嵐の神の来訪から一夜が明け、太陽が顔を出し、荒れた大地を暖め始める。
夏の草が芽吹き、雨を吸った土が次第に乾き始めても、ティトーは目覚めなかった。
「無理も無い。あれだけ激しい雨にずっと打たれていたのですから…」
医師の言葉に両親は涙し、天地に祈った。眠る息子の名を呼び続け、乾いた手を握り締めた。
妹は懸命な看護を続けた。彼女は祈る事はしなかった。兄を助けられるのは長い長い祈りの詞では無く、
1杯の薬湯と清潔な寝床、清浄な空気であると信じていたから。
「お兄ちゃん。まだ大地に還ったりしたら、駄目だよ。
お兄ちゃんは、『古の西の島』まで行くんだから。
アーイと一緒に行くんだから。
英雄ヴェライト様みたいに、ううん、もっと凄い冒険、一緒にするって言ったよね?
それで、それで…大きな竜の羽、手に入れるっ、て…ね…」
真夜中、月光に照らされて闇の中に蒼白く浮かび上がる兄の顔からは死の気配が拭い去れず、
それに気付く度に妹は、込み上げる涙を止められなかった。
「お兄ちゃん…眼を開けて…死の影なんかに負けないで…お兄ちゃん…」
ティトーは唇まで月の色に変わって、沈黙を守り続けていた。
彼が音と光と匂いに別れを告げてから、どのくらい経ったのだろう。
最早村人の中には諦めを語る者も現れ始め、両親さえ祈りに疲れ、黙する時間が多くなっていた。
医師は様々な薬を処方し、妹がそれを与えたが、ティトーは一向に目覚めなかった。
「これが駄目なら…僕にはもう打つ手がありません」
心の底から済まなさそうに言う医師に丁寧に礼を言い、アーイは貰った水薬をそっと兄に飲ませた。
ごく僅かに喉が動き、ゆっくりと薬が口内を滑り落ちてゆくのが分かる。
「お兄ちゃん」
最後の一滴まで零さずに飲ませると、アーイは深い溜め息を吐いた。
(これでもし、目が覚めないなら…)
駄目かもしれない。諦めの風が、そっと少女の耳に囁いた。
死は遠い筈だった。少なくとも、アーイには遠い話の筈だった。
未だそれを理解出来ない少女は、それでも確かに兄の頬を愛しげに撫でる青い手を感じていた。
全てが眠り、月が妖精の村の真上に昇った頃。
アーイもまた、連日の看病疲れから、昼間と同じく黙したままの兄の上に頬を乗せ、
深い眠りに落ちていた。
羽を休めに窓枠に立ち寄った蛾が、硝子越しに何気無く、兄妹の眠る部屋を覗く。
その時、ティトーの唇が僅かに開いた。
目蓋が震え、慎重に開かれる。
息を殺して様子を見守る蛾に気付き、少年は穏やかに微笑みかけた。
もう大丈夫だ。
声無き声を聞き、蛾はその場から静かに飛び去った。
「アーイ…」
出来る限りの感謝を込めて名前を呼びながら、睫毛の先に涙を宿らせたまま眠る妹の
柔らかな髪をそっと撫でると、薄紅色の羽が微かに動いた。
「…お兄ちゃん…?」
霞む眼を幾度も瞬かせ、妹は目の前の兄を見つめた。以前と変わらぬ揺ぎ無い意志に煌く双眸が、
月の光と同じように優しく自分の瞳の菫色を映している。
「お兄ちゃん!!」
飛び込んだ胸はしっかりと彼女の身体を受け止め、背に回された腕は森の枝の強さでもって
アーイを抱き締め返した。
そして、声。
「ありがとう…もう、大丈夫だ」
死の青い手は最早そこには無く、それは月への階段を足音も立てずに昇り始めていた。
再び己が在るべき場所へ戻る為に。
次なる呼び声を、穏やかな眠りの中で待つ為に。
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