「今度の三連休、予定あるか」
 仁志に尋ねられて、僕は即行首を振った。
 仁志と付き合い始めてから、自分ひとりで休みの日に予定を組んだことなど無い。仕事が入った時なんか、一番に仁志に報告している。上司よりも先。我ながらどうかと思うけれど。
「無いよ。どうして」
「旅行行かないか。近場だけど」
「どこ?」
「ゴ−ラ」
 日本の地名に聞こえなかったそれが、実は『強羅』で、箱根登山鉄道で行ける温泉地だと教えてくれたのは、正輝だ。最近、よくこの仁志の部屋に来る。この旅行の話を持ってきたのも正輝だった。
「文絵の定宿でさ、そこと年間契約してんだよ」
 そこがどこだか分からなかったが、とりあえずうなずいた。
「ニ月は仕事が入って行けなくなったらしくて、俺たちに行けってさ。どうする」
「どうするって、僕は、仁志に合わせるけど」
 そう言うと、正輝はニヤニヤした。
「何を笑ってんだよ」
 仁志はパコンと正輝の後頭部を叩いて、
「じゃあ行くか」
 そっけないそぶりで言った。
 そっけないふりはしていたけれど、口元はほんの少し緩んで見えた。
「行ってらっしゃい。楽しんできてネ」
 正輝の口元は、大いに緩んでいた。





* * *

 新宿発のロマンスカーと箱根登山鉄道を乗り継ぐのも旅情がありそうでよかったけれど、結局、以前ダメにしたドライブの代わりに、仁志のスカイラインで行くことにした。
 宮ノ下のクラシカルなホテルでお昼を食べて、僕たちは強羅の御華亭に向かっている。


「まだ怒ってるのか」
「別に、怒ってないよ」
 前を向いたまま答えると、
「怒ってんじゃねえか」
 ハンドルを指先で弾いて、仁志が笑いの混じったため息をつく。
「何が、カレーでも、だよ」
 僕は助手席で、憮然と言った。

 宿に行く前に「うまいカレー屋があるから」軽く食べていこうと言う仁志の言葉にうなずいて、言われるままに入った所は、どう見てもカレー屋なんかじゃなくて。
 案内された白布の掛かったテーブルで首をかしげていると、仁志はさっさと僕の分までオーダーをしてしまった。頼んだものは確かにカレーだったけれど、出てきたものはとてもカレーとは思えなかった。いや、カレーなんだけど、普通じゃないって言うか――何でカレーライスに伊勢海老とか鮑とか、牛フィレ肉とかフォアグラをのせる必要があるんだ。
 食べながら、仁志の傍らに閉じてあるメニューが見たくて仕方なかったけれど、仁志は知らん顔で、食後のコーヒーまで綺麗に飲み干して、テーブルで会計をした。その時、仁志が財布から取り出した諭吉三枚に、食べたカレーが逆流しそうになった。お釣りは野口英世が四枚。とっさに見分けられる自分の目がいじましい。
(ひとり一万三千円?)
 さすがに想像を超えていた。
 その『伝説のカレー』とかいう代物は、そこのホテル(カレー屋じゃなくて、れっきとしたホテルだ)の名物らしかったけれど、
「騙し討ちみたいにして食べさせるのってどうかと思うよ」
「騙しちゃないだろ」
 仁志の人差し指が、僕の頬をプシュと突いた。それで、自分が頬を膨らましていたことに気がついて顔をこすった。
「かわいいな、順一は」
 仁志はクツクツ笑う。
「だから、俺もやめられないんだよ」
「やめろよ」
 わかってる。
 仁志が僕にお金をかけるのは「愛情表現」だと正輝は言ったけど、もちろんそれは感じるけれど、半分は面白がっているんだ。生まれてからこの方、庶民暮らしに慣れ親しんだ僕が、オタオタするのが面白いんだ。
 再び頬を膨らましかけて、傍らの仁志に気がついて大声出した。
「危ないから、ちゃんと前見て運転しろっ」




「ようこそ、いらっしゃいませ」
 宿の敷地に車を乗り入れると、薄桃色の上品な和服を着た女将と若草色の作務衣を着た男の人が僕たちを出迎えてくれた。
「お疲れ様でございます」
 持っていた旅行鞄を女将に取り上げられて、僕は慌てた。大した荷物は入っていないが、女の人に荷物を持たせるわけには行かない。
「あ、いいです。自分で持ちますから」
「ほほほほ……」
 奪い返そうとしたけれど、女将は先に立って玄関までの道を案内始めた。仁志はというと、当然のように自分の車のキーを作務衣の人に渡している。
「どうした?」
「う、ううん」
 高級旅館に慣れていない自分がちょっと恥ずかしい。
「こちらへどうぞ」
 女将に案内された部屋は、庭に面した和室で、意外にこぢんまりとしていてホッとした。よく磨かれた窓から、つぼみの膨らんだ美しい紅梅や白椿、大きな池には立派な錦鯉が見える。
(あの鯉一匹で、僕の年収分くらいするんだなあ)
 いつか鯉ヘルペスが世間を騒がした時にテレビで聞いた話をぼんやり思い出していると、
「お抹茶は、こちらでよろしいですか?」
 女将に尋ねられた。首をひねると仁志が代わりに答えた。
「いや、部屋で」
「もう入られますか」
「ああ」
 何の会話だ。部屋って、ここじゃないのか。
 ぼけっとしている僕の目の前に、さっきの作務衣の人がきて、僕と仁志の荷物を持った。
(あれ?)
 また移動だ。
 エレベーターの前で、女将が非常階段、大浴場、プール、ジムなどの説明をする。これを言いたかったのかと思ったけれど、そのままエレベーターに乗る。女将は、一階のボタンを押して、
「フロントが最上階なので、お気をつけ下さいね」
 腑に落ちない顔をしていたらしい僕に向かって微笑んだ。
「は、はい」
 密かに辺りを見回しながら後ろから付いて行くと、廊下の突き当たりに格子戸があった。格子戸を開けると、短い距離ながら飛び石があり、日本庭園風のしつらえになっている。その先にまた戸。仁志は、持っていた鍵でそれを開けた。
(と、いうことは……)
 中に入ると広い玄関に三畳半のスペース、おもむろに仁志が襖を開けると、立派な床の間に掛け軸、壺花までついた和室が広がっている。
(ここが泊まる部屋なのか)
 じゃあ、さっき通されたあの部屋は、何だったんだ。
 仁志はそのままスタスタ歩いて、隣部屋への扉を開いた。
(え、まだ部屋があるの)
 クリスマスに泊まったスウィートルームを思い出した。
「ふん」
 と、仁志が鼻を鳴らす。 
 隣の部屋はフローリングだったけれど、奥に四畳半分の畳がベッドのようにしつらえられていて、その上にはふかふかの真っ白な布団が二組、綺麗に敷かれていた。
 それより何より、僕の目を奪ったのは、
「露天風呂?」
 フローリングの部屋の庭先では、樹木に囲まれた岩風呂が白い湯気を立てていた。
「こちらに内風呂もございます」
 女将に言われて振り返ると、庭と反対側に檜造りの風呂がある。これまた大人四人が入っても大丈夫そうな広さだ。
「奥にシャワールーム、こっちのドアはスチームサウナになっています。それからジャグジーバスをお使いになるときは……」
「乾く暇がありませんね」
 思わず口をついた冗談に、仁志がプッと吹き出した。



 広すぎる和室の真ん中で、抹茶と梅の香のする和菓子を食べて、僕は大きくため息ついた。
「ここの宿泊代、聞いてもいい?」
「聞いたらまた、かわいい顔見せてくれるのか」
 煙草を燻らせて、目を細める。
「もういいよ」
 ムッとしてみせると、
「気にするな。年間契約だって言っただろ。一日泊まったからいくらって訳じゃない」
 少しは僕の気を軽くしようとしてか、仁志が付け加えて言った。
「さ、ひと風呂はいるか」
 仁志がいきなり立ち上がる。僕は驚いて見上げる。
「もう?」
「もうって、こういうとこ着いたらメシ前にひと風呂ってのは、常識だろ」
 当たり前のように言われてしまって、
「あ、そ、そうだね」
 カッと顔に血が上った。
「なに、ヤラシイこと考えてんだよ」
 仁志がさもいやらしく口の片端をあげる。
「べ、別に、やらしいことなんか……」
 ちょっと考えてしまった。
(けど、それは仁志の、日ごろの行いのせいじゃないか!)
 心の中で毒づいてももちろん聞こえるはずはなく、仁志はさっさと服を脱ぎ始めた。
 綺麗に筋肉のついた仁志の裸が明るい陽の中に晒されて、なんだかとても恥ずかしく、正視できずに目を伏せる。
「ほら、順一も来いよ」
「う、うん」
 貧弱な自分の身体を気にしつつ、ベッドルームから露天に出た。
「すごい。気持ちいい」
 二月の箱根は、早春といってもまだまだ寒い。風も冷たく吹くけれど、それが温泉でのぼせそうな頭を冷やしてくれて、いくらでも入っていられそうだった。
「貸し切りの露天風呂なんて初めてだ」
 というか、もともと旅行とかにはあまり縁の無い生活だったから、露天風呂自体、今まで二、三度しか入ったことない。
「こっち来いよ」
 手招きされて、仁志の隣に寄る。まさかと思ったけれど、仁志の手は僕の肩を抱いて、そのままいたずらに胸に下りる。
「ち、ちょっと」
 僕は、焦って裸の胸を押し返した。
「何もしないんじゃなかったのか」
「は? 何言ってんだ」
 仁志の手が、僕の腕をつかんで再び引き寄せる。
「さっき……」
「ヤラシイこと、考えたんだろ? お前も」
 唇が耳たぶを噛む。
「ちが…っ」
 指で胸の先を押しつぶされると、条件反射のように声が上がる。
「あ、んっ」
「ほんと、敏感になっちまって」
 誰のせいだよ。
「やめ……」
 仁志の唇が顔を逸らしたうなじから鎖骨へと下りていき、胸をまさぐる手が、わき腹を伝い腰の下に伸ばされると、すっかり飼いならされた僕自身は、あからさまに反応してしまう。
「やっ、仁志……っ」
 やんわり握り締められて、僕は唇をかんだ。

 何しろここは露天だ。いくら貸し切りで二人っきりとはいえ、二階の部屋には、いや三階四階にも、宿泊客はいらっしゃるのだ。

(ダメだって)
 こんな陽の明るいうちから、変な声を聞かせるわけにはいかない。いや、暗くなってもダメなものはダメ。
「んっ……」
 片手で自分の口をふさぐと、仁志の手がそれを邪魔する。
「んんっ」
 無理やり僕の指を引き剥がそうとする仁志の、親指の付け根に噛み付いた。
「てっ」
 小さく叫んで、仁志はグイと僕の顎をつかむと上向かせた。
「ったく、そそることしてくれる」
 じっと目を見て、噛み付くように口づける。
「う……」
 散々口腔をなぶられた後、裏返されて、岩に押し付けられた。
「やっ」
 今度こそ大きな声を出しそうで、僕は仕方なく自分の腕に歯を立てた。仁志は、僕の後ろに突き立てながら、
「バカ、痕がつくだろ」
 僕の口から腕をもぎ取ると、自分の親指を僕の口に差し込んだ。
「んっ」
「いいぜ」
 食いちぎっても、と耳元で囁かれ、僕の背中がビクビクと震えた。
「う、あ……」
 何度も突き上げられて、頭の中が真っ白になる。
 お湯の中で出すことだけは避けたかったのだけれど、そんな理性はいつの間にか吹き飛ばされていた。




「サイテー」
 僕は真新しい糊の効いたシーツの上でポツリと呟いた。
「夕食の時間は遅らせたから」
 僕の額の濡れタオルをひっくり返して、仁志がほんの少しだけ心配そうな顔をする。
「大丈夫か?」
 僕は黙って仁志を睨んだ。明るかったはずの窓の外は、もうすっかり暗くなって、露天風呂を囲む樹木が三方からライトアップされている。 結局、何時間風呂に入っていたんだろう。僕がのぼせて倒れるまで、仁志は許してくれなかった。あれだけ我慢していた声だって、最後はわけわからなくなっていたし。喉がこんなに痛い理由を考えると、この部屋から一歩も外に出たくない。
「怒ってるのか、おい」
 僕のこめかみに貼りついた髪の毛を長い指の先ですく。僕は、額のタオルを仁志に投げつけて、寝返り打って背を向けた。
「何だよ、すねるなよ」
 仁志は畳の端に腰掛け、
「機嫌直せよ、順一。順ちゃん」
 ちょんちょんと僕の頬を突く。僕は無言でその手を振り払う。ついでに布団を頭まで被った。
「順一」
 布団の上から抱きしめられた。
「ごめん、悪かった」
 布団ごしに顔を擦り付けられる気配。
「お前があんまりかわいいから、歯止めが利かなくて」
 歯止め?
(利くも利かないも)
「仁志に歯止めなんてあったためしないじゃないか」
 ボソッと言うと、
「確かに」
 笑い声とともに、もう一度きつく抱きしめられた。
「苦しい」
 布団をはいで肩越しに睨んでやると、すぐ傍にひどく優しい瞳があって、気勢がそがれてしまった。
「順一」
 額に触れる優しい唇に戸惑ってしまう。
「ズルイよ」
 僕は、仰向けになって、大きく深呼吸した。
「そうやってごまかす」
「ごまかしてなんかないだろ」
「ごまかしてる」
 僕より四つも年下のくせして。仁志の前では、こっちが子供みたいな気分になる。
「ごまかしてない。ちゃんと謝ってるだろ」
 仁志は、僕の鼻を軽くつまんだ。それこそ駄々をこねる子供にするみたいに。
「もう」
 僕は、首を振って起き上がった。
「それがごまかしてるって言うんだよ。まったく、僕のこといくつだと思ってんだ」
「今年二十六」
 はっきり言われてかえって恥ずかしくなった。そうだ、今年二十六才にもなるのに、何を子供みたいな真似してるんだ。
「……起きる」
 もそもそと布団から這い出した。
 バスローブを羽織らされただけだったので、紐をさがす。
「ほら」仁志がそれを取って、
「通してやる」バスローブの腰に通してくれた。
 ついでに前で結んでくれて、これまた子供のような扱いだと思ったが、
(マズイ)
 子ども扱いされて「嫌じゃない」自分に気がついてしまった。







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