土曜の早朝の電車は空いている。いつもは身体を滑り込ませるだけでも相当な力が必要となるのだけれど、今日は余裕を持って吊り革につかまることができた。二つ目の駅では私鉄に乗り換える人たちが降りていき、さらにガラガラになった。車内のスーツ人口は半分以下。週休二日制というのは世の中にしっかり定着しているらしい。僕も本来、土曜は休みだ。今日は月に一度の土曜出勤日。電車は空いているし、たまった書類も片付けられるし、希望すれば平日に振替休日をもらえるし――実際取れる人は少ないけれど――僕は、土曜出勤が嫌いじゃない。同期の安田は彼女と休みが合わなくなるといって嫌がっているけれど、あいにく僕にはそんな相手もいないし。まあ、土曜出勤で残念といえば、朝のテレビアニメ「ケロロ軍曹」が見られないくらいか。そう言えば先週のケロロはガンダムのパロが冴え渡っていたな、とかぼんやり考えていたら目の前の席が空いた。特に譲るべきお年寄りや身体の不自由そうな人もいないし、何しろ自分の周りに立っている人がほとんどいなかったので、そのまま座った。やっぱり、土曜は空いている。



 電車が吉祥寺に着いたとき、隣に座っていた学生風の男が立ち上がった。左の腰に何か当たったので見ると携帯電話だった。
「あっ」
 僕は、とっさにそれをつかんで
「忘れてますよ」
 声をかけた。
 男は怪訝そうに振り返り、僕の顔と差し出した携帯を見比べて、黙って首を振って降りていった。
「…………」
 違うってことか。
 それじゃあ、誰のだろう。気がつかなかったけれど、最初からここにあったのか。空いた隣にはセーラーカラーの女子高校生が座り、僕は携帯をどうしたものかと思い、そっと電車の窓の桟に置いた。
 このまま置いておけば、いつか誰かが気づいて届け出てくれるだろう。
「…………」
 いつか誰かが、って誰だろう。見つけたのは僕なんだから、僕が届け出ればいい。でも、別に、そんな義理は無いといえば無いし、出社前に時間を取られるのも面倒といえば面倒だ。
(…………)
 背中に置かれた携帯電話が気になるのは、実は僕も、つい最近携帯を変えたからだ。丸々三年使っていた携帯は機種も古く、何しろ通話音が聞き取りにくいと悪評で、仕方なく会社の近くのドコモショップで機種変更した。仕方なくというのは、僕自身は特に困っていなかったからだ。学生のときからほとんど携帯は使わなかった。人と会って話をするのは嫌いじゃないけれど、携帯で長電話をするタイプじゃない。仕事上の電話も、落ち着かないから携帯は使わない。だから三年も使いながらポイントが三千円分しかたまっていなくて、安田に驚かれた。
 僕の後ろにひっそりとある携帯は、ドコモショップで安田がすすめてくれた、結構な機能のついた最新型じゃないだろうか。もちろん僕はそんな立派なものにはしないで、できるだけ小さく軽いものということだけを条件に選んだけれど。
(どうしようかな)
 携帯電話ってのは、普段使わない僕でもアドレス帳代わりに重宝している。機種変更ならデータを引き継げるけれど、無くしてしまって新規になったらまたアドレスを集めるのに苦労するだろう。どこの誰だか知らない相手の、そんなことまで心配してやる必要は無いのだけれど。ふと、学生時代にサークルの幹事長がトイレに携帯を落としてデータをダメにして、大騒ぎしていたのを思い出した。

 電車が新宿に着いた。わらわらと人が降りていく。僕も降りないといけない。
 一瞬迷って、窓際に置いていた携帯をつかんだ。もし、心無い人がわざとどこかに捨てたりしたら、この携帯は持ち主の手に渡らない。アドレスも消えてしまう。忘れ物だと知っていて見知らぬ顔をした僕も、心無い人の一人になるだろう。
 なんだかんだと心の中で言い訳しながら、携帯電話を持って来てしまった。
 南口の改札を出て、さてどうしようかと考えた。拾得物として駅員に預けるのがいいんだろうけれど、ただ預けただけで大丈夫だろうか。よく定期券の拾得物が張り紙されているけれど、自分の使う駅じゃなかった場合、それを見ることは無いのじゃないかと思う。
(ちゃんと落とし主の元に返ればいいんだけど)
 たかが拾い物ひとつでここまで考えてしまうのは僕のくせだ。O型なのによくA型だといわれる。
 とりあえずユーザー画面を見た。電話番号が出てくる。でもこの携帯の番号だから、これに電話しても意味ない。当たり前。それじゃあ、と思いついて着信履歴を開いた。知り合いに連絡して、新宿駅に預けてあるということを知らせてもらおう。
 着信履歴を見て驚いた。片っ端から女性の名前だ。しかも、大勢。僕の携帯の着歴なんて、三、四人の決まった名前が交互に出てくるだけなのに。思わずスクロールして見てしまった。
(何人いるんだ……)
 少なくとも両手以上の女性名があった。この携帯電話の持ち主はモテモテだな。『死語』と、安田あたりに笑われそうなフレーズも浮かんだが、ふと、持ち主は女性かもしれないと思った。携帯の色や待ち受け画面のクールさ、シンプルなストラップから勝手に男だと思っていたけれど。
 女性に電話するのは気がひけた。二十五にもなって恥ずかしいけれど、僕は女性が苦手だった。たぶん家庭環境のせいだ。まあそれはどうでもいいけれど。僕は、着信履歴の中に男名をさがした。
 藤嶋仁志――これは男だろう。
 僕は、そのまま発信ボタンを押した。
 コールが五回も続くと、ちょっと不安になった。駅の時計を見上げたら八時五分。土曜の朝八時というのは、一般的に、電話をかけるには早すぎるのではないか。
 切ろうかと思ったときに、
「……はい」
 ひどく不機嫌そうな声がした。しまった。やっぱりまだ寝ていたんだ。それに、この人と携帯の持ち主との関係もわからない。気安く伝言を頼める相手なんだろうか。今更だけれど冷や汗が出た。それくらい相手の声は尖っていた。
「何だよ、お前、こんな時間に」
 少しホッとした。この携帯の持ち主とは、それなりに親しい間柄じゃないだろうか。
「あの、突然すみません。この携帯を拾ったものなんですが」
「…………」
 相手は黙っている。
「すみません、電車の、その中央線の座席で拾って。新宿駅に預けておきますから、この持ち主の人に伝えておいてくれますか」
 早口に言った。
「新宿の、どこ」
 聞き返されて、まるで悪いことでもしたみたいに焦った。
「駅です。駅の拾得物のコーナーに預けておきますから」
 そんなコーナーがあるのかと自分に突っ込みつつ、たぶんあるだろうあるはずだ、と自分を納得させ、
「だから、必要でしたら取りに行くように伝えてください。それじゃあ」
 早々に切ろうとした。
「待て」
 受話器の向こうから低い声を出されてビビッた。なんでだよ、良いことした筈なのに。
「あ、あの、いじってないし、メールとかも見てないですよ。あなたに電話したのは、着信履歴に名前が残っていて、その、男の人のほうがいいかと」
 焦って舌がもつれる。
「取りに行く。いや、行かせる」
「はい?」
「預けておくとなると色々面倒だろう。受け取るときにもなんやかんや書かないといけないかもしれないし」
 何を言い出すんだ。
「そのまま持っててくれよ、電話するから」
「えっ」
「じゃあ」
 唐突に切れた。
「嘘だろ……」
 

 まさかこんなことになるとは思わなかった。取りに来るって、いったいどこから来るんだよ。落とし主だって、駅に預けてもらっていたほうが気が楽だったに決まってる。かける相手を間違えたと僕はため息ついた。
 もう一度別の人に電話しようかとも思ったけれど、土曜の朝からこんなことで起こされる人のことを改めて考えると、できなかった。持っていてくれと言われたんだし。
(あ、そうだ、電話がかかってきたら、そのとき、駅に預けておくと言えばいいんだ)
 自分の思いつきに肩の荷を降ろして、僕はオフィスのある西新宿に向かった。

「よう、芦田、相変わらず早いな」
 安田がスタバのコーヒーを手にやって来た。
「報告書? そんなの真面目に書くこと無いぞ。テキトーテキトー」
 しゃべりながら大あくび。相変わらず朝は眠そうだ。
「安田、珍しく早いな」
「実は、昨日家帰ってないんだ」
「え?」
「大学ん時のヤツらと飲んで、終電逃して、荻窪パラダイス銭湯で一泊」
「ホント?」
「ああ、一緒に飲んでたのが教えてくれたんだけど、あそこいいぜ。寝れるし、サウナあるし、髭剃れて、ホテルより割安。今度遅くなったら試してみろよ」
「あはは、そうだね」
「さあて、じゃあ来週のカモを漁るとするか」
 安田は言葉が悪いが、実際営業となるとマメで、うちの部でも成績はダントツにいい。僕は、まあ、そこそこ。

 僕たちの仕事はうちの会社で作っている語学教材の営業だ。主に英会話だけれど、フランス語ドイツ語、イタリア語、色々取り揃えてある。 自分が営業向きの性格だとは思っていなかったけれど、大学生時代にアルバイトでやったら、意外に受けがよかったので、そのまま誘われて正社員になった。だから四年の時もろくな就職活動をしていないというのが、密かにコンプレックスだったりする。まあ、どうでもいい話。
 書類を片付けると、十時を回ったので、そろそろテルアポを始めることにした。土曜の昼前というのは電話がつながりやすい。マニュアルに沿っての営業をこなしていると、突然、上着のポケットがブルブル震えて、僕は慌てて件の携帯を取り出した。落とし主からの電話だと思ったのだけれど、
「あ、もしもし、マサキぃ? レイコ。この間はありがとぉ。ねえ、今、何してるぅ?」
 やたら語尾の伸びる舌たらずな女性の声。ええと、この声の主がレイコで、マサキというのは落とし主の名前か。
「すみません」
「……だれ?」
 甘えていた声が、突然険を帯びる。この豹変振りが怖い。
「あの」
「マサキじゃないの? 誰よ。今、彼、そばにいるの?」
「いません、僕は、えっと、預かっているだけで」
「はあ?」
「訳あって携帯預かっています。そのうち本人が取りに来る予定です」
 じゃ! と言って切ってしまった。また掛かってくるかとドキドキしたが、しばらく待っても携帯はおとなしいままだった。
(よかった)
 そして、土曜にもかかわらず十二時のチャイムが律儀に鳴ったとたん、預かり物が震えた。
「もしもし」
「どうも、今、大丈夫ですか?」
 受話器を通して、低音のハスキーな声がした。
「あ、はい」
「よかった。仕事中かもしれないって思って、昼休みを狙ってみたんですよ。当たりでした?」
「えっ、ああ、はい」
「土曜日なのに、お疲れ様です」
 声は渋いが、愛想はいい。これがモテモテ(死語)マサキか。
「それで、受け取りに行きたいんですけど、今日仕事終わるの何時ですか」
「今日は土曜なので、六時には」
「そうですか、じゃあ六時半に新宿駅でいかがですか。新宿なんですよね」
「えっ、ああ、あっ、でも別に……すぐ、午後でもお渡しできますよ。僕、営業なんで外に出られますから」
「へえ……でも、いいですよ、六時半で。仕事抜けて出てきてもらうの悪いし」
 そして、
「新宿は、どっち側ですか」
 いきなり訊ねられて、条件反射で応えた。
「西新宿です。でも、南口が近いです。甲州街道沿いで」
「ああ、じゃあ南口出てすぐのところにオーキッズって喫茶店ありますよね」
「え?」
 あったっけ。
「ケンタッキーの裏です。小さいけど、すぐわかりますよ」
「はあ」
「目印に、携帯、出して置いてくださいね」
「わかりました」
 って、なんで喫茶店で会うことになっているんだ。携帯を渡すだけだろう?
 しかし、結果から言うと、そうなってしまった。
 初対面の人と喫茶店で会うというのは、仕事上よくあるから抵抗は無いけれど――
(教材、持って行ってやろうかな)
 と、出来もしないことを考えて、僕はその思いつきに口許を緩めた。
「何笑っているんだ、芦田。あっ、なんだよ、その携帯」
 安田が気づいて覗き込んで来た。
「お前の買ったのじゃないな」
「うん。……ちょっとね」
 そして僕は、朝から携帯を拾った話をした。安田は珍しいことを聞くように眉をあげて聞いていたが、
「んじゃ、英会話セット持ってってやれよ。恩着せて、営業かけて来い」
 思ったとおりのことを言って笑わせてくれた。 

 そのあと午後いっぱいマサキの携帯は震えつづけた。最初のうちは予定変更でもあったかといちいち見ていたけれど、そのたび液晶に表示される女性名にウンザリして、最後のほうは放っておいた。一体どうすれば、これだけの女の子から呼び出しがかかるんだ。




 そして、仕事が終わって待ち合わせの店に行った。オーキッズは甲州街道沿いに小さな看板を出していて、言われたとおりすぐにわかった。 会社から近かったので、ゆっくり歩いたつもりでも、時計を見ると十五分も早かった。
(先に入って、コーヒーでも飲んでよう)
 店内はシックな雰囲気で、蘭の花をモチーフにした装飾も上品で感じがいい。今まで何度も通った道なのに、こんな店があるなんて気がつかなかった。すぐ近くの蕎麦屋には、しょっちゅう入っているのに。
 目印といわれたオレンジ色の携帯をテーブルに置いて、届いたばかりのコーヒーの香りを吸い込んでいたら、
「どうも」
 突然後ろから手が伸びてきて、携帯をつかんだ。
「わっ」
 驚いて顔を上げる。
「待たせました?」
 前に回った男のルックスに、ドキリとした。
 背が高い。肩幅広い。明るい色の髪は長くて、その広い肩まで届いている。けれども不潔でなく崩れた感じもしないのは、その端整な顔のせいだろう。芸能人でもめったに見ないハンサムだ。
(こ、これが……モテモテ……)
「マサキ…さん?」
 名前を呼ぶと、相手は目を見開いた。そんな表情もひどく様になっている。
「名前、言いましたっけ? 俺のほうは聞き忘れたと思ってたんだけど」
「あっ、ゴメ」ンじゃなくて「すみません、じつは一番初めにかかってきた電話に出てしまって」
 それで名前を聞いてしまったのだと言い訳すると、マサキは携帯を開いて着信履歴を見た。男らしいくっきりした眉が、不快気に寄る。
「あの、その一件目と二件目以外には出ていませんから」
 さぞかし留守番電話サービスも混みあっていることだろう。
「すみません。うるさかったでしょうね」
「いえ、午後からは鞄にしまっていましたから」
「そうですか」
 マサキは僕の前に座ると、オーダーを取りに来たウェイトレスにコーヒーを頼んだ。僕は、向かい合っている事実に落ち着かなくなってきた。携帯は返してしまったし、用件は済んでいるのだ。
 こんなことなら、本当に教材持ってくればよかった。
 







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