第三話  文絵視点

「ただいまあ〜っ」
 ハイヒールを放り投げるように脱いだ。
「お前のうちじゃないだろ」
 仁志は『迷惑』と顔に貼りつけている。
「何よ、たった一人のお姉さまでしょ、もっと大切になさい」
 ハンドバックを振り回して殴ろうとしたら、バランスを崩してよろけてしまった。
「こんなのが二人もいたら困る」
 仁志の腕が私を支える。無愛想な顔をしていても優しいのだ。
「お水ちょうだい」
「ったく、飲みすぎなんだよ」
 ミネラルウォーターとグラスを持ってきてくれる。
「サンキュー、仁志ちゃん」
 頭を撫でてやろうとしたが、それは避けられてしまった。
「水飲んだら、隣に行けよ」
「何でよ?」
「文絵の家はあっちだろうが」
「私の家は恵比寿よ。隣じゃないわ」
 隣に住んでいるのは、藤嶋正輝。私の従弟であり、婚約者だ。
「じゃあ、恵比寿に帰れ」
「つめたいの」
 ソファに仰け反って、ついでにそのまま横になった。しばらく寝かせてもらったが、
「こら、こんなところで本格的に寝るんじゃねえ」
 腕をつかんで起こされた。
「いたた……痛いって」
 馬鹿力。腕が抜けるじゃないの。
「今、正輝、呼ぶから」
 仁志は携帯を開いた。
「いないわよ」
「え?」
「まだ帰ってないわよ、今頃は芝浦で女の子に囲まれているか、海に落とされているかじゃないの」
 私の言葉に、仁志は大きくため息をついた。
「あのさ、姉貴」
「…………」
「正輝と喧嘩するたびに、俺のところ来るの、やめてくれないか」
「…………」
 可愛くない。
 昔は可愛かったのに、いつの間にかこんなにでかくなって、一人前にこの私に説教するようになっちゃって。
「だいたい姉貴も悪いんだよ。結婚するまで自由にしていいなんて言うから、あいつ調子に乗ってんじゃないか」
 昔は、私が正輝と喧嘩したら私を庇って戦ってくれたじゃないの。あの仁志はどこに行ったのよ。
「聞いてんのか」
 私を部屋から追い出したい理由もわかっているのよ。新しい恋人に合鍵あげたんだって? いきなり来られたとき、私がいちゃ迷惑なのよねえ。
「見栄張らないで、浮気されるのは、本当は嫌なんだって言ったらどうだ」
「何ですって?」
「お、いきなり反応したな」
「誰が見栄張ってるって?」
「姉貴だよ。本当は、正輝のああいう態度、嫌なんだろ?」
「はっ、何言い出したの。正輝は、昔っからああじゃないの」
「正輝がどうとかじゃなくて、姉貴がそれをどう思ってるのかだよ。本当に許してるわけじゃないだろ」
 仁志は向かいのソファに深く座ると、灰皿を引き寄せ、煙草に火をつけた。その仕草に目を奪われた。わが弟ながらゾクリとするほど色気がある。私は煙草を吸う男の手が好きだ。仁志の手は筋張っていて、無骨でなく繊細すぎもせず、理想的な形だと思う。
 私がぼんやり見蕩れていたら、仁志はその手で灰をトンと優雅に落として、私の顔を覗き込んだ。
「だから、聞いてんのか」
 その顔もまた見蕩れるに値するものだ。正輝も綺麗な顔をしているが、しかも二人は似ているとよく言われるが、それでも私は、仁志の顔のほうが好きだなあと思う。こんなにいい男がホモだなんて、神様も罪作りよね。私にしてみれば同じ女に取られるくらいなら男のほうがマシだけど。それにしてもこの仁志が夢中になっているらしい相手は、いったいどんな男なんだろう。
「目開けて寝てんのか、文絵」
「仁志」
「何」
「あなたの今の恋人って、どんな人?」
「なっ何言い出すんだよいきなり。今は俺の話じゃな、うわっち」
 焦って煙草を取り落としたのをとっさに手のひらでつかんで、叫んでいる。
「熱っ…っ」
「大丈夫?」
「やけどした」
 手のひらを見せてもらうと、煙草の火を握ったところが赤くなっている。
「あら大変」
 さっき仁志が持ってきたミネラルウォーターの残りをジョボジョボかけた。
「あのなぁ……酔っ払い」
 床を濡らす水を見て、
「拭くもん、取ってくる」
 ウンザリというように仁志は立ち上がった。
「これでいいわよ」
 正輝に貰ったカシミアのマフラーで拭いてみたが、撥水加工しているのか、吸い取りは良くなかった。
「それクリスマスに貰ったやつだろ、大切にしろよ」
 濡れタオルに手を包んで、仁志が戻ってきた。
「今日の仁志は説教が多いわね」
「説教じゃねえよ。俺、あいつがそれ買うとこ見てたからな」
「ふうん……何枚買ってた?」
「はい?」
「二十枚くらいまとめ買いしてたんじゃないの」
 それでも足りないだろう。今年、正輝が寝た女の数。
「一枚だけだよ、結構マジになって選んでたぜ」
 諭すように言う仁志が小憎らしい。ちょっと苛めてみたくなった。
「ねえ、話がそれたけど、あなたの恋人、順一さんって言ったっけ。結局会わせてもらってないけど」
「ああ」
「紹介してくれるって日に、すっぽかされたのよねぇ、なんか見ていて気の毒だったわ、あの時のあなた」
「もうその話はすんな」
「早く紹介してよ」
「そのうちな」
「そのうちっていつよ。藤嶋の新年会にもつれてこなかったし」
「あんな派手なところ連れて行けるか」
 仁志は憮然と言った。
「そうでなくても俺のこと金持ちのボンボンだと思って、色んなことにいちいち目くじら立てているんだから」
「だって、そうじゃないの」
 金持ちのボンボンでしょ。
 しかも、それを裏付けるように、高価なものを次々とプレゼントしているという話を正輝から聞いている。正輝は『それがよくわかんねえ』とも言っていた。
『ボンボンと思われたくないくせして、金遣いはわざとのように荒いんだぜ。慎ましやかな恋人なんだから合わせてやりゃあいいのに。プレゼントするたびに喧嘩してどうすんだよ、なあ』
 でも、私には何となくわかる。愛情を表すのにお金を使うのは、死んだ父親の癖だった。
「ねえ、どんな人? 可愛い?」
「……かわいいよ」
「どんなところが?」
「どんなって……」
 仁志は、今まで見せたことの無い照れくさそうな顔で、
「全部」
 ポソリと言った。
「うわ、ごちそうさま」
 苛めるつもりがあてられてしまった。悔しい。
「もう寝るわ」
 立ち上がると、
「俺の寝室は使うなよ」
 さらりと言われた。
「……そうね」
 あなたが可愛い恋人と寝るための部屋なんだものね。私も遠慮したいわ。
「仁志、手、どうなった?」
 手招きすると、仁志は素直に手を出した。濡れタオルを取ると、手のひらに水ぶくれが出来ていた。
「痛そうね」
「いや、それほどでも」
 と、言い終わらないうちに
「っ、たぁあっ」
 仁志が手のひらを押さえた。私が人差し指の爪で、水ぶくれをつぶしたのだ。
「何しやがる、このっ」
「だって、あなたひとり幸せそうでずるいんだもん」
「なん……あ、おい、どこ行く」
「隣。一応、合鍵持ってるのよ」
「だったら最初からあっちに行きやがれっ」




 靴は面倒だから履かずに出た。すぐ隣だし。合鍵を使って開けると、灯りがついていた。
「お帰んなさい」 
 リビングで正輝が、缶ビール片手に煙草を吸っていた。
「正輝、帰ってたの?」
「女王様が機嫌を損ねて帰ってしまったから。ソッコー追いかけました」
「嘘ばっかり。今さっき帰ったんでしょう」
 その言葉に正輝は左の眉を上げて、上目遣いに私を見た。
「床が冷たいもの」
 床暖房のランプは青く光っているのに、まだ温まっていない。
「うわー、名探偵がここにいる」
 正輝が笑う。
「ふん」
 シャワーを浴びるつもりで、クローゼットのある寝室に行ってバスタオルとローブを出した。正輝は後ろからついてきた。
「仁志のところから、追い返されたのか」
「追い返されたわけじゃないわ」
「あのシスコンに、こないだ聞いた」
「何を?」
「順一と文絵が二人して死にかかっていて、自分の心臓をやれば助かるって言われたら、どっちにやるかって」
「…………」
「順一だって、即答した」
「愉快な話だこと」
 ムッとしてバスルームに続くドアを開けた。
「待てよ。続きも聞けって」
 正輝の腕が伸びて、私の腰を後ろから抱いた。
「あいつ、こう言った。『俺の心臓は順一にやるから、文絵にはお前の心臓をやれ』ってさ」
「…………」
 私の応えを待って、冷たい唇がうなじに触れる。
「それで? 正輝は、私に心臓をくれるの?」
「もちろん。文絵のためなら」
 腰に回る正輝の手に自分の手のひらを重ねた。
「調子いいわね。……正輝ならそのへんの女の子全員に心臓さし出しそう」
「たくさん持ってればね。でも、一個しかなかったら文絵にやるよ」
 百万人の女を虜にする声で囁かれた。
「俺の一番は文絵です。文絵もそろそろ俺を一番にしてくれよ」
 何を言っているんだろ。そりゃあ私はブラコンを否定しないけれど、恋人としたらとっくにあなたが一番なんじゃないの。
「なあ、もし、俺と仁志が死にかけていて……」
 つまらないこと聞くんじゃないって。









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