第一話 正輝視点
珍しく予定の入らなかった金曜、午後六時。 買ったまま溜まっているDVDでも見るか、と考えながらマンションのエントランスに入ると、 「あれ?」 俺の従兄藤嶋仁志の恋人、芦田順一がすれ違いに出てきた。 「あ……」 順一も俺に気づいて目を瞠る。 「ドシタの? 仁志は?」 「あ、ううん」 軽く目を伏せ、 「いなかった。もともと約束はしてないんだ」 また来るね、と出て行こうとする。 「待てよ」 その手をつかんで引き止める。 「カギは? もらってんでしょ?」 仁志から、順一に合鍵を渡したと聞いている。 「あ、うん……あるけど」 「入って待ってりゃいいじゃん」 「いや……」 ついでに、合鍵渡したのにちっとも来やしねえ、と仁志がぼやいていたのも聞いていた。 「せっかくあんだから、こんなときに使わないと」 「でも……」 順一は、まつ毛を伏せたまま呟いた。 「部屋の主が居ないときに勝手に上がるのって、気が引けるんだ」 俺は、順一のまつ毛が意外に長いことに内心ちょっと驚きながら、 「んじゃ、俺の部屋で待てよ。隣だから帰ってきたらわかるさ」 まだつかんでいたままだった腕を引っ張った。 「ゴメン」 「何が?」 部屋に入るなり謝られて、俺は、わからず聞き返した。 「だって、邪魔だろ。突然」 「別に。今日は予定無かったし」 「珍しいね」 と言って、順一は 「あ、ゴメン」 また謝った。 「今度は何に?」 おかしくて笑いが出る。 「大きなお世話なこと言って」 「あはははは……」 仁志から散々聞かされているけれど、この順一は、四つも年上とは思えない可愛いところがある。今も俺が笑うので困ったように目元を赤く染めている様子は、はにかんだ子供のようだ。 (いや、子供というより……) 色っぽい。 特に美形というわけじゃない。どっちかというとどこにでもありそうな顔だ。もちろん仁志が惚れるだけあって、よく見れば整っている。なのに第一印象がパッとしないのは、目も鼻も口もおとなしい造りだからだ。だが、それだけに、ちょっとした表情がひどく「そそる」のだと、仁志は言った。 (たぶん、こんな顔のことをいうんだろう) じっと見つめていると、順一は 「何だい?」 きまり悪そうに眉を寄せた。 「や、何飲む?」 冷蔵庫を開けながら尋ねた。ビールなら常に一ダースはキープしている。ウイスキーもバーボンもスピリットも揃っている。カクテル系も言われりゃ作れる。 「いいよ、おかまいなく」 「何で? もう仕事は終わってんでしょ」 そういえば順一はサラリーマンだ。こんな時間にここに来るのは珍しいんじゃないか、とりあえず冷えた缶ビールを渡しながらそう言うと 「あ、うん。今日はたまたまこの近くで仕事が終わったから、直帰させてもらったんだ」 落ち着かないそぶりで椅子に座った。 「へえ、それで仁志がいるかと思って来たんだ」 思わずニヤリと笑うと、順一は耳をほんのり赤くした。その耳たぶに触れてみたいと思ったけれど、仁志の顔が浮かんで止めておいた。 「ケータイに電話してやればよかったのに」 「ああ、そうだね」 順一は胸ポケットから小さな携帯を取り出して、少し考えた後、短いメールを打っていた。 「正輝君って、どうして片方だけカラーコンタクトしてるの?」 順一は酒が入るといつもより饒舌になる。うるさいと言うほどじゃない。普段遠慮がちなのが、人並みにおしゃべりになるという程度。 「ああ、俺、がちゃ目なんだよ」 「ガチャメ?」 順一が小首をかしげる。こんな顔見せられたら、仁志なら、すぐ押し倒したりするんだろう。 「右と左で視力が全然違うの。左は1.2あるんだけど、右は0.3あるかどうか」 左手で左目を隠して見せた。 「だから、矯正するのに片方コンタクト入れたほうがいいって言われて、どうせならオッドアイにするかと」 「へえ」 順一は、俺の水色のほうの目を覗き込んで、 「そうするとどう見えるの? 視界の片方だけが水色になるってことは無いよね、もちろん」 子供みたいに尋ねた。 「別にグラサンとは違うから、視界に色はつかないよ」 カラコンといっても、真ん中には色はついていない。 「そうなんだ。僕も左右で視力違うよ。ガチャメって言うの?」 「へえ」 「子供のときに、寝ながら本を読んでいたのが悪いって言われたんだけど、やっぱり右だけ0.2くらいかな。左も0.8だから、どっちも悪いんだけどね」 「コンタクトは?」 「してない。なんか目の中にモノ入れるのって、痛そうで」 小さく笑って首を振る順一に、 (もっと痛いモン、別んトコに入れられてるダロ) という言葉は、ギャグにしても下品すぎるから言わずにおいた。 「じゃあ、普段、メガネ?」 「ううん、それもなんか合わなくて、頭が痛くなるからほとんどしないんだ」 両手の人差し指でこめかみを押さえるポーズ。 「じゃあ、見えてないんだ」 「いや、日常生活に支障は無いよ。左で0.8あるし。でもさ」 順一は、手のひらで首筋を押さえて肩を回した。 「肩がこるよね」 「え?」 聞き返したら、順一は目を丸くして俺を見た。 「肩、こらない?」 「いや、ああ」 俺は、生まれてこの方、肩こりという経験が無い。 「肩こったことはないな。筋肉痛とかならあるけど」 「ホント? 正輝君って、肩こったこと無いの?」 「無い」 「へぇっ」 と、驚いて見せてから、順一は急に恥ずかしそうに頬をかいた。 「ゴメン、なんか僕、年寄りくさいね」 「そんなこと無いけど」 おかしくて笑いがこみ上げた。 「若い時から肩こりヒドイ奴もいるよ」 俺の婚約者、仁志の姉貴の文絵がそうだ。しょっちゅう肩を揉まされた。 ふと思いついて、俺は立ち上がった。 「揉んでやろうか」 「えっ、いいよ」 「いいから、いいから。俺上手いんだよ、仕込まれてて」 順一の腕を引っ張って立たせると、そのままソファの前に連れて行った。ソファには俺が腰掛けて、順一はその脚の間に座らせる。揉みやすい位置に肩がきた。 「んっ……」 グッと親指に力を入れると、順一は色っぽい声をあげた。そういえば仁志が順一は「声がいい」のだとノロケていた。 「あ…」 「どう?」 「んっ、キク…ッ……上手だね、正輝君」 「フフン」 ツボは心得ている。 「こってますね、お客さん」 「んっ…」 順一の首がうなだれる。うなじもやけに色っぽく見えるのは、この声のせいか。 「どう? いい?」 声が聞きたくて、指を動かすたびに尋ねる。 「うん」 「ここは?」 「うん」 「いい?」 「いい…っ……んっ……」 確かにいい声だ。何だか背中がゾクゾクする。もっと順一を喘がせてみたい。 ここぞ、というツボをつく。 「あ、いいっ……」 と、そこに 「何してる、てめえら」 地の底から響くような仁志の声がした。 (げっ) 「あ……」 後ろ向きだからわからないが、たぶん順一は情事のあとのようなポヤンとした顔で仁志を見たのだろう。仁志は大またに近づいて、俺の脚の間から順一を引っ張りあげた。 「わっ」 「何してんだよ」 「何、って、肩を揉んでもらって」 仁志の腕の中でもがく順一は、予想通り目が潤んでいる。そりゃそうだ、俺のゴールドフィンガーのテクニックにかかっちゃあ、ね。 「肩揉まれたくらいで、そんな色っぽい声出してんじゃねえ」 「何言ってんだよ」 順一には自覚が無いらしい。 「ったく、何で俺の部屋で待ってねえで、コイツんとこに来てるんだ、お前は」 眉を吊り上げる仁志を見ながら「お前こそ何で俺の部屋に上がりこんでるんだ」と考えて、 (あっ) 思い出した。 さっきビールを飲み始める前に、順一がメールを打っていた。俺の部屋に居ると。 たぶんそれを見て飛んで帰ってきたのだろう。俺は、こんなことならメールなどさせるんじゃなかったと後悔した。後悔先に立たず。当たり前、後で悔やむから後悔だ。 (しかも、カギもかけ忘れていたようだ) 「帰るぞ」 「あ、うん、待って、片付け」 順一は、テーブルの上の飲みかけの缶や、袋の空いたポテチなんかをキッチンに運ぼうとした。 「いい、そのままで」 って、お前が言うな、仁志。 「ああ、いいよいいよ。俺まだ飲んでるから」 仁志に睨まれて、俺が言うと、 「そう?」 ポテチの袋はテーブルに戻し、 「でもこれは捨てるね、せっかくもらったのに、残してゴメン」 缶ビールを持って、すまなそうにしている。その顔が可愛くて、 「それも置いといてよ。飲むから」 「え?」 「間接キス」 俺の言葉が終わらないうちに、仁志が順一の手からそれを取り上げ、流しにジャボジャボ中身を捨てた。ギュッと握りつぶして、燃えないゴミの袋の中。 「邪魔したな」 「いいえェ、またいつでも、ドオゾ」 やきもち焼き屋サン。 普段えらそうな従兄の、こんな態度には頬が緩む。 「何で肩なんか揉まれてんだ」 「だから、ガチャメが」 「ガチャメ? なんだ、そりゃあ」 煙草を吹かしながらベランダに出ると、恋人同士の痴話喧嘩が微かに聞こえてきた。ベッドルームは完全防音だけれど、リビングの会話は通風口の加減で盗み聞きできるのだ。 「左右の視力がバランス悪いと、肩がこるんだってば」 「コンタクトしろよ」 「痛いから無理」 「じゃあ、メガネ」 「頭が痛くなるんだ」 どっかで聞いた会話が繰り返されている。 「そりゃ、度が合わないんだ。ちゃんとしたのを買って慣らしていけばいい」 「そうかもしれないけど……」 「俺が買ってやる」 「えっ? いいよ」 「いや、買う。いいかもしれないな。ストイックなの、似合いそうだ」 「なっ、や……」 「メガネしたまま、抱かれてくれよ」 「や…バカ」 残念ながら、続きは聞こえなくなった。 |
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