せっかくの華御膳の味もよくわからないまま昼食を終えると、 「じゃあ、これからどうしましょうか」 食後の一服を終えた文絵さんが、無邪気な声を上げた。 「どうって?」 仁志が片方の眉を上げて訪ねると、 「夜までここでじっとしてるわけにはいかないでしょう」 クルリと僕を振り返った。 「プール、行く?」 子供が遊びに誘うように言う。 「えっ、あ、僕は、プールは……」 遠慮したいとモゴモゴ言いかけると、 「あら、キスマークなんて気にしなくてもいいわよ」 あっけらかんと笑われた。 「文絵っ」 「からかうんじゃないって」 二人から窘められても、文絵さんはどこ吹く風で、 「それともエステにする? 気持ちいいわよ。色々あるし」 部屋備え付けフォルダーをめくり始める。 「ホテルの外に出ない?」 並んでエステを受けさせられる図を想像したのか、顔を引きつらせた正輝が言うと、仁志がすかさず、 「箱根の森に行こう。ここから歩いてすぐだ」 そう答えたので、僕はちょっと驚いた。 実は、昨日、ここに来る前、箱根の森彫刻美術館が近くにあると知って「寄ってみたい」と言ったところ、「何にもないとこで、わざわざ行くようなもんじゃない」と一蹴されていたのだ。それなのに、 「箱根の森? 何で今さら」 「たまには自然に触れろ、芸術に触れて、緑の大地を踏みしめろ。気持ちいいから」 乗り気でない文絵さんを説得する側に回っている。よっぽどこのホテルの中で過ごす時間を持て余しているのだろう。 「うーん、まあ、いいか。久しぶりだしね」 と、文絵さんがうなずいたので、三人して箱根の森に行くことになった。 「久しぶりだけど、記憶と違わなかったわね」 入ってすぐに待ち受けている巨大な像を見上げて、うんざりという風に文絵さんが言った。 「あいかわらず、よくわからない世界」 「なんか、えらくガキが多いな」 「遠足かなんかじゃないのか」 「ああ、そうか」 入り口に土曜日は小中学生無料と書いてあったからそのせいかとも思ったけれど、どうでも良さそうなことなので黙っていた。 (それにしても……) 僕は三人に遅れて歩きながら、小さくため息をついた。 (なんでこんなに……) 目立っているんだ。 アニマルプリントのロングコートをたなびかせた黒いサングラスの文絵さん、その両脇にホストにしか見えない正輝と、どっかの組の若頭のような仁志。どう見ても堅気じゃない。彫刻以上に人目を惹いている三人から、少しずつ遅れて歩いていると、 「順一?」 横から呼び止められた。 立ち止まって、一瞬、誰か分からなかったけれど、 「順一じゃないか?」 懐かしい声に、記憶の先に有る顔にたどりついた。 「宮野先輩?」 驚いて大きな声が出た。 「やっぱり、順一。顔見てそうじゃないかと思ったんだ。なんだ全然変わってないな」 「先輩こそ……」 変わっていないと言おうとしたのだけれど、それにはかなり無理があって言葉を濁してしまった。僕より四つ上だったから今年三十のはずだけれど、それ以上に見せる後退ぎみの頭髪と、頬や顎の周りについた肉が、その昔はハンサムといってよかった顔の印象をずい分と変えている。 僕の心のつぶやきを読み取ってしまったか、 「俺は、ずい分変わっただろ」 宮野先輩は、笑って頭をかいた。 「七年ぶりだからな。それにしても、順一は全然変わってない。驚いたよ」 細められた瞳だけは七年前と全然変わらなく、とても優しい。 「ご無沙汰してます」 なんと言っていいかわからず、そう頭を下げた。 「元気そうだな。今、何してるんだ」 「西新宿で……サラリーマンです」 「そうか……」 なんと言っていいかわからないのは先輩も同じだったようで、しばらく二人して黙り込んだ。そこに、 「お父さん」 幼稚園児くらいの女の子が走ってきて、先輩の足にしがみついた。 「ああ」 先輩は、ちょっとだけ気まずそうに僕を見て、 「大学院卒業してすぐ、結婚したんだ」 小さな女の子を抱き上げた。 「それは、おめでとうございます」 「言うなよ」 照れているのか困っているのかわからない顔で、先輩は後ろを振り返る。奥さんだろうか、セーターにジーンズの女の人が首を傾げてこっちを見ていた。頭を下げると、その人もペコリと下げた。 先輩は小さくうなずいて、 「まさか、こんなところで会うとは思わなかった。元気そうでよかった」 もう一度僕をじっと見ると、 「本当に、変わらないな」 三度目になる言葉をしみじみ繰り返した。 「お父さん」 娘に急かされて、 「わかった、マミ。じゃ、行くわ。元気でな」 「先輩も、お元気で」 「ああ」 背中を向けた宮野先輩はすっかりお父さんになっていて、僕は、気恥ずかしさも手伝って、頬が緩むのを抑えられなかった。 「おい」 「わっ」 気がついたら、すぐ後ろに仁志が立っていた。 「誰だ、今の」 険しい目をして、顎で指す。 「えっ、先輩だよ、大学時代の」 思わず足が、先輩と逆の方に向く。 「それだけか」 「それだけだよ」 ついつい早足になる僕を、仁志は長い足で追いかける。 「なに逃げてんだよ」 「逃げてないよ。なんで付いて来るんだよ」 「お前が逃げるからだ」 「だから、逃げてないって」 「あの男と何かあったんだな」 「ないよ」 「ないなら何を焦ってんだよ」 ついに前に回りこまれてしまった。 しょうがない、脚の長さでカンペキ負けているのだから。 「…………」 「言えよ」 身長差の分伏せられた目が、僕を見据える。こうなると僕に逃げ場は無い。 「昔……付き合ってた」 観念して言えば、案の定、仁志の眉間にしわが寄る。 「けど、すぐ別れた。三ヶ月くらいで」 「なんで?」 「なんでって……」 それを今ここで言う必要があるのだろうか。 しかし、仁志は言わないと許してくれそうに無い。 「キスされて、ビックリして」 ビックリと言うか、いきなり入ってきた舌が、その時は気持ち悪くて 「突き飛ばしたら、気まずくなって、そのままなんとなく……」 別れてしまったのだ。 「プッ」 仁志が吹き出した。 (むっ) 無理やり言わせておいて、その態度はなんだ。 「しかたないだろう。僕は大学はいったばっかりで、そういうの知らなかったんだし」 「付き合ってたのって、大学一年のとき?」 「そうだよ」 「ずい分年上みたいじゃないか」 「年は四つ上」 今はそう見えなかっただろうけどね。 「その時は、院生で、かっこよかったんだよ」 なにを庇ってるんだか。 「ふうん。まさか、初恋とかいうんじゃないだろうな」 「まさか」 ふっとあの頃の自分を思い出して、 「でも……初めてのキスだったんだよ」 突き飛ばしてしまった、子供じみた自分の行いに今さらながら胸が痛んだ。 宮野先輩は、もともと、僕みたいに男しか好きになれないという人じゃなかった。面倒見が良くて、大学院の二年生になってもしょっちゅうゼミに顔を出して、教授に頼まれて後輩の指導もしていた。僕たちは教授の部屋で、宮野先輩の入れたコーヒーを飲ませてもらって。 先輩目当てで入り浸る女子学生が多くて、教授がわざと嘆いてみせたりしたけれど、実は僕もそんな一人で――密かに憧れていた。そんな先輩と男同士で付き合うようになったのも、偶然のようなもので、あの頃僕はそうとう舞い上がっていた。なのに、どうしてキス一つでダメになってしまったんだろう。 「おい」 いきなり仁志が僕の手をつかんだ。 「え」 無意識に唇をなぞっていたらしい僕の指先をきつく握って、 「なに考えてる」 不機嫌そうに、声を落とす。 「あ、ゴメン」 謝ったら、ますます不機嫌になった。 「そういうわけじゃなくて、その……」 「キスだけなんだろうな」 もう姿も見えない先輩を捜して睨む。 「そうだよ」 それで別れたって言っただろ。とは、続けられなくて、握られていた手を振り払う。 「あんなオッサンのどこが良かったんだ」 (オッサン……) 剣のある仁志の言葉に、 「だから、昔は、かっこよかったんだよ。昔は」 むきになって庇ってみたものの、あんまりフォローになっていない。 ごめんなさい、宮野先輩。「昔は」って、言いすぎですよね。 心の中で先輩に手を合わせながら、ふと嫌なことに気がついた。 「あ……」 いきなり深刻な顔で黙った僕に、 「何だよ」 仁志が怪訝な顔をする。 「……先輩と僕は四つ違いだった」 「だからどうした」 「今、仁志、オッサンって言った」 「だから、それがどうしたよ」 仁志はイライラと靴の先で芝生を蹴った。 「僕と仁志も四つ違いだ。仁志が二十六になったとき、僕は三十で、仁志から見たらオッサンになっているんだろうな」 「はい?」 「そして、あんなオッサンのどこが良かったんだって、仁志は自分を罵倒するんだ」 「なに意味のわかんねえこといってるんだ」 「意味わからないのは、仁志だけだよ」 僕はため息をついて、仁志の横をすり抜けた。 「二十六の仁志から見たら、三十の僕は、許せないほどオッサンだよ」 「じゃ、そのとき三十二の私の立場は」 「わっ」 今度は横から、文絵さんがっ。 「もう、二人してどこに消えたかと思ったら」 文絵さんがサングラスの端を咥えて、僕を睨む。 「こんなところで、年の話で喧嘩しないでちょうだい。だいたい三十がなによ。三十でオッサンとかオバサンとか許せないとかこの世の終わりとか言われたら、私の命はもうあとニ年なの?」 「いえ、そういうつもりじゃ」 そこまで言っていませんし。 僕はひたすら身を震わせて謝った。見かねたらしい仁志が 「ところで正輝はどうした?」 話をそらしてくれた――はずだったけれど、 「あそこ」 文絵さんの指差す先、緑の芝生の中で正輝は、どう知り合ったのか女の子の集団と円陣組んでバレーボールなんかしている。 「楽しそうだな」 仁志の呆れた声に、文絵さんは「ホホホ」と台詞のように笑った。そのこめかみが引きつっていたのは、この際見ない振りをした。 |
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