その日の営業相手は女子大生だった。来年の春から休学してロンドンに留学するので、その前に基本的な英会話を身につけておきたいと言っていた。僕はカタログの詰まった棚から、いくつかお勧めのコースをピックアップしていた。そのとき、 「うわっ」 いきなり誰かが僕の尻をつかんだので、素っ頓狂な声を上げてしまった。振り返ると、安田だった。 「何するんだ」 「尻をさわった」 つかんだ右手を自分の胸の前でニギニギと握る。 「何で」 「そこに尻があったから」 どこかの登山家の台詞をもじってふざけている安田に、大きくため息をついて見せると、 「それより、芦田、例の携帯電話の彼女とはうまくいってるのか」 安田はニヤニヤと肩を近づけてきた。携帯電話と聞いてドキリとしたが、 「しょっちゅう掛かってきてるじゃないか、この俺が気づいてないと思ってんのかよ、ああっ?」 マサキからの電話を、彼女からだと勘違いしているらしかった。 「それでだか何でだか知らないが、お前、最近、やたら色っぽくなったな」 「は?」 安田の言葉に目をむいた。 「男ができて色気づく女は知ってるが、女ができて色気づく男ってのは珍しいな」 「何言ってんだよ」 笑って見せたが、じわりと冷や汗が出た。 (女……) 確かに僕は、女だった。 自分のことを女っぽいなどと思ったことは今まで無かったが、マサキの前では完全に女だった。いや、女ですらない、ただの雌だ。獰猛な雄に貪り食われる雌。そしてどうしようもないことに、その立場を喜んで受け入れてしまっている。 そのことを知ったら、安田はどう思うだろう。 (軽蔑するだろうか……) そんな胸の思いを、僕は顔に表してしまったらしい。 「どうしたんだよ」 安田は、怪訝な顔をした。 「何かあったのか?」 「いや」 僕は慌てて首を振った。 「恋の悩みなら、俺に相談しろ? これでもケーケンホーフだからな」 立教大学体育会系柔道部の安田は、周りに野郎たちしかいない環境で大学四年間彼女が途切れなかったことが自慢だと言ったことがある。しかも毎年違う相手だったらしい。ちなみに今の彼女とも別。 「ありがとう。そういうことがあればお願いするよ」 軽くかわして、カタログの棚に向き直る。安田も、元々はそれが目的だったのだろう、僕の隣でイタリア語の教材のパンフレットを物色し始めた。 僕の悩みは相談できるものではなかったが、安田の心遣いは嬉しかった。 「それじゃあ、この三ヶ月集中コースにします。中級クラスで」 「ありがとうございます」 護国寺の小洒落た喫茶店で、女子大生の水野さんが選んだのは、僕があらかじめ予想していたものだった。金額と期間からいって妥当だろう。 「それでは、こちらの申込用紙にご記入をお願いします。クレジットはお使いになりますか」 「リボ払いも選べるんですよね?」 と、彼女が言ったとき、派手な着信音が響いた。 「あ、ごめんなさい」 トートバックのポケットから、小さな携帯を取り出した。 「何? 今、人と会ってるんだけど」 身体は横に向けたけれど、切らずにそのまま会話を続けている。僕の顔が見えなくなったからといって話が聞こえないわけじゃないのに。僕はさりげなく身体を退いて、これも『聞いていませんよ』のポーズをとった。 「ホント? 今日? マサキも来るの?」 マサキという言葉に、身体が敏感に反応した。 「うっそ、じゃあ行くわよ。行く行く。取っといてね。うん。……うん、そう。冗談でしょう、負けないわよ」 キャハハ、と明るい声で笑って 「まったく、どうしようもないね、あのヤリチン」 言ってしまって「あっ」と僕の方を振り返った。肩をすくめて、 「あっ、じゃあさ、終わったら電話するから。え? じゃあ、メール入れる。うん。じゃあねっ」 僕に向き直ると、小さく舌を出した。 「下品なこと言って、すみません」 あまりすみませんとは思っていないような、あっけらかんとした口調だった。 「いえ」 作った笑顔を向けながら、僕は今の「マサキ」が、彼なのかどうか気になってしかたなかった。水野さんは日本女子大学の学生だけれど、早稲田とならつながりがあってもおかしくない。 「この後……何か、あるんですか?」 雑談を装って尋ねると、 「ええ、ちょっと、サークルのパーティー」 「サークル?」 そういえば、マサキから、大学で何のサークルに入っているとか聞いたことは無かった。 「まあ、ほとんど自分たちが遊んでばっかりのイベント企画サークルなんですけど」 「そうですか。どこの大学の?」 「あ、早稲田です」 (やっぱり……) マサキのことを聞きたい。けれど、名前を出して聞くのは不自然だとためらっていると、 「そこに、すっごいモテ系の男がいるんですよ」 水野さんのほうから話を振ってきた。自分の失言の言い訳をしたいらしい。 「もう、自分がいい男だってわかってるもんだから、片っ端から女の子食っちゃって、女の敵」 そういいながら、水野さんの瞳はウットリしているようにも見えた。 「そんなにかっこいいんですか? ……背とか、高い?」 僕の声は、強張っていないだろうか。 「高いんです。百八十以上あってモデルみたい。顔もそのへんの芸能人よりゼンゼンかっこいいんですよ。スカウトとかもされてるみたい」 「そう」 そんな『マサキ』が、同じ大学に二人もいるわけ無い。 「女の敵、なんですか?」 「そう。だから、今夜はみんなで敵討ちしちゃおうかな〜って」 僕の内心の動揺にもちろん気がつくはずはなく、水野さんは頬を赤くしてケラケラと笑った。 「あ、それで、申し込みですよね」 僕が黙ってしまったのを契約の話が中断しているからだと思ったらしく、水野さんは書類を手に取った。自分も急いでいる様子がよくわかった。 「ここにサインすればいいんですか」 「あ、はい」 「印鑑もですよね」 「はい」 「すみません。クレジットカード、親に取り上げられていて、そっちは今度でもいいですか。取り戻しておくので」 「え? あっ、はい」 その後、契約に関して必要なことをちゃんと説明できたのかわからない。 『片っ端から女の子食っちゃって』 女の子、だけじゃないんだろう。 (何を今さら……) 初めからわかっていたじゃないか。 書類をそろえてカバンにしまい、 「じゃあ、またご連絡します」 「はい、よろしくお願いします」 いそいそとパーティーに出かける彼女の姿を見送った。 今日は、マサキからの電話は無いな。 時計を見て、微妙な時間に悩んだけれど、直帰することにした。書類を持ったまま家に帰るのは嫌だが、会社に戻る気にもなれなかった。会社に電話してその旨伝えると、どっと疲れが出た。特に今日の仕事がハードだったというわけじゃない。すべては、さっきの会話だ。 『すっごいモテ系の男がいるんですよ』 『自分がいい男だってわかってるもんだから』 女子大が近いからだろう『いかにも』といった明るく華やかな女の子たちが笑いながら通り過ぎる。 (ああいう子たちと比べられているんだろうか……) やくたいもない考えが、ぐるぐると頭の中を廻る。 女の子を抱けるのなら、どうして僕なんかに手を出したのだろう。 そもそも僕なんかの、どこがいいんだろう。 わかっていたことなのに、マサキが自分以外にも大勢の相手と寝ているということを考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。 その二日後、マサキから電話があった。 「週末、どっかいかないか」 「どっかって?」 「海でも山でも」 「え」 意外な答えに、思わず聞き返した。 「海? 山?」 もう十一月だというのに、アウトドアでもないだろう。 「どうして、いきなり」 「車を買った」 「はっ?」 「今までも乗ってるけどね。自分の車を買ったから、アンタとどっかドライブでも行こうかと思って」 「…………」 僕が黙っているので、 「何? 嫌?」 マサキは不機嫌そうな声を出した。 「いや、そんな…ことない」 嬉しかった。 車を買ったばかりのマサキが、ドライブの相手に自分を選んでくれたことが。助手席に、僕を乗せたいと思ってくれたことが。 「じゃあ、土曜、家まで迎えに行ってやるよ」 「僕の家、知らないだろう」 「住所言えよ、カーナビあるんだから」 どことなく嬉しそうな口調は子供がおもちゃを自慢するときのようで、僕の頬も緩んだ。初めてマサキを年下だと感じた。 住所を言いかけて、 「あっ」 思わず口を覆った。 「何だ」 「ゴメン、土曜日、昼間仕事が入っていた」 土曜出社の日ではなかったが、平日は忙しくて時間が取れないという会社員と彼の自宅近くでのアポイントが入っていた。 「一時に代々木上原なんだけど」 「小田急線か。そこまで行ってもいいけど電車のほうが速いな。そしたら、新宿まで出て来いよ。そのアポが終わってすぐ電話くれれば、それから出ても三十分もあれば西口のロータリーで拾える」 「いいの?」 「何が」 「終わってからだったら、下手すると三時近くになるかも知れない」 それからドライブなんて、どこに行けるというんだろう。 「別にいいだろ、ああ、もちろん泊まりだから」 「泊まり?」 「そう、だから遅くったっていいんだよ」 「どこに泊まるんだ」 「それをこれから決めるんだろう」 回転の鈍い僕を責めるような口調で、マサキは言った。 「海? 山? どっちがいい。海なら伊豆か房総、山なら箱根か山梨のどっかそのへんだな」 「じゃあ、海、伊豆」 どっかそのへん、というのがよくわからないので、耳慣れた伊豆にしてみた。 「オッケー、宿とっておく」 「あ、あの」 「何」 「ちゃんと払うから」 「何を」 「その、宿代とか、ガソリン代とか」 自分が社会人だということ。おそらくおごられるばかりであろうあの女の子たちと違って、マサキの負担にはならないのだということを主張したかった。けれど、 「何言ってんだ。シラけること言うなよ」 マサキは、受話器の向こうで呆れた声を出した。 「かわいく、ありがとう〜嬉しい〜とか言ってみろよ」 冗談なんだろう。声色を使ったマサキは、笑っていた。 けれども、僕にはズキンと来た。 「僕は、男なんだから。年上なんだし、そんなまねできないよ」 つい本気で言い返した。 「…………」 マサキは毒気を抜かれたように黙ったが、 「まあいい。じゃ、土曜、電話くれよな」 言うだけいって、携帯を切ってしまった。 失敗した。 いくら女の子たちのことが気になっていたからといって、せっかくドライブに誘ってくれたというのに、何であんな言い方をしてしまったんだ。 後悔しても後の祭り。せめて当日は、バカなことを言わないように気をつけよう。 そして、土曜日。忙しいビジネスマンは決断も早いらしく、思いのほか商談はとんとん進んで、四十分ほどで終わった。これなら二時すぎには新宿に着ける。携帯に電話したけれど、マサキは出なかった。 (おかしいな) 留守番電話に吹き込んで、とりあえず新宿に向かうことを告げた。新宿についてもう一度携帯に電話したけれど、やはりつながらなかった。 僕が「三時近くになるかも」と言ったから、それくらいの時間を予定しているのか。 仕方なく喫茶店で時間をつぶすことにした。 コーヒーを飲みながら、ほんの少し不安になった。 (忘れているのかな) そんなはずはない。電話があったのは一昨日だ。 (まさか、怒ってるのか) 電話での会話を思い出して、不安が募る。 かわいいほかの誰かとドライブに行ってしまったのではないか。 もう一度掛けてみようと手にしたときに、携帯が鳴った。 「悪い、ちょっと出られなかった」 「ああ、いいよ。僕も早く終わってしまったから」 「これから家出るから、やっぱり三時だな」 「そうだね」 マサキから電話があったことに、心の底からホッとした。 「うん、じゃあ三時に西口のロータリーだね」 「スバルビルの前あたりな」 「わかった」 まだ時間には早かったが、コーヒーを飲みきってしまった僕は、さっさと会計を済ませて店を出た。マサキは車種を教えてくれなかった。どれがマサキの車だかわからない状況で、予想しながら待つのは楽しいだろう。 風を避けながらビルの壁に背中を預けて、一台一台近づいてくる車を見る。マサキのことだからカローラのたぐいじゃないだろう。まさかBMとか。色は何色だろう。黒とか似合いそうだけれど。それで窓にスモークとか貼っていたら似合いすぎて、かなり怖い。 ついでに、その助手席に座る自分も想像してみた。 自分の勝手な想像で楽しい気分になっていると、目の前を濃紺のスカイラインが通り過ぎた。 (あっ…) 直感でそれだと思った。案の定、運転席からマサキの長身が滑り出てきた。まだ僕には気がついていない。三時には早いから、来ていないと思っているんだろう。近寄ろうとしたら、マサキが助手席に回った。うやうやしくドアを開ける。 (えっ?) すらりとした和服の美人が降りてきた。マサキに何か話しかける。マサキは嬉しそうに笑った。僕が今まで見たこともない、無邪気に嬉しそうな笑顔だった。 僕は、動けなくなった。 見るからに高そうなブランドのジャケットを羽織った美丈夫と清楚な和服美人の組み合わせは、通りすがりの目を惹きつけていた。 服装は違っていても美男美女。ため息が出るほど、似合いの二人だ。 力が抜けた。 マサキは、彼女を助手席に乗せていた。 そう、誰も僕を一番に乗せるだなんて言ってない。 『悪い、ちょっと出られなかった』 さっきまで、彼女と一緒だったのだ。 前には踏み出せなかった足が、後ろには動いた。 ゆっくりと後ずさって、そして、踵を返した。 バカ。戻れ。 今ならまだ間に合う。このまま帰ったら、取り返しがつかない。 戻るんだ。知らないふりしてあの助手席に座るんだ。 もしくは笑って聞くんだ――さっきの美人、だれ? マサキは、ちゃんとごまかしてくれるはずだ。 さあ、だから戻れ。 戻らないと―――もう、おしまいだ。 もう一人の自分が必死にかき口説いたけれど、僕の足は立ち止まることなく、改札を通り、ホームに上がり、今まさにドアの閉じようとしている中央線の電車に飛び乗った。 |
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