昼間のカレーに続いて夜の食事もそれは豪勢なものだったけれど、その一品一品について語るのは、海原雄山じゃない僕としては難しい。
 とにかく今まで食べたことのない肴をつまみに、勧められるままに日本酒を飲んで、いつの間にか寝てしまっていた。




「おい、起きろ」
 肩を揺すられて、寝返りを打つ。ぼんやり霞む目に仁志の端正な顔がクローズアップでせまる。
「どうしたの」
 目を擦ると、
「風呂、入ろう」
 囁かれて、露骨に顔をしかめた。
 朝から何をサカってるんだよ。確かに昨日の夜は、先に寝てしまったようで申し訳ないけど――と、寝起きの頭で考えていると、
「露天風呂で夜明けを見るっていうのも、なかなかないぞ」
 仁志は不思議なことを言った。
「夜明け?」
 枕もとの時計を見ると、まだ五時半だった。
「…………」
 先日の雪の日もそうだったけれど、仁志はたまにひどく早い時間に起きる。かと思うと、昼まで寝ていることもあるし、学生だからか、一日のサイクルが滅茶苦茶だ。そして社会人の僕は、朝は六時半まで寝る主義だ。
「おやすみ」
「寝るな」
「まだ朝じゃないだろ」
「朝だよ、ホラ」
 仁志は僕の股間に手を伸ばした。確かにそこは朝らしく勃っていて、
「やめろ、バカ」
 僕はその手を振り払って、背を向けて布団の中で丸くなった。
「わかった。もうしないから、起きろって」
 珍しく素直に手を引くと
「なあ、露天風呂で夜明け見ようぜ」
 もう一度誘ってきた。
 僕も、起きてはっきりした頭で考えると、
(露天風呂で夜明け……いいかも)
 初めての体験に心惹かれた。
「変なことするなよ」
「変なことって?」
 とぼけるものだから、起き上がって睨んでやると、
「しないしない」
 と、仁志は笑った。



 まだ暗い露天風呂に、二人で入る。仁志は、昨夜の日本酒の残りと猪口を盆に乗せて持って来た。
「風呂で酒飲むのはマズイんじゃないの」
「大丈夫」
 何だかとても楽しそうだ。普段がオヤジみたいだから余計こういうときの仁志はかわいい。
「ほら、こっち来いよ」
 昨日の昼と同じ誘いに警戒したけれど、
「本当に何もしないから」
 グイと腕を引かれて、すっぽりと仁志の足の間に納まってしまった。 背中から抱かれて、仁志の腕が僕の前で交差する。親指に残る歯形は、僕がつけたものだ。
「痛い?」
 そっと撫ぜて、尋ねると、
「いや」
 仁志は、自分でもその青紫の痕をさすって、
「エロくていい」満足そうに言った。
「バカじゃない」
 恥ずかしくてそんな言葉しか返せない。照れ隠しに空を見ると、まだ真っ暗で、
「すごいね、星がこんなによく見える」
 木々の間から切り取られて見える空には、東京では見られない明るい星が瞬いていた。
「八ヶ岳じゃもっときれいに見えたぞ。今度、行くか」
「え、ああ、そうだね。八ヶ岳って確か天体観測とかで有名だよね」
「有名かどうかは知らないが、うちの別荘がある。天体望遠鏡もあったな」
「なんか、すごいのがありそうだよね」
 さぞ大きいだろう藤嶋家の別荘や、個人所有とは思えないほど立派に違いない天体望遠鏡なんかを想像してしまってクスクス笑うと、仁志が空を指差した。
「あの赤いの、さそり座」
「嘘だよ。さそり座は夏の星座だろ」
 おかしなことを言うから、笑いが止まらなくなった。仁志は気にせず、チビチビ日本酒を飲んでいる。
「今何時くらいかな」
「もうすぐ六時だ」
 どこの時計を見たのか、すぐに答えが返ってくる。
「空、少し明るくなってきたね」
 真っ黒だった空が、ほんの少し明るくなって濃紺色になっている。木の枝の形がくっきりと浮き上がってくる。じっと見ているうちに濃紺色は深い海の色になり、段々白っぽさを増していく。
「面白いね」
 仁志の胸をベッド代わりに、仰向けになって天体ショーを楽しんだ。
「だろ」
 星の姿が見えなくなったとき、遠くで電車の音がした。
「始発が走り始めた」
「ああ」
 ぼんやり聞いていたら、いきなり頭上、数メートル先の林の間を赤い車両が走り抜けた。
「うそ、こんなに近く走ってたんだ」
 箱根登山鉄道だ。
「昨日は、気がつく余裕なかっただろ」
「誰のせいだよ」
 パシャンと後ろに向かってお湯をかけてやる。
 鳥の声が聴こえてきた。すっかり夜が明けた。
「のぼせてないか?」
「大丈夫、空気が冷たいから」
 身体を起こして軽く伸びする。一時間近くお湯に入っていたけれど、不思議と全くのぼせていない。
 ふと偶然見た先で、白椿の花がポトリと落ちた。
「あ」
 湯の上を滑るそれを拾い上げると、思ったとおり、外側の花弁こそ薄茶色の縁取りができていたけれどまだ十分綺麗だった。こんな盛りで落ちる花を、昔、祖母は不吉で嫌いだと言ったけれど、僕はなんだか潔く思えて好きだった。子供の頃の会話を思い出して、仁志はどう思うかと、
「ねえ」
 振り返ったら――
「我慢できねえな」
 妙に据わった目をして、仁志は持っていた猪口を後ろに放り投げた。
「へ?」
「なに花持って微笑んでんだよ。どこのグラビアアイドルだ」
「えっ、ちょ……」
 いきなり圧し掛かってくる。
「ちょっと、待って、仁志」
(何もしないんじゃなかったのか―っ!!)
 僕は手の中の椿の花を握りつぶしていた。

 結局、仁志は仁志だった。




 そんなこんなで朝から仁志のペースでいいようにされて、朝食も食べられず、僕は布団の中にいた。二泊だからチェックアウトの必要はない。今日はこのまま昼過ぎまで寝ていよう。
「……ないの? ……かしら?」
 遠くで女性の声がする。誰だろう。昨日の女将か、仲居さんかな。身体がだるくて、起きられない。
「あら、まだ寝てるの。お寝坊さんね」
 耳元ではっきりと声がして、僕は目を開けた。化粧をバッチリ施した隙の無い美人が僕の顔を覗き込んでいる。
(だ、誰っ?!)
 驚いてガバッと起き上がる。
 女将じゃない。何で知らない女性が、この部屋に?

 呆然と見ると、その女性はニッコリ笑った。寝起きで働かない頭に、一つの名前がひらめいてしまった。
(文絵さん……)
 その視線が、僕の首から胸へ、ジットリ舐めるように下りていった。
「わっ」
 僕は焦って布団を被った。身体中についている痣をかくして。
 布団の中に丸まってパニックをおこす。何でこんなかっこうしているんだ、僕は。どう考えても変だ。でも、プライベートな所にいきなり入り込んできた彼女だっておかしい。出て行ってくれというべきだろうか。でも、出て行くも何も、元々ここは彼女が取っていた部屋だし。

 頭の中がグルグルして酸欠を起こしそうになったとき、カチャリとドアの開く音とともに
「文絵?」
 仁志の尖った声が聞こえた。すぐにドタンバタンと襖を開ける音がして、
「何でここにいる」
 この部屋の中で、怒声が響いた。
「仁志、どこに行っていたのよ、かわいい恋人をほっといて。ジム?」
「んなこた、どうでもいいんだよ」
 仁志は、首にかけていたタオルを投げ捨て、
「何でお前が、ここにいるんだ」
 ひどく険悪な声で唸った。
 僕は、布団の隙間から顔を出してそれを見た。
 どうしよう。僕はどうしたらいいんだ。
 仁志に睨みつけられた文絵さんは、とくに怯んだ顔もせず、僕を振り返って、
「やだーっ、木の洞から顔を出してるプレーリードッグみたーい」
 いきなり笑った。
「…………」
「…………」
 仁志の肩から力が抜けたのが、僕の目にも分かった。





「俺は、よせって言ったんだ」
 文絵さんに遅れること、約一時間。RX‐7を飛ばして正輝がやってきた。電話で聞いたかなんかして、慌てて追いかけて来たらしい。
「騙し討ちみたいな真似するのは、ってね」
「失敬ね、どこが騙し討ちよ」
 文絵さんはつやつや光る唇を尖らせた。姉弟そろって騙し討ちが好きらしい。
「仕事があったんじゃなかったのかよ」
 仁志は不機嫌に、煙草のフィルターを噛んだ。
「急にキャンセルになったのよ」
「だからって、何でここに来る」
「いいじゃない、時間できたから、来たかったのよ」
 険悪な二人の会話(いや、怒っているのは仁志だけか)に、居たたまれなくなって少しずつ和室の隅に尻をずらしていくと、
「ねえ、順一さん、迷惑だったかしら」
 いきなり矛先を向けられて、
「いいえっ」
 条件反射のように答えてしまった。
 その途端、仁志の目がギロリと僕を見た。
(しかたないだろっ)
 こんな状況で「迷惑です」と言える心臓は持っていない。
「そうよねぇ」
 文絵さんは、膝立ちで僕の方ににじり寄ってきた。
「仁志が、いつまでたっても紹介してくれないから」
「すみません」
 何で、僕が謝るのか。
「でも、こんなに可愛いんだったら、隠しておきたくなるのもわかるけど」
 赤い爪の先でチョンチョンと僕の頬をつつく。こんなところまで似てるのか。
「やめろ」
 仁志がやってきて、僕と文絵さんの間に割り込んだ。
「怯えてるじゃないか」
「あら?」
 僕を見て形のいい眉を上げた文絵さんに、
「そんなこと、ありません」
 即、否定して首を振った。
 何を言うんだ、仁志。そんな失礼なこと言ったら、この後、気まずいだろう。
「順一、無理するな」
「無理なんかしてないだろ。何言うんだよ、仁志」
「そうよ、失礼よ、仁志」
 半目になって、顎を上げる文絵さん。
 正輝は気の毒そうに眉を寄せ、僕と目が合うと「ゴメンな」と言うように、片手を顔の前に掲げた。

「それより、お昼はどうしたの」
 座椅子の上に座りなおして、文絵さんが言った。
「まだ食ってねえよ」
 仁志の答えに、僕も急激に腹がすいた気がした。何しろ朝も食べていないのだ。
「ちょうど良かった。私もなのよ。ここで食べましょう」
 慣れた様子で、備え付けのフォルダーからメニューを引っ張り出して、
「華御膳にしましょう」
 ルームサービスを頼もうとする。
「あ、俺、生ビール」
 正輝が言うと、
「あなたが頼むのよ」
 メニューを突きつける。
「はいはい」
 正輝は素直に電話に向かう。
「仁志は?」
「いらん」
「順一さんは?」
「僕も」
「飲む?」
「じゃなくて。冷蔵庫にウーロン茶あるし」
「んじゃ、生二つね」
 正輝の確認を文絵さんは否定せずに、小さなバックからメンソールの煙草を取り出した。

 大きな座卓を挟んで、僕の左隣が仁志、正面が文絵さん、その隣、僕の斜め向かいが正輝という並び。何だか、ものすごく緊張する。僕の緊張を読み取ってか、
「弁当来るまですることもないから、テレビでも見るか」
 何だかわざとらしい台詞を言いつつ、正輝がテレビのリモコンを手に取った。プチッとつけると、馴染みのバラエティー番組は終わっていて、愛憎の何とか劇場とかいう昼メロの特番だった。
「つまんねえから、変えろよ」
 仁志が言ったが、
「あら、これ面白いってよ。へえ、ダイジェストやってるんだ」
 文絵さんが言ったので、正輝は、当然ながらチャンネルを動かさなかった。
 テレビの画面では、何とか言うアイドルがキツイ顔をした美人女優になじられ、苛められている。どうも、嫁と姑のようだ。
 赤い爪の二本指にスリムなタバコを挟んで、じっと見ていた文絵さんが、
「私ねえ」
 フーッと煙を吐いて言った。
「中学の頃、仁志にお嫁さんが来たらこんなふうに苛めるの、夢だったなあ」
「どんな中学生だよ」
「どんな夢よ」
 仁志と正輝は、すかさず同時に突っ込んでいたけれど、僕は笑えなかった。




 




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