電車のドアに背中をあずけると、急に心臓がドキドキと鳴り出した。 約束をすっぽかしてしまった。 時計を見ると三時十分前だった。これからマサキは、あそこで僕が来るのを待つのだ。「行けなくなった」と一言連絡を入れるべきだろうか。でも、理由を聞かれたらどうする。それより、今の状態でマサキと話が出来るのか。和服美人の顔が浮かぶ。そしてマサキのどこか照れたような笑い顔。 (嫌だ) 取り出した携帯の電源を切る。 これで、マサキからの電話も通じない。 (もう……終わりだ) その夜も日曜も、僕はずっと家の中にいた。もっと正確に言えば、横になったベッドの上からほとんど動けなかった。空腹を感じることもなく、何をする気も起きなかった。洗濯だけはしないといけないと頭のすみをよぎったけれど、それもどうでもよくなった。 目を閉じると、マサキのことばかりが浮かんだ。 目も鼻も口も、髪も指も声も、腕も胸も、傲慢な性格すら、何もかも―――全部が理想の男だった。 ただ一つのことを除いて。 (耐えられない……) 自分以外の相手がいること。 頭ではわかっていたつもりだった。あれだけの男を自分なんかが独り占めできるわけがないと。けれども、目の当たりにすると耐えられない。自分がこんなに嫉妬深い人間だとは思わなかった。 これから先も、マサキとつき合う限りそういう思いをするのだろう。そしてマサキが自分以外の誰かに、自分には見せたことのない笑顔を向ける度、あの瞬間のように、心臓が止まりそうになるのだろう。 (耐えられない……) 恋愛には、慣れていないのだ。そんな辛い思いまで含めて「愛」だと思えるには、いい年をして自分は未熟なのだ。自分では――― 「マサキの恋人はつとまらない」 気が付けば涙がシーツを濡らしていた。いくら恋愛経験が少ないからといって、なにも十代の女の子じゃないのだから、こんなことで泣くなんて。ばかげているし、みっともない。そう思っても、涙は次々に溢れ出た。 マサキに、なんと言おう。 もうつき合えない。 自信がない。 ああ、その前に、旅行をすっぽかしたことを謝らないと。 けれども、何故だかもう二度と、マサキには会えない気がした。 月曜日の朝、鏡に映る自分を見て心底ウンザリした。目が赤いのはしかたないにしても、髪の毛はボサボサ、二日間剃らなかった髭はまだらに顔を汚していて、くたびれたサラリーマンそのものだった。 今さらながら、あのマサキが、こんなみっともない男を相手にしてくれていたのが奇跡のように思える。僕は、先に冷たい水で顔を叩くように洗って、それからバスルームで勢いよくシャワーの栓をひねった。 元気よく出社するつもりだったけれど、やはり気持ちは沈んだままで、いつものバスの時刻に間に合わず、バス停から駅までの道のりもいつもよりずっと長く感じられて、気が付けば遅刻はしないまでもずい分と遅い時間になっていた。普段が早すぎるのだからたまにはいいかと、新宿駅に着いてからも特に急ぐこともなくノロノロと歩いた。そうしてみると、いかに朝の通勤時、ひとが早足になっているかに気がつく。新宿駅から西口の高層ビル群に向かって、何かに追い立てられてでもいるように急ぎ足で歩いている。僕の両脇を過ぎていく人の波を眺めながら、この人たちにも一人一人それぞれに悩みがあるのだろうとぼんやり考えた。 そして、あのマサキにも悩みとかあるのだろうかと考えた。恵まれたルックス、十分なお金、たくさんの恋人たち――何もかもを手にしている傲慢で精悍な狼。 その時、うちの会社の入っているビルの脇道に立つ長身に気がついて、僕は足を止めた。 (マサキ……?) マサキは僕に気がつくと、吸っていたタバコを投げ捨てて、獣の目で僕の心臓を射抜いた。そして、動けない僕に向かって、ゆっくりと近づいて来る。 信じられない。 「何故……」 何故、ここにいるんだ。 何故、ここを知っている。 二つ目の疑問は、初めて会った日に名刺を渡していたことを思い出して、すぐに答えが出たけれど、一つ目の疑問の答えは―――。 「何故? そりゃこっちの台詞だよ」 獣のようにマサキは唸った。 怒っているのだろう。旅行を、待ち合わせを、すっぽかしたこと。 謝らないといけない。そして言わないといけない。昨日あれだけ考えたのだ。 「一体、何で来なかった。土日、携帯もつながらなかった。どういう真似だ」 マサキの腕が、僕の胸倉をつかむ。 言わないといけない。 もうつき合えない。 自信がない。 「黙ってんじゃねえよ。…っ」 ふいにマサキの腕の力が緩んだ。 僕の顔を凝視するマサキの顔が、かすんで見える。 目から頬に熱いものが伝う。僕は、みっともなくも、泣いてしまっていた。 「な…」 「何してる」 背中からよく知る声がした。安田だ。 「芦田?」 振り返った僕を見て、安田はギョッとした。僕が泣いているから驚いたのだろう。 「テメエ、芦田に何してんだよ」 安田がマサキにつかみかかる。体育会系柔道部OBの安田は、自分より体格的にはるかに優るマサキにも全く怯んだりしなかった。マサキもそれに応えるように、腕を振り上げた。 「やめてくれ」 僕は、安田を止めた。 「違うんだ、安田」 慌てて涙を拭いながら、マサキから引き離す。 「なんでもない。なんでもないから」 安田は、マサキをひと睨みして 「なんでもないってツラかよ」 不服そうに唇を尖らせて、濡れた僕の頬を手のひらでグシャグシャとこすった。マサキは恐ろしい顔をして僕たちを睨んだ。 僕はその場に居たたまれなくなって、ビルの中に逃げ込んだ。 「話がある」 マサキの声が聞こえたけれど、振り返ることはできなかった。 「トイレ行ってこいよ」 「うん」 さすがに涙でグチャグチャになった顔でオフィスに入るのは、はばかられた。 「部長には、出社してるけど下痢でトイレに駆け込んでるって言っておくから」 「……ありがとう」 安田は、何も聞かなかった。今のは誰だとも、何をもめていたのだとも。たぶん何かは感じているのだろうけれど、何も聞かなかった。 その日は二つアポがあり、午後からは例の水野さんとの契約アポが入っていた。リボ払いの申込書を準備して、ガチャガチャと呼ばれているカード印刷用の小さな機械を鞄に入れた。出かける前に、僕はもう一度鏡を見に行った。幸い、目の腫れは治まっていた。 この間と同じ喫茶店で、授業の終わる水野さんを待つ。約束の時間ピッタリに現れた彼女は、気のせいか先日ほどは元気がないように見えた。 「じゃあ、これで全部ですね」 「どうもありがとうございました。これからもよろしくお願いします。もし受講中に何かありましたら、お気軽にご連絡ください」 「はい。芦田さんには、色々相談にのってもらってよかったです。できればまたお会いしたいなぁ、なんてね」 「はは……何かありましたら」 契約は完了したが、目の前にはコーヒーが残っている。水野さんは、ぬるくなったそれをゆっくりと口に含んだ。 「ねえ、芦田さん」 「はい」 「この間、サークルのダンパの話したじゃないですか」 「え、ええ」 心臓が跳ねる。またマサキの話だろうか。 「あの時、モテ系タラシの話したでしょう」 予想は当たった。 「ホラ、あの、女の子片っ端からコマしちゃう、とんでもない男。女の敵って」 僕が黙っているのを忘れているからだと思ったのか、水野さんは重ねて言った。 「……ええ……かっこいい人だとか」 のどに言葉が絡むのを、コーヒーを飲んでごまかす。 「そう、その。名前、正輝って言うんですけど、その日、いきなり婚約者だとかいうの連れて来たんですよ。信じられない」 目の前が真っ白になった。今何と言った。 (婚約者?) 「大学卒業したらすぐに結婚するんだって、その婚約者って言うのが年上で、急いでるみたいなんですよねっ、大学サークルのパーティーなのに高そうな着物とか着てきちゃって、どう思います?」 着物――すぐに、あの和服の女性が浮かんだ。 「それが、またオバンのクセして結構な美人なんですよ。正輝もその人の前じゃ普段と違ってて」 水野さんは思い出しながらだんだん興奮してきたようだったが、僕はいつものように話をあわせることが、うまく出来なかった。 「悔しかったから、正輝と寝たことある子たちでそろって嫌味言いに行ったんです。その婚約者にも正輝がどれだけ遊んでるか言ってやったら、その女、何て言ったと思います?」 水野さんは、口許に手をもっていき、 「結婚したら浮気は絶対許さないから、独身のうちに思いっきリ遊ぶように言っているんです。ほほほ……だぁって」 その婚約者の口調を真似てから、忌々しそうに眉間にしわを寄せた。 「正輝は、卒業するまでは独身だから今まで通り遊ぶ、とか言ってますけど、そんな首にひも付いてるみたいな男……やだな、私は」 コーヒーをグビッと飲んで、僕の顔を見た。 「あ、ごめんなさい。芦田さんに言ってもしかたないですよね。何だか、誰かに愚痴りたくて」 「いえ……かまいませんよ」 僕ではない誰かが、微笑んで、口を開いている。 「でも、大学卒業してすぐ結婚なんて……早いですね」 「だから、その相手が年上なんですよ。正輝が卒業する年に二十八って言ったかな。親戚らしくて。正輝のうちって言うのが、すごいお金持ちなんですよ。知ってますか、藤嶋コンツェルンって。都内にもフジビルって言うのたくさんあるじゃないですか、あれ持ってるのそう。他にも色々やってて、で、婚約者って言うのも正輝が十歳の時から決まってたらしいんですよ。いまだにお金持ちの世界ってそうなんですねえ」 水野さんは、両手でコーヒーカップを持ち、溜め息をついた。 僕は、カップに指を伸ばしたが、震えて上手くつかめなかった。 (婚約者だったのか……) 『話がある』 マサキの言ったのは、そのことか。 ひょっとして、ドライブに誘ったのもそのためだろうか。大学でのお披露目を済ましたから、僕にも教えておこうとしたのか。伊豆の旅行は、最後に思い出を作ってくれようとしたのか。 ふいに、可笑しくなった。 そんなことなら、旅行に行けばよかった。行って、マサキからちゃんと引導を渡してもらえばよかった。 最初からマサキにとっては遊びだったのだ。 何が、自信がないだ。耐えられないだ。 最初から、そんな相手じゃなかったのだ。 「最初から…っ…」 カタンと倒れたのは、水の入ったグラス。 「芦田さんっ?」 僕は、机に突っ伏して笑っていた。 「ちょ……ど、どうしたんですか、芦田さんっ」 水野さんが慌てて立ち上がった。ウェイトレスがとんできて、僕の濡らしたテーブルを拭く。僕は、顔をあげられず、ただ肩を震わせていた。 「あ、芦田さん?」 水野さんの困ったような声に、僕はうつむいたまま返事した。 「すみません。会計してから出ますから……先に出てください」 「あ、それじゃ」 人目も気になるのだろう、水野さんはパタパタと走って出て行った。 「お客様、あの、スーツが汚れますよ」 ウェイトレスの言葉も無視して、僕は突っ伏したまま笑った。笑いすぎて涙が出た。本当に、このところ僕の涙腺は緩すぎる。 オフィスに戻ると、電話のメモがたまっていた。そのうちの二つがマサキからだった。名刺を見てかけてきたのか。携帯は今日も電源を切っていた。 「芦田さん」事務の女の子が甲高い声で僕を呼んだ。 「お電話です。田中さんという方から」 「田中?」 首をひねりながら、 「お待たせいたしました、芦田です」 顧客ファイルを小脇に電話に出ると、 「順一……」 マサキの声がした。 「俺の名前じゃ出てくれないかと思ったから」 「昼間は、本当に、ずっと外に出ていたんだ」 「そうか……」 マサキは何か考えるように少し黙って、 「朝も言ったけど、話があるんだ。今日の夜、会いたい。終わる時間、何時になってもいい。待っている」 有無を言わせない口調で言った。 「……わかった」 僕の返事に、マサキが、ホッとしたような溜め息をついたのが電話でもわかった。 「じゃあ、そこのビルから駅に行く途中の、デニーズの脇の駐車場にいる」 「駐車場? 車で?」 「ああ」 「わかった。たぶん七時は過ぎるけれど」 「待ってる」 受話器を置くと、安田が心配そうに僕を見ていた。僕は、首を振って笑って見せた。 大丈夫。 もう終わりにしよう。 |
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