嵐は突然来た。
奇跡としか言いようのない自然の力を感じて、ティトーはこの恐怖の後に
豊かな恵みが約束されている事を知りながらも、
一刻も早く嵐が立ち去るよう、祈らずにはいられなかった。
「早く、早く家に入りなさい!」
親が子を、夫が妻を、急ぎ家の中へと誘う。
小さな自分達にとって、嵐は最も恐ろしい凶器の1つだった。
それはまるで戦争のようで、妖精達はただ震えながら嵐の神が通り過ぎるのを待つしかないのだ。
「ティトー!!」
最後に羽の話をされてから、何となく話し辛くなってしまった両親も、
ティトーが家の中に飛び込んで来るのを見て、心の底から湧き出る安堵感に泣きそうな顔で微笑んだ。
母親の胸に抱かれ、ティトーは不覚にも涙ぐみそうになり、慌てて笑顔を作った。
「大丈夫だよ、母さん」
次の瞬間、獲物に襲い掛かる獣の唸り声にも似た風が家の外壁と窓を掠め、
立てかけられていた梯子を持ち去る。
嵐によって失われるものは昔から全て、嵐の神への捧げ物とされていた。
「今日は、梯子だけで済むといいのだがな」
父が眉をひそめて荒れ狂う風と雨を見つめる。
その時ふと、ティトーはアーイの姿が無いことに気付いた。
「父さん…アーイは!?あいつは何処に!?」
「何?部屋にいるんじゃないのか、母さん!!」
父親も血相を変えて母に詰め寄る。母は唇まで蒼白になって、震えながら言った。
「ああ…あああ…何てこと!あの娘、あの娘は今日、森に薬草摘みに出かけてしまったわ!」
刹那、雷光が空を引き裂いた。
紫電が雲の中で腕を広げ、雨が一段と激しさを増す。
「アーイ…アーイ!!!」
神の槍の強烈な輝きの中に、兄は一瞬、妹の泣き顔を見た気がした。
ティトーは躊躇う事無く駆け出した。
「ティトー!何処へ行くんだ!!」
「駄目、行っては駄目よティトー!!こんな嵐の中へ出て行ったら、死んでしまう!!行かないで!!」
父が腕を掴む。母が泣き叫んでいる。外ではいよいよ風が家々の屋根を引き剥がしにかかっていた。
「アーイを助ける!助けて、必ず戻ってくる!!」
「ティトー!!!」
父の手を振り払い、少年はその身1つで嵐の中に飛び込んだ。
「アーイ!!アーイ、何処だ!?」
絶叫は風に掻き消され、雨粒が石礫となって容赦無くティトーの身体に降り注いだ。
恵みの水は今はただ重く、体温と勇気を奪い去ろうとする。
それでもティトーは己の足だけで大地に立ち、暗黒の空の下、妹の名を呼び続けた。
「アーイ!!!」
雨に混じって、熱い涙が頬を濡らす。ふと息が詰まって、ティトーは激しく咳き込んだ。
声を出すことすらままならないティトーを試すように、
或いは嬲るように、嵐は手を変え品を変えて妖精の村を蹂躙する。
風に煽られよろめいて、耐え切れずに泥の中に膝をついたその時、
ティトーは視界の端に鮮やかな薄紅色を捕らえた。
(アーイの…羽!!)
ティトーは無我夢中で手を伸ばし、立ち上がって走り出した。
古くなった村の倉庫が近づくにつれ、啜り泣く声が聞こえる。
幻のような薄紅色が震えているのが分かる。
「アーイ!!!」
「お兄ちゃん…っ!!」
恐怖と疲労と絶望の涙に濡れた2つの菫色が、喜びに煌いた次の瞬間、
吹き飛ばされた木片がティトーの頬を掠めて飛び去った。
切れた頬から血が流れ出す。しかしティトーは全く構わず、今にも倒れそうな妹を力一杯抱き締めた。
「もう大丈夫だぞ…怖かったよな。寒かったよな。こんなに、濡れて…」
全身で妹の存在を確認して初めて、ティトーは穏やかな溜め息をついた。
ぐったりとした妹を抱きかかえて、家へ戻ろうとしたが、
嵐はそれを許してくれそうには無かった。
「…もう、動けないな」
だが、ティトーは嵐がもうすぐ立ち去ることを確信していた。
妹を、可能な限り壁際に寄せ、強く抱え直す。
「大丈夫だ…大丈夫だぞ、アーイ。もうすぐお終いだ。もうすぐ家に帰れるからな。
もうすぐ父さんと母さんに会えるからな。大丈夫だ…」
妹に言い聞かせる自分の声と、風と雨と壊れた村が立てる音以外、ティトーの耳に響く音は何も無かった。
そんな中で彼は、汚れた壁をしっかりと見つめながら、英雄ヴェライトに思いを馳せていた。
(こんな事にも耐えられないようじゃ、竜の羽なんて夢のまた夢だろう?
英雄ヴェライトは、天災だろうが人災だろうが、物ともせずに戦ったんだぞ!
嵐の中でも、砂漠の蜃気楼の中でも、ヴェライトは皆の灯火だった。
そうだ。俺だって、アーイを守るって決めたんだ。必ず…守って…やるっ、て)
薄れ行く意識の中、ティトーは嵐の神が立ち去る足音を聞いた。
そして自分達の名を呼ぶ父と母の声を聞いて、彼は泥の中に倒れた。
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