第四話 仁志視点
「手、どうしたんだ?」 運ばれてきたコーヒーを受け取った俺の手のひらのバンドエイドに気がついて、順一は不思議そうな顔をした。 「ああ、ちょっとね」 「マメ?」 「こんなとこにマメは作らないだろ」 「じゃあ何、ヤケド?」 「よくわかったな」 「本当に? ヤカンか何か掴んだのか」 「いや、煙草」 「煙草?!」 順一はギョッとして素っ頓狂な声をあげた。 「根性試してみました」 「うそっ、何で」 信じるなよ。 「嘘だって。ちょっとした事故」 「大丈夫なのか?」 「ああ」 ヤケドしたあとすぐに冷やしたし、文絵のヤツがあんな真似さえしなかったら、こんなふうに翌日まで絆創膏を貼るようなことにはならなかっただろう。 『あなただけ幸せそうでずるいんだもん』 ふてくされたような文絵の顔を思い出すと、順一を紹介するのはまだやめといたほうがいいかもしれないという気になる。まったく正輝のヤツがいつまでも調子こいて遊んでいるから、文絵がああなるんだ。 (文絵のこと好きなくせして) などと、ついつい余計なことを考えていたから、 「で、いいだろ?」 順一に促されて、 「え? ああ」 うなずいてしまった。 (何がいいんだ?) わからない。 「よかった」 順一は嬉しそうに言った。 「前に仁志が変なこと言うから、これでも気を使って断ってたんだよ」 (変なこと? 気を使って?) 自分が一体何を言って、順一に何の気を使わせていたのかと、密かに焦って考えた。 「でも、もう安田も僕たちのことわかってくれてるし」 (安田?) ピンと来た。そしてわかった。 順一は、安田と飲みに行きたいと言ったのだ。 「もともと仁志が心配するようなことは何も無いんだけどね」 順一はあっけらかんと笑う。 「安田にはちゃんと彼女もいるし。なのに、仁志がわけわかんない心配するから」 「…………」 わけわかんない、じゃない。 同じ会社で四六時中一緒にいて、しかも「僕のこと、弟みたいだとか言うんだよ」とか言っただろう。警戒するに十分だ。 (しかも、飲み……酒が入るだと?) ダメだと言いたかったが、一度うなずいてしまった上、順一がひどく嬉しそうなので(それがなおさら心配なのだが)言い出せなかった。 まったく、この俺ともあろうものが、順一にはとことん甘い。 「いつなんだ?」 「え?」 「行くんだろ、飲みに」 「ああ、まだいつかわからないよ。新年会だから来月ってことは無いだろうし、今週か来週の木か金かな」 「決まったら言えよ」 「何で?」 「その日は会えないんだろ」 真意を隠して、コーヒーカップを口元に運ぶ。 「あ、うん。そうだね」 順一はあっさりうなずいた。 日にちを聞いたついでに、店も聞いた。警戒心の無い順一はペラペラしゃべった。いや、俺に警戒されても困るが。 順一の会社からさほど離れていない、西新宿の居酒屋だ。チェーン店だがそれなりに高級感があって、学生はほとんど来ない。まさに会社帰りのサラリーマンの集う店。 「どうするかな」 七時半スタートだと言っていたから、十時くらいまでは飲んでいるだろう。俺は九時半くらいから近くのスタバで時間をつぶすことにした。 本当はこんなストーカーみたいな真似、酒の一杯も引っかけなきゃできないが、車だから仕方ない。 (終わったら電話しろって、一応言っといたけど……) ポケットの携帯電話を確かめる。 あいつは、自分からは滅多に電話をかけてこない。もちろん用があるときは――待ち合わせに遅れるとか――かけて来るけれど、それ以外ではほとんど無い。 『苦手なんだよ』 『営業のくせして。電話は商売道具だろ』 『だから余計、かな。電話より、会って話すほうがいい』 そりゃあ、毎日会えれば俺だってその方がいい。でも会えない日だってあるんだから、声くらい、毎日聞かせろ。 飢(かつ)えている――自分でも思う。 毎日声が聞きたい。毎日顔が見たい。毎日抱きたい。 自分が一人の人間にここまで執着する日が来るとは、思ってもみなかった。正輝が呆れて、俺に尋ねたことがある。順一が今までの恋人とどう違うのか。 「わかんねえよ」 さんざんノロケてやったけど、結局のところ、俺にだってわからない。だから重症だ。原因不明。 ぼんやり考えていたら、ポケットからいきなり明るいメロディが響いた。順一専用の着信音だ。 「順一?」 「あ、もしもし? 今終わった。電話しろって言ったろ、だから」 着信音にも負けないくらいに声が明るい。いつになく。 (酔っ払ってるな……) 「じゃあね」 かかってきたとき同様、いきなり切れた。 俺は立ち上がって、順一の飲んでいた店の入っているビルに向かった。 「ほら、芦田、しっかりしろ」 「大丈夫だって」 ビルの横手のエレベーターから降りてきたのは、まさに酔っ払って足元のおぼつかない順一と、それを支えるあの安田という男だった。 「芦田、酒弱くなったなぁ」 「最近、付き合い悪いからだ。なあ」 「どうする? 二件目、軽く行くか?」 同僚らしい男たちも相当飲んでいるらしく、みな揃って赤い顔をしている。グレーのスーツにアースカラーのトレンチコートといういかにもサラリーマン風の男たちの中に順一がすんなり溶け込んでいるのが、なんとなく腹立たしかった。 「あっ」 近づいた俺に先に気がついたのは、安田のほうだった。 「何?」 立ち止まった安田に、順一は顔を上げて、視線の先に俺を見つけた。 「あれぇ」 酔って上気した顔でポヤンと俺を見つめる。安田の肩に自然に置かれた腕が気に障る。安田の右腕は順一の腰に回っている。 「どうしたんだ、仁志」 迎えに来てくれたのか? と、能天気に尋ねる順一を安田から引き離して、 「帰るぞ」 そのまま駐車場に引っ張っていった。 「え、あっ、おい、ちょっと……」 順一は多少抵抗したものの、ズルズル引きずられて、あきらめたように付いて来た。 「どうしたんだよ、いきなり」 助手席に座りながら、まだ赤い顔で俺に尋ねる。 「偶然ってわけじゃないだろ? 待ってたのか」 自分のストーカーぶりを指摘されたようで、俺はワザとぶっきらぼうに答えた。 「酔っ払ったアンタは危なっかしいからだ」 「何言ってんだよ」 順一は笑った。 「仁志は、たまに変なこと言う」 「変なことじゃないだろ。さっきだって……」 安田に抱きついていたじゃないか。いや、抱きかかえられていたのか。思い出すとムカムカして、俺は乱暴にキーを回した。駐車券をさがす。 「さっき?」 きょとんと首をかしげる顔が目の端に映って、俺は八つ当たり半分で言った。 「酒飲むたびに、そんなに無防備になるな」 ああくそ、止める位置が悪かった、駐車券が上手く機械にはいらない。 「何、それ?」 「アンタ、前科あるからな」 「前科って何」 仕方なく一度車を下げてハンドルを切る。イラついてるからか? 普段こんなヘマはしないのに。ようやく駐車券が入ってランプがともる。 「なあ、前科って何だよ」 順一にからまれて、おざなりに答えた。 「俺と初めて会った時も、酔っ払ってフラフラホテルまで付いてきただろ」 そうだ、この近くのホテルだった。 「すぐ、イイ声で泣きやがって」 あれで俺はつかまっちまったんだ。 ふいに空気が変わった気がして、俺は助手席を振り返った。 順一の顔が、さっきまで上気して赤かったはずの顔が、はっきりとわかるほど青ざめていた。 「そんな風に思ってたんだ……」 唇が震えている。 自分が失言したと気づいたのは、このときだった。 シートベルトを締めようとしていた順一の手が、ドアにかかる。 「あ、おい」 止める間もなく、順一は車から降りて駐車場から駆け出していった。 「順一っ!」 俺はすぐに追いかけるべきだった。 俺なんかよりずっと繊細な神経を持った順一が色々と考え出す前に、抱きしめて、有無を言わさず、口づけるべきだった。 けれど駐車場の出口のど真ん中にスカイラインを乗り捨てていくことが出来ず――また運悪く、後ろから別の車が迫っていた――慌てて財布から千円札を取り出して投入口に滑らせた。釣りを無視してアクセルをふかす。 (どっちに行った?) 車じゃ路地の裏までは探せない。路駐する場所を探して、無駄な時間を食った。 「順一……」 自分自身に腹が立つ。 けれども、後悔するのは、この後だった。 |
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