「ま、こうしていりゃいいさ」
 スッポリと背中から抱きしめられて、僕は
「よせよ、ひとが見るだろ」
 慌ててベンチから立ち上がった。
「あのな。さっきまで堂々抱き合ってた事実を消し去るなよ」
 呆れた顔の仁志の左頬だけがうっすら赤い。僕がぶったからだ。そして僕の左頬も、さっき叩かれて、ちょっとは赤いんだろう。
「ふ、ふふ……」
「なんだよ、急に」
「なんでもないよ」
 二人そろって左の頬を赤くして、仲良く電車に並んで座ろう。
「登山鉄道、初めてなんだ」
「そうなのか」
「スイッチバックがあるんだろ」
「ああ、なんかあるな」
 なんかって、何だ。
「弁当とか買おうかな」
 その気になって売店に向かう。
「そんなに長く乗ってないだろ」
「せっかくだから気分盛り上げようかなと」
「だったら、あれにしろよ」
 仁志が指差す先で、温泉饅頭ののぼりが揺れた。
「ああ、箱根気分だね」
「だろ。俺はいらないけどな」
 甘いものは好きじゃない仁志に、
「ダメだよ、気分盛り上げてくれないと」
 嫌がらせのように、餡子のぎっしりつまった薄皮の温泉饅頭を買ってやった。
 仁志は文句を言いながら、それでも付き合って二つ食べてくれた。

「急に暗くなった」
 窓の外を見ようとして、ガラスに映った仁志が目を閉じているのに気がついて、
「寝るなよ」
「何で」
「せっかく乗ったのに、もったいないだろ」
 世界の車窓からを楽しめと言うと、
「また乗ればいい」
 連れて来てやるよと言って、仁志は座り直すと僕の肩に頭を乗せた。





 翌日の夜。
「あの後どうなったのかなって気になってたんだけど」
 文絵さんは、箱根土産を――僕たちも行っていたにもかかわらず――山のように抱えて、仁志の部屋にやってきた。
「たく、わけわかんねえこと言いやがって」
 やはり嫌がらせのような温泉饅頭に眉間のしわを深くして、仁志は文絵さんを睨んだ。
「しょうもない嘘つきやがって」
「順一さんが怒って飛び出していったって正輝から聞いたときは、さすがに胸が痛んだんだけど」
 神妙な顔で言った文絵さんに、
「嘘だね。目が輝いてたよ、そん時」
 すかさず正輝が突っ込む。
「障害を乗り越えてこそ、愛は深まるのよ」
「もうさぁ、文絵の存在だけで十分障害なんだから、勘弁してあげなよ」
「あら、失礼ね。私の存在がどうして障害なのよ」
 文絵さんは持っていた寄木細工の扇子でペチンと正輝の後頭部を叩いた。
「私が仁志に代わって藤嶋グループを継ぐって宣言してあげているから、仁志が好き勝手できるんでしょ」
 文絵さんの言い分を、仁志と正輝は黙って聞いている。
「私が藤嶋を継ぐの嫌だって言ったら、やっぱり仁志は、どっかのご令嬢と政略結婚して跡継ぎ問題に頭悩まさないといけなくなるのよ」
 黙って聞いているが、ちょっと呆れた顔になっている。
「ねっ、そう思ったら、姉に感謝したくなったでしょう。どうする、私が嫌だって言い出したら」
「小学校の卒業文集で、将来の夢『女帝』って書いた女が、何言ってる」
「あら、そういえば、そういう仁志は小学校の卒業文集で将来の夢『普通のサラリーマン』とか書いて、意外な小市民ぶりを露呈していたわねえ」
「うるさいな、あの頃は『普通』ってのに憧れてたんだよ。正輝の『ナンバーワンホスト』ってのよりはマシだと思うぞ」
「あ、俺の話になるわけ? いいじゃん、俺のは、夢があるじゃん」
「夢っていうより、限りなく現実よね、今や」
 繰り広げられる会話を呆然と聞いていたら、
「順一さん、さっきからずっと黙っているけど、ひょっとして怒ってる?」
 文絵さんがいきなり矛先を変えた。
「えっ、いいえ」
 ただ、三人の話の展開の早さについていけなかっただけで。
「怒ってるって、言っておけ」
「そうそう」
「別に……本当に怒ってないし」
「そうよね。ね、お饅頭食べる? 海老しんじょ食べる?」
「あ、いいえ」
「これはね、宮ノ下のパン。おいしいのよ」
「あ……はい」
 ちぎって無理やり渡されて、仕方なく口に入れる。
「パンくらいで餌付けされるな」
「安っ。 順一サン、安すぎるよ」
 正輝が泣き真似をする。
「あら、もっといいものだってご馳走するわよ、ねえ」
「いえ」
「遠慮しないで。男二人じゃ行きにくいところにも連れて行ってあげるから」
「どこだ、そりゃ。何を言ってるんだ」
「ウルサイ、仁志は黙って」
「あ、あの……」
 何だろう、このペース。
(巻き込まれている……)
 早春の温泉旅行で、思いがけず対面してしまった文絵さん。そのきれいな微笑が天使のものか悪魔のそれか、まったく僕にはわからない。ただ一つ言えるのは――
(この姉弟、似ている)
 
 仁志と正輝も似ていると感じたのに。
 ひょっとして、藤嶋一族って言うのは、みんなこんな感じなんだろうか。明らかに人種の違う一族(の一角)を前に、ほんの少し不安になってしまった。 






90に続く






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