「怒られちゃったよ」 しばらく遊んでいた正輝が、コーヒーを飲んでいた僕たちのところに戻ってきた。 「芝生を荒らすなって」 「あたりまえでしょう」 文絵さんは、芝と泥の付いた正輝のブーツを見て眉を寄せた。 「本命はあのグッチのミニスカの子かしら」 「そう、アキエちゃん。あと巻き髪の子ね、ユリリン」 「すてきな呼び名」 「あははは」 文絵さんの嫌味を無視して、正輝はポケットの携帯電話を確認した。 番号ゲットできたらしい。 「ユリリンで登録するのか」 「@ハコネってね」 「はっ」 仁志も呆れている。 (いいのかな) 正輝と文絵さんは婚約しているはずだ。婚約者の目の前で、こんなにオープンにナンパしてもいいのか。 文絵さんの顔色を窺ったけれど、知らん顔してコーヒーを飲み、腕の時計を見ている。 「そろそろ帰りましょうか」 「帰るって?」 「私たちのホテルによ」 嫌そうに顔をしかめた仁志に、文絵さんは当たり前という顔で応えた。 「じゃあ、正輝、空いている部屋があったらチェックインして来てね」 「あいよ」 「無ければ、この部屋に四人でもいいから」 「ふざけんな。そんなことさせるか」 フロントに向かった正輝を仁志が追いかけていったので、期せずして部屋の中には僕と文絵さんの二人だけになってしまった。 (気まずい……) 実のところ僕は、営業なんかやっているくせして、プライベートでは女性が苦手だ。特に年上の女性が苦手なのは、母親と姉の影響。 (な、何か話したほうがいいんだろうけど) 何を話せばいいのだか、と内心焦っていたら、 「仁志とはどういうきっかけで知り合ったの」 文絵さんが口を開いた。 「聞いたんだけど、詳しく教えてくれないのよ。正輝も口止めされてるみたいでよく知らないとか言っちゃって」 「は、はあ」 もとはと言えば、僕が正輝の携帯電話を拾ったところからだけれど、二人が内緒にしているというのなら、僕がペラペラしゃべるわけにもいかない。 「ねえ」 「いえ、その…偶然」 「偶然?」 「携帯…」 「携帯?」 バカ、しゃべってるじゃないか。 嘘は苦手だ。まして相手が―― 「携帯がどうしたの?」 興味深げに身を乗り出す文絵さんに、思わず 「いえ、正輝君の携帯って、いったい何人の番号が入っているんでしょう」 言ってはいけないことを言ってしまった。 (バカ……) 拾ったときのことを思い出してしまったからなのだけれど、ここで文絵さんに言うことじゃないだろう。自分の失言に、情けなさのあまり泣きたくなっていると、 「そうねえ、今までの女の子全部削除しないで残しているとしたら、もうメモリーいっぱいいっぱいかもねえ」 文絵さんは、事も無げに言った。 「いいんですか?」 あまりにあっさりしているので、さっき彫刻の森で感じたことがポロッと口をついて出た。 「正輝君、婚約者なんですよね」 文絵さんの瞳がわずかに見開かれる。またもや即座に後悔した。大きなお世話、と張り飛ばされても仕方ない。 「すみません」 「あら、いいのよ」 文絵さんは首を振って、ハンドバックからシガレットケースを出し、優雅な仕草で火をつけた。 「卒業した後、正輝がどんなに不自由になるかよくわかっているから……せめて学生のうちは好きに遊ばせてあげようって思っているんだけれど、他の人から見たらおかしいかしらね」 「あ、いいえ」 「実際、藤嶋の人間は、自由に恋愛して結婚するなんてできないの。相手は家の都合で決められるし……今のうちだけなのよ」 ふーっと、細く煙を吐き、 「仁志もね」 文絵さんは微笑んだ。 「あら、どうかした?」 僕の前で、文絵さんがヒラヒラと手を振って、僕は我に返った。 「あっ、すみません」 どうしたんだ。一瞬、頭の中が白くなったみたいで―― 「ごめんなさい。私、変なこと言ったかしらね」 首を傾げる文絵さんを見て、何を言われたか思い出した。 「あ、あの……」 「んっ?」 「仁志にも、婚約者とか、いるんですか」 声が掠れる。 「ああ」 文絵さんは、困ったような顔で、 「話はたくさんあるんだけど、まだ決まってはいないわ。本人にとっては誰でも一緒なんでしょうけどね。何せあの子、オンナの子嫌いだし。誰でもいいならさっさと決めてくれたほうが助かるんだけど。いつまでも決まらないと親戚がうるさくて」 とんとんとタバコの灰を落とす。 「仁志は藤嶋グループの次期総帥だから、親戚中に狙われているのよ。もちろん外からもね」 「…………」 「藤嶋の跡取りを生みたいムスメとその親が並んで待ってるの。サンデーサイレンスも草葉の陰で悔しがる大人気よ」 「…………」 「でもよかった。仁志の恋人が順一さんみたいなオトナの人で」 言葉を失っている僕に、文絵さんはトドメの一言を投げかけた。 「仁志が結婚するまで、ううん、よかったら結婚しても仲良くしてあげてね」 眩暈のような感覚に畳に手をついた僕には、そのときの文絵さんの表情まで見ることはかなわなかった。 「やっぱり空いてないって」 カラリと襖が開いて正輝が入ってきた。その後ろから不機嫌そうな仁志が続く。 「だから、とっとと帰れ、二人とも」 「まあ、三ヶ月先まで予約いっぱいの宿だけど、特に今回は三連休だから、特別室も全部埋まってるってよ」 正輝は言いながら、長い足をもてあまし気味に座卓につく。 「そう。やっぱり」 「どうしてもって言うなら、この和室に布団敷くって」 「あら、それでいいわよ。最初からそう言ってるじゃない」 「ふざけんな、お前ら」 正輝の言葉に文絵さんが手を打って喜ぶと、仁志がダンと拳で座卓を叩いた。衝撃で、重いはずの灰皿が跳ね上がる。 「お前らがそんなにここに泊りたいなら、俺たちが出ていく」 仁志は言って、僕を振り返った。 「近くに別の宿を取ろう」 僕はすぐには言葉が出ず、ただ仁志を見返した。 「順一?」 仁志は怪訝な顔で近づいて 「どうした?」 僕の前髪を撫でようとしたけれど、とっさに身体を引いてしまった。 仁志の眉根が寄ったのを見て、僕は慌てて謝った。 「ゴメン」 「どうしたんだよ」 仁志の目が見られず、顔を伏せる。 「順一さんは、ここにいたいんじゃないの。ねえ、今更探してもいい宿無いわよ。連休だし。ここで四人でゆっくりしましょう」 「あのなあ」 「まあまあ、こうなったらあきらめろ、仁志」 正輝こそ「あきらめた」という口調で、仁志をなだめる。 「これから東京戻るのも億劫だし、団体旅行も楽しいぞ」 「あら、それいいわ。そうよ、この和室に布団四つ敷いてもらって、修学旅行みたいにしましょう」 「何が修学旅行だ。何十年前思い出してやがる…てっ」 文絵さんが仁志の頭をスコンと張り飛ばした。 「じゃ、そういうことで。正輝、チェックインよろしく。それじゃあ私、夕飯まで時間あるからエステお願いしようかな」 文絵さんは慣れた様子でどこかしらに電話をかけ、良くわからないオーダーをしていた。 「じゃあ、俺はフロント行って、そのままジム行くわ。時間あるしな」 正輝は財布を尻ポケットに入れながら立ち上がった。 エステというのは部屋の中でもできるらしく、電話をかけるとすぐに道具を抱えた女の人が一人やってきた。文絵さんは、鼻歌でも歌わんばかりの機嫌の良さで、 「こっちの部屋使わせてもらうから、覗かないでね」 新しくベッドメイクされた部屋に消えていった。 「覗くかよ」 「覗くと鶴になるからね」 「鶴でもカラスでもいいから、飛んでいけ」 そんな二人の会話をぼうっと聞いていた僕に気がついて、仁志は心配そうに、 「ホント、どうしたんだ。順一、おかしいぞ」 もう一度僕の髪に触れた。 「う、ん……」 頭の中がまとまらなくて。 「順一」 仁志の唇が重なってくるのを、胸を押し返して避けてしまった。 「なんだよ」 仁志がムッとする。 「まさか」 呟いて、目がきつくなる。 「昔の男に会って、揺れてんじゃねえだろうな」 昔の男って――宮野先輩? そんな――と言おうとしたけれど、子供を抱き上げる先輩の姿が浮かんでしまった。 『仁志は藤嶋グループの次期総帥だから、親戚中に狙われているのよ』 『藤嶋の跡取りを生みたいムスメとその親が並んで待ってるの』 仁志も、いつかあんな風に、子供を――。 「何、黙ってんだよ。図星なのか」 仁志の腕が僕の肩を掴んで押し倒す。 「ちが、やっ、やめ」 押し返したけれど、仁志が本気を出したら、僕なんか太刀打ちできないのは経験済みだ。 「んっ……」 無理やり口づけられて、身体をよじる。 (何するんだ。バカ。壁一枚向こうには、文絵さんとあの女の人がいるんだぞ) 精一杯抵抗しても、仁志の身体はびくともしない。太股の上に乗られると、全身が畳に縫いとめられたようになる。 ああ、僕も安田みたいに、柔道とかやっていればよかった。そうすれば10kgや20kgの体重差なんて物ともせずに跳ね返せるのに。 和室の青い畳の匂いに思わずそんな考えが浮かんでしまうが、いかんせん、柔道どころかテニスすら高校以来やっていない。 「ダメだって」 隣に聞こえないように小さく叫んで、厚い胸を殴る。 仁志は僕の顔じゅうに口づけて、シャツを捲り上げ、冷たい手を滑り込ませる。 「あ…っ」 思わず甘い声が出て、僕は焦って唇をかんだ。クスリと仁志が笑う気配がした。 (くそっ) 嫌がるほどに、仁志はその気になる。 しかし、このままなし崩しにやられてしまうわけにはいかない。 (何しろ隣の部屋には人が……) と、そこに天の助けが来た。 「何やってんのヨ」 襖を開けて、呆然とした正輝の声。 仁志の身体が一瞬浮いた隙に、僕は思いっきり力をこめて突き飛ばして、その腕の中から抜け出した。 「じゃまするな、正輝。何しに戻ってきた」 「いや、コンタクトケース忘れて……じゃなくて」 正輝は仁志と僕を交互に見て、 「おじゃまして、ゴメンナサイ」 ヘラッと笑った。 僕は顔に火がついて、仁志の頬を平手で思いっきり殴った。 「てっ」 そのまま部屋を飛び出す。 (帰ってやる!) 帰ってやる。帰ってやる。電車に乗って。 ポケットに財布を確認して、強羅の駅まで走ることにした。結構走って、彫刻の森駅のほうが近かったかもしれないと後悔したころに駅が見えた。 切符を買おうとして時刻表を見ると、電車が出るのはまだ十五分も先だった。しかたない。駅の外のベンチに腰を下ろして、 「寒い」 コートを忘れたことに気がついた。 さっきまでは走っていたから気付かなかったけれど、かなり寒い。缶コーヒーでも買おうと立ち上がり、自動販売機の前で財布を探ると、後ろから伸びてきたよく知る指が硬貨を入れた。 (仁志……) 「何飲むんだ」 聞きながら答えを待たずに、いつも僕の飲んでいる缶コーヒーのボタンを押す。 「ほら」 差し出されたけれど、受け取らずに横を向いた。仁志は自分の分もコーヒーを買って、 「次の電車、46分だろ」 腕時計を見る。 「フロントで聞いた」 無理やり僕に缶コーヒーを押し付けて、 「電車で帰るんなら、一緒に帰る」 地面に置いていた鞄を拾う。僕のコートや荷物も持ってきていた。 「着ろ、風邪引くぞ」 投げ渡されたコートを、寒さに負けて仕方なく羽織る。 「車はどうするんだ」 切符を買う仁志の背中に尋ねると、 「正輝に乗って帰ってもらう」 「だって正輝も……」 「セブンは文絵が運転する」 振り返って、僕の髪をくしゃりと撫ぜた。そのまま頬に手を滑らせて、真剣な顔で 「さっきはふざけて、悪かった」 「…………」 「でも、アンタだって悪いだろ、いつまでも前の男のこと考えて」 ふっと目を伏せた。 仁志は、僕のことを「お前」と呼ぶけれど、最初のころは「アンタ」だった。今では僕のことを年上と意識したときだけ呼び方が変わるみたいだ。 「違うよ」 僕はベンチに腰を下ろした。仁志も並んで座る。 「宮野先輩のことなんか考えていない」 「でも」 「僕が変だったのは、仁志のことを考えていたからだ」 暖かいコーヒーの缶を両手で包んで、背中を丸めた。 「俺?」 「うん」 文絵さんに言われたことが頭の中をグルグル回っている。 けれども、今、不思議なことに思ったほどショックを受けていない自分を感じる。 (言われた瞬間は確かに頭が真っ白になったけれど……) 「何だよ、俺のことって」 「うん……」 コーヒーの缶を開けて、一口だけ飲んで、ゆっくりと口を開いた。 |
当初のキーワードは天使と悪魔だったんですよ。しかし文絵に黒い羽と尖ったシッポをつけただけで、天使までいたれず、次回持ち越しに……
ね、苦労しているでしょ。
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