ファミレスの明るい灯りは向いの駐車場まで届いていて、マサキの濃紺のスカイラインは夜目にも輝いていた。僕が近づくと、マサキは運転席から降りてきた。
「順一」
 明々と照らす電燈が、マサキの彫りの深い顔に陰影をつける。
「ごめん、遅くなって」
 もう八時に近かった。特に残業があったわけではない。もちろん、マサキへの嫌がらせにわざと待たせたのでもない。マサキとちゃんと話をしようと考えると、心の準備にこれだけの時間が必要だったのだ。
 僕は、何度も練習した言葉を唇にのせた。
「土曜日はごめん。約束をすっぽかしてしまって」
 マサキが何か言いかけたけれど、無視して一番肝心なことを言う。
「もう、これきりにしよう」
 マサキの目が大きく開いた。
「ありがとう。短い間だけれど、楽しかった」
 楽しかった。
 けれど、終わりの見えている関係は嫌だ。嫌だということに気がついた。
 マサキが独身の間だけの、あとたった一年半の期限付きのつき合いなんて、水野さんじゃないけれど、僕だって御免だ。―――これ以上好きになったら、別れられない。
「……どうして」
 言葉を失っていたマサキが、ようやく声を震わせる。
 僕の方から別れを切り出されるなんて思いもしなかったと言う顔だ。
 僕は、最後のプライドで笑って見せた。
「婚約、おめでとう」
 マサキの顔が驚愕に歪む。
 それ以上見ていられなくて、僕は踵を返した。


「待て」
 腕をつかまれる。
「離せ」
 振りほどこうとしたけれど、マサキの方が力は強い。
「俺の話がまだだ」
「知っている。今、言っただろう」
 婚約おめでとう、と。
 グイと腕を引っ張られて、身体がよろけた。
「な、何」
 そのまま無理やりに、スカイラインの助手席に押し込められた。
「何するんだっ」
 マサキは何も応えず、素早く運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
 轟音と共に滑り出す。加速のすごさに僕はシートに押し付けられた。
「マサキ」
 マサキは恐ろしい顔をして、前を睨んでいる。甲州街道では無理やり前の車を追い越して、いくつもの派手なクラクションを受けた。
「あ、あぶない……」
 このまま、どこかにぶつかって二人とも死んでしまうのではないかと言う運転だった。
 シートベルトをするべきだったけれど、マサキを見るとどうでもよく思えた。

 このまま事故って二人で死ねるなら、それもいい。




 どこに向かっているのかわからなかったけれど、まもなくスカイラインは急ブレーキをかけた。
「うわっ」
 身体が大きく運転席のマサキのほうに傾いだ。
 マサキは一言も口を開かないまま、車をどこかのマンションの地下駐車場に入れた。
「ここは?」 
 外からはチラとしか見えなかったが、とても大きなマンションだ。マサキは僕を車から降ろすと、手首をつかんでエレベーターに向かった。
「いたっ」
 つかまれた手の痛さに思わず声を出すと、初めてマサキは口を開いた。
「悪い」
 けれども、手首をつかむ力が緩むことはなかった。逃げられないように捕まえているのか。逃げるわけなどない。ここまで来て。
「マサキ、僕はここがどこかわからない。だから、手を離しても逃げられないし、逃げたりしない」
 エレベーターの中で言うと、マサキは憮然とした顔のままで、ようやく手を離した。
 指先に血が戻る感覚。ジンと痺れた。マサキにつかまれたそこはうっすらと赤くなっていて、僕は、それをそっと撫ぜた。
 
 マサキは、これから何をしようというのだろう。



 エレベーターにはボタンがなかった。ボタンの代わりに鍵穴があって、マサキはそこにキーを差し込んだ。専用エレベーターらしい。ウィンと言う音と共にエレベーターは上昇し、おそらく一番上の階で止まった。
 エレベーターを降りると通路の両端にポーチとドアがあった。
 その片方のドアに向かってマサキは大またに近づくとチャイムを鳴らした。反応がないと知ると激しくドアを叩いた。
「いるんだろう、おい」
 しばらく叩いていると、カチャリとドアが開いた。
「いるよ。ちょっとクソしてただけじゃないか。おかげで引っ込んじまった」
 汚い言葉と共に現れたのは、ファスナーの完全に上がっていないジーンズだけを身につけた、上半身裸の若い男。その外見に僕は、こんなときにもかかわらず、目を丸くした。
 背が高い。鍛えられた厚い胸板も長い足も、隣に立つマサキとよく似た体型だ。明るい色の髪はマサキよりも短く、ツンツンに立ち上がっている。耳には赤いピアス。やはりマサキにどことなく似たハンサムで、驚いたことに目の色が――右と左で違っていた。
 ぼうっと見ていると、その男が僕に気がついた。
 マサキが僕を振り返って言った。
「順一、コイツが藤嶋正輝、アンタが拾った携帯の本当の持ち主だ」
「え……」
 突然言われた言葉の意味が理解できなくて、頭の中で繰り返した。
『コイツが藤嶋正輝、拾った携帯の本当の―――』
「ああ、アンタが順一さんね」
 その男は、僕を見てニヤと笑った。
「声がいいんだって? 今度、俺にも聞かせてよ…イテッ」
 最後の一言は、マサキがその男を蹴ったからだ。
 えっ、待ってくれ、マサキっていうのは――
『コイツが藤嶋正輝』
 僕は、何が何だかわからず、マサキ(?)を見上げた。
「俺は、藤嶋仁志、コイツのいとこ。同じ年で同じ大学」

 混乱した。何を言っているんだ。
 マサキが藤嶋仁志??

 
「まあ、立ち話もなんだから、どうぞ」
 藤嶋正輝が、僕たちを部屋に促した。
 マンションの中は驚くほど広く豪華だったけれど、それに感嘆するような余裕はなかった。僕たちは広いリビングのソファに向き合って座り、マサキは気まずそうな顔で口を開いた。
「騙していて悪かった。言おうと思ってた。でも、きっかけがなかったから……あのドライブを計画して、旅行先で謝るつもりだった」
「ま、待ってくれ、えっと」
 いきなり謝られて、僕はもう一度頭の中を整理した。
「マサキは『藤嶋正輝』じゃなくて、本当は『藤嶋仁志』だったってことか?」
 藤嶋仁志。拾った携帯に残っていた着信履歴の名前を、すぐに思い浮かべることが出来た。
「ああ、あの朝、順一から正輝の携帯を拾ったって電話をもらって、そのときの声に惹かれて会ってみたくなったんだ」

『新宿の、どこ』 
『待て』
『取りに行く。いや、行かせる』
『そのまま持っててくれよ、電話するから』

 ぶっきらぼうな声だった。――その後会ったマサキが敬語なんか使って愛想もよかったから、同じ相手だなんて思いもしなかった。けれど、今知るマサキなら――。

「物好きな野郎だと思ったけど、まあコイツは昔から女より男のほうが好きだっていう変態だからさ」
 本物の藤嶋正輝が、缶ビールを二つ持ってきて、僕たちの前に置いた。
「お前は黙ってろよ」
「何じゃそら。お前が来たんだろ、ここに」
「俺は藤嶋正輝じゃなくて藤嶋仁志だって、それを証明してくれればいい」
「証明、ねえ」
 ニヤニヤと僕たちの顔を見て笑う。
「あの、それじゃ、婚約したっていうのは」
「コイツだよ、相手は俺の姉だ」
「そうそう、だから、俺は再来年には、この仁志のお兄様なの」
「姉、って……」
 それじゃあ、あの和服美人は――?
「うちは両親死んじまっていないから、小さい時は親代わりでさ。だから、アンタのことも紹介しようと思って、実は土曜日あそこに連れてきてた」
「なのに来ないから赤っ恥かいたんだよね。文絵が心配してたぜ、大丈夫なのかしらって」
「ウルセーんだよ、いちいち」
「あ……」
 僕は、勝手に思い違いして、そして――約束をすっぽかして、逃げ出した。
(恥ずかしい)
 僕は、顔を伏せた。
 それをどう思ったのか、マサキ、いや仁志は、懸命に言い募った。
「初めて会ったときは、正直言うと、その場限りのつもりだった。顔見て、好みじゃなかったらすぐ帰ろうと思ってた。でも、タイプだったから」
 タイプ?
 伏せた顔にカアッと血が上る。
「寝ても後腐れ無いように、マサキとして誘った。面倒は嫌だったんだ。でも……寝たら……」
 仁志は口許に手を当てて、言いよどんだ。
「はまったんだよなぁ」
 藤嶋正輝が、口を挟む。
「正輝」
「いいじゃん。そういう話を俺に証明して欲しいんだろ。ねえ、順一さん、コイツ、アンタにメロメロよ」
 床に座ってタバコを吸いながら、僕の顔を下から見上げるように覗き込む。ああ、本当に従兄弟同士なんだ。まとった雰囲気もよく似ている。
「昔から男好きで結構遊んでるけどね、アンタと会ってからは一途なもんよ。わざわざカミングアウトするのに、旅行計画して車まで買っちゃうし。まあ、すっぽかされた夜の荒れようは見てられなかったね」
「正輝ぃっ」
「ご、ごめん……僕は……」
 両手を握り締めて、頭を下げた。
「謝ることないでしょ。だってもともと嘘ついて騙してたのは仁志だし」
 クックックッと正輝は笑って、マサキ――仁志に向かって言った。
「いいね、彼。普通ならここ激怒するところよ。一ヶ月も騙されてたのとデート一回すっぽかしだったら、一ヶ月の方が重罪だからねえ」
「わかってる。だから、謝る」
 仁志は、真面目な顔をして、膝に手をつくと深々と頭を下げた。
「わるかった。許してくれ」

 僕は、混乱からようやく立ち直りつつあった。
 僕の好きになったマサキは、藤嶋仁志だった。婚約したのも、たくさんの女の子と遊んでいるのも、マサキじゃない、別人。
 騙されていたことを怒るより、喜んでいる自分がいる。

「藤嶋、仁志……」
 小声で呼ぶと、仁志が顔を上げた。困ったような顔で僕を見る。
「失敗したと思った。最初からちゃんと言えばよかったって。あの朝、アンタの寝顔見ながら後悔した」
(あの朝……)
 じっと見詰め合っていると、
「あのさ、もういいんじゃねえの」
 藤嶋正輝が言った。いきなり指を自分の目に入れるから何ごとかと思ったらコンタクトレンズだった。カラーコンタクトだったのか。
「仁志、自分の部屋帰れよ。思ったほど修羅場にならなかったから、つまんねえって」
「ああ、帰るよ。邪魔したな」
「ホントだよ。俺が糞詰まりになったらお前のせいだ」
 コンタクトをはずして、少し日本人らしくなった顔で正輝は笑った。
「コーラック買ってやるよ」
 仁志――この呼び名はまだ慣れないが――に肩を抱かれて、僕は正輝の部屋を出た。驚いたことに、仁志の部屋というのは、正輝の部屋の隣、通路の反対側のもう一つの部屋だった。
「二世帯で住むことを考えて作ったらしい。リビングの壁をはずしたら隣とつながるんだ」
「へえ」
 そしてこのマンション全部が仁志のものだと聞いて、もっと驚いた。
「両親が死んだって言っただろ、それなりに財産あったのをハタチになって相続したんだ」
「それで、あんなにお金……」
「言っとくけど、親の遺産食いつぶして遊んでるわけじゃない。ちゃんと運用して、自分の使う分くらい稼いでる」
「株?」
 リビングのソファテーブルに置かれたノート型パソコンと四季報が目に入った。
「そう、デイトレとかね。結構上手いもんよ」
 デイトレーディング。株の短期売買で儲けているのか。僕は、クスクスと笑い出した。
「順一?」
「ゴメン、なんか、僕は勝手に色々考えて、悩んで……バカみたいだ」
 額を押さえて、ため息をつくと、
「バカは俺だ」
 きつく抱きしめられた。
「さっき、アンタから別れるって言われた時、心臓止まるかと思った。嘘ついていた罰だと思った。軽々しく近づいた罰だと思った」
「仁、志……」
「確かに俺は、遊んでたし、適当な奴だったけど、信じて欲しい」
 僕を抱きしめていた両手が、頬を包む。
 覆い被さるように僕の顔を覗き込んで、仁志はゆっくりと言った。
「アンタが好きだ。愛している」
「…………」
 息が止まる。
『愛している』―――生まれて初めて言われた言葉だった。
 いい年して、二十五にもなる男のクセして、十代の女の子のように震えて瞳を潤ませる僕は、どんなにみっともないことだろう。
「あ……」
 応えたいのに上手く声が出ない。そんな僕に、仁志は口づけを落として囁いた。
「無理するな。続きはベッドで聞かせてくれよ」


 アンタの声はベッドで聞くのがサイコーなんだ――仁志の囁きに、僕は覚悟を決めた。
 今夜は、何度でも言ってやろう。狼に貪り食われながら、愛していると、何度でも。






End





60万ヒット記念突発連載『狼』でした。
私には珍しいリーマンものでしたが、お楽しみいただけたなら幸いです。

ポルノグラフィティの『狼』を聞いて閃いた話ですが、実は携帯電話を拾ったというのは私の実話です(笑)
私の場合、ごくごく普通に四ッ谷駅の駅員に預けました。無事に持ち主の手に渡ったのでしょうか。はて。

この連載中掲示板にいらしていただいたちゃーさんにおねだりしてマサキ(仁志)のイラストを頂きました。
もう本当にカッコよくて、おかげで毎日更新というかつての日刊BBS小説並みのスピード更新ができました。
ちゃーさん、どうもありがとう。そして一週間日参していただいた皆様も、ありがとうございます。
この二人は、次回70万ヒットでまた書かせていただきます。
カラコンのオッドアイ正輝も書きたいし、安田もあなどれません(笑)
これからも、どうぞよろしくお願いします。

お礼SSは70万ヒット企画とのつながりで、アップすることにしました。
直近でご感想いただいた皆様、申し訳ありません。




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