8(れな)


水曜日――叔父さんに何と言って家を出よう、と一生懸命俺は考えていたのだが、目が覚めると既に叔父は家にいなかった。ちゃぶ台に一枚、俺宛の手紙がおいてある。

『所用で出かける。今日は遅くなるかもしれない』

 俺はなんだか拍子抜けしてしまい、しばらく呆然とその手紙をみつめてしまった。叔父はこんな風に、ときどき俺に行き先を告げず終日出かけることがある。
『どこに行くの?』
 何度か尋ねたことがあったが、そのたびに少し困ったような顔をして
『ちょっとな』
 と答えた叔父には、それ以上追及できないような雰囲気があった。だいたいそういう日は、叔父の帰りは深夜になる。疲れ果てたような顔をしてこっそりと帰ってくる叔父は一体どこで何をしているのか――翌朝には前日の様子のカケラも見せず、元気に魚河岸へと出かけてゆく叔父にも、考えてみれば俺の知らない秘密があった。
 そして俺も――今日、叔父に対して『秘密』を持とうとしているのだ。

「やあ、よく来たね」
常願寺は男の俺でも思わず見惚れるほどの爽やかな笑顔で俺を出迎えてくれた。
「……叔父さんの秘密ってなんだよ?」
 我ながら固い表情でそう彼を睨み付けると
「開口一番それか」と常願寺は苦笑し、
「余程君は二郎のことが好きなんだねえ」と肩を竦めてみせた。
「……悪いかよ。たった一人の肉親だ」
 実は親戚は沢山いるのだが、このくらいの誇張は許されるだろう。
「…まあそういうことにしておこう」
 常願寺はそう微笑むと、座りたまえ、と俺にソファを勧めた。
「叔父さんの秘密ってなんだよ?」
 俺はその場に佇んだまま、同じ問いを繰り返した。
「…聞くまでは梃子でも動かない・・・か?」
 やれやれ、と常願寺が俺の前に立つ。彼の体から立ち上るムスク系の香りがなぜだか俺を酷く落ち着かない気持ちにさせた。
「仕方が無い。教えてあげよう」
 くす、と笑いながら常願寺は長身の体を折るようにして俺に顔を近づけてきたかと思うと――
「うっ」
 不意にみぞおちに彼の拳を感じ、俺は驚く間もなくその場に崩れ落ち、意識を失っていった。


9(まな)


俺はぼんやりと目を覚ました。
不自然に上部でベッドにくくられた両腕と腹部のにぶい痛み、それらを自覚するとともに、さっきの常願寺とのやりとりを思い出した。
「あいつ…俺に何を…」
どうやら、さっきとは違う部屋に連れ込まれているようだ。常願寺の姿は見えない。こんなところはさっさと逃げ出したかったが、腕をベッドに縛られている状態ではそれもできない。どうしよう、と思いながら部屋中を見回していると、ガチャという音とともにドアが開き常願寺の姿が見えた。どうやら、この部屋のどこかに隠しカメラでもついているらしい。
「おはよう、気分は?」
笑いながら常願寺は俺にそう言った。
「最悪。はずせよ、これ。」
俺は、常願寺の顔をにらみつけてそう言ってやった。
「はは、怒っているね。でもはずせないよ。せっかく君の方から来てくれたのに。それに、二郎の秘密を知りたいんだろう。じゃあ、君は俺の言うことには逆らうわけにはいかないんじゃないか。どうだ?」
「だったら、なんで腕までしばる必要があるってんだよ。秘密だけ教えてくれたらいいじゃないか。」
俺は、むかむかして逆らうなという男に向かって悪態をつく。
「はは、君がこれから俺がすることに従順に従ってくれるという保証があれば俺も縛ったりはしたくはないさ。ま、でもそれは無理だろうからね。だから、かわいそうだけど仕方がないのさ。」
「仕方がないってなんだよ。叔父さんの秘密の話じゃなかったのかよ。」
「だから、これが二郎の秘密なんだよ。」
「えっ。」俺は常願寺が何を言っているのか理解できなかった。
「どういうことだよ!」
「さあ、どういうことかな。」
常願寺は、そう言うと俺のそばに寄ってきて俺の顔をゆっくりとなでた。
「ああ、綺麗な肌だね。まだ十代の肌だ。この綺麗な顔でサブリナを演ったかい?」
彼はなぜか、俺の愛称のもとになった小学生のころの学芸会での役名を口にした。
「何言ってるんだ。」
俺は、彼の中になんだかわけのわからないものを感じてそれ以上言うことができない。
「とにかく、この腕をはずしてくれよ。」
「だめだよ。」
そう言うと常願寺は、俺に覆いかぶさり俺の身体をなでまわしはじめた。シャツのボタンに手がのびる。
「やめろ。何するんだよ。」
俺は思わず声をあげる。
「君は、二郎にこうされたいと思ったことはないのか?」
常願寺の言葉に俺の抵抗が一瞬止まる。
「それとも、君の方が二郎にしてあげるのかな?」
「なっ…」
そう言うと彼の手はなおも激しく俺を蹂躙しはじめた。


10(もぐもぐ)



「やめろっ……つっ」
常願寺の舌が俺の胸の尖りを擦りあげたとき、今まで感じた事のない痺れが背中を走った。
奴は、俺の口には触れようともしなかった。舌を入れてきたら、噛み切ってやろうと思ったのに。
「感じてるんだね」
上目遣いに見上げた常願寺の唇から赤い舌が覗く。男らしい顔なのにその表情はひどく淫らでいやらしかった。目を逸らせない俺と、わざと目を合わせたまま、奴は大きく舌を出してまた俺の胸を舐め上げた。
「うっ……」
「二郎も感度のいい身体を持っていたけど」
常願寺はクスッと笑った。
「君は、それ以上かな」
「な、にっ」
奴の言葉に、俺は混乱した。
(叔父が?)
「おまえ……叔父さんを……」
唇が震える。
常願寺は目を細めた。
「初めて抱いたのは、二郎が中学生のとき、かな」
目の前が真っ白になった。
俺の表情を探るように見て、常願寺は薄く微笑んだ。
「やっぱり君は、二郎のことを好きだったんだね」
焦点の外れたような視線の先に、常願寺の端正な顔が歪んで見える。
「二郎はね。とても可愛い少年だったよ。今でこそ、仕事柄か、ずい分逞しくなっているけど」
俺の胸に口づけながら、常願寺は続ける。
「小さいときは、いつも一郎の陰に隠れてたな。そして、いつもその兄の後ろを追いかけて……いつも……ね」
常願寺の右手が、俺の下半身に伸ばされる。
「本当に……可愛かったんだよ」
綿パンツを下着と一緒におろされて、下肢がさらされても、俺は金縛りにあったように動けなかった。
(常願寺が、叔父さんを抱いた―――)
そのことが俺の思考を狂わせる。
「君は、可愛いというより綺麗だね。一郎に似ている」
やんわりと、自身を握りしめられて、俺は初めて意識が戻ったように身体がビクリと跳ねた。
「やっ、やめろ」
身じろぐと、常願寺は身体をずらして俺の開いた足の間に身体を滑り込ませた。
「やっ」
無様に足を開かされて、俺は恐怖に上半身を起こした。捕らえられた腕が痛む。ほんの少ししか起き上がれなかったが、常願寺が俺を咥えこむのが見えた。
「いやだっ」
悲鳴のような声が出た。
常願寺は、萎縮している俺を舌先でころがすように舐めあげると、唇を離して俺の目を見つめて言った。
「二郎も、そう言ったよ。初めてのとき」
ドクンと俺自身が反応したのがわかった。

「あっ……やっ、」
それからも常願寺は、俺の身体を蹂躙しながら、叔父のことを囁き続けた。
「色っぽい声だね..声はアノときの二郎に、似ているかな」
「んっ……はぁっ」
生まれて初めて与えられる感覚に、俺の頭の中はどろどろに熔けていた。
常願寺が囁き続ける叔父の名に、混乱していく。
(叔父も……こうやって、この男に……)
何故だか酷く甘美な疼きが俺を襲う。
常願寺の唇と指で何度もイカされて、いつのまにか泣きながら懇願している自分に気がついた。
「本当に、君も可愛い」
常願寺の指が、俺の後ろに伸ばされて、誰も触った事の無いそこを押し広げたとき、激しい痛みと、今さらの羞恥に、身体が仰け反った。
「あうっ」
「大丈夫」
何かを塗りつけた。ひんやりとした感触が、次第に熱を帯びてくる。
奴の指が、自分の中に入ってくるのがわかった。
「ひっ」
「カタイね。少し慣らさないと、キツそうだ」
「あ……」
俺の身体が嫌がってずり上がるのを、片手で封じた常願寺は、無理やりに指の数を増やした。
「ああああっ」
悲鳴をあげると、
「静かに」
少しだけ苛吐いた声で言って、傍にあったシャツを俺の口に押し込んだ。
「う……んん…ん」
口を塞がれて、さっきまでとは違う涙が目の端から落ちた。
「傷は、付けたくないんだけどね」
指で後ろを犯しながら、常願寺が囁く。
「初めてだから、少しは痛いよ」
俺は、シャツに唾液を吸われながら、首を振った。
「我慢して――――君の叔父さんも耐えた痛みだ―――」
酷薄そうに唇を歪めて、常願寺は俺の後ろに自身を突きたてた。

気が遠くなる痛みの中で、叔父さんのやさしく男らしい顔が脳裏に浮かんで……
そして消えた。


11(れな)


 鈍い痛みを下肢に感じ、俺の意識はゆっくりと覚醒していった。薄暗い部屋。見慣れぬ天井。そして――
「……つぅっ」
 身体を起そうとした俺の下半身に疼痛が走る。

 そうだ。俺は常願寺に―――

 屈辱的な画が俺の頭に浮かび、思わず勢いよく身体を起した俺はまだ全裸のままだった。首をめぐらせてベッドの下に落ちていた服を見つけたが、無理矢理貫かれた痛みが俺の動きを酷く緩慢なものにした。

 許さない――(精一杯の譲歩(笑)ほんとは「許さんっ」としたかった(笑))

 悔しさのあまり込上げてきた涙を手の甲で拭い、俺は唇を噛みながらなんとか身体をベッドから下ろすと、のろのろと服を身につけはじめた。

 『二郎もそう言ったよ。はじめてのとき――』

 不意に俺の脳裏に常願寺の声が甦る。叔父もあの男に蹂躙されたというのは本当なのだろうか。こんな屈辱的で、こんなに肉体的にも精神的にも辛い思いを叔父もしたというのだろうか。

 「許さない……」
 堪えていた涙が俺の目から零れ落ちた。自分があれほど知りたかった叔父の秘密というのがこんなことだったなんて――叔父が常願寺に決して会うな、と俺にきつく言い渡したのは、この秘密を俺に知られたくなかったからなのだろうか。俺よりもまだ若い頃に、あの男に犯されたという事実を隠しておきたかったからだろうか。

 「許さない…」
 ぼろぼろと涙を零しながら、俺は床を拳で殴った。何度も何度も、己の身体の痛みを拳の痛みで忘れようとでもするかのように、俺はその場に蹲り、いつまでも床を殴りつづけた。

 漸く涙も収まってくると、いつまでもこの場に留まっているのは危険ではないかということに考えが至るようになった。まだ歩くのは少しキツかったが、我慢できないほどではなかった。壁伝いにドアへと向かい、施錠されたドアを小さく開く。どうやら地下らしいその部屋の外は無人のようだった。突き当たりに非常階段が見える。俺はなるべく音を立てないように、ゆっくりした足取りでその階段に向って歩きはじめた。
 階段を上りきり、外に出た俺は陽光に一瞬目が眩みそうになった。一体、今は何時なのだろう。辺りを見回し、そこが銀座の常願寺の店の裏口らしいことがわかった。俺の身体をいいように弄んだあの男はまだこの建物の中にいるのだろうか。
 俺は自分の出てきた建物を睨み上げたが、今は彼と対面する勇気が出なかった。力づくで奪われたことが俺の脚を竦ませていたのだ。
 
 帰ろう――

 俺はその場から逃げるようにして立ち去った。再び抑えきれぬ屈辱感が立ち昇り、俺は唇を噛んだ。


 俺は――知らなかったのだ。
 俺が目覚めたとき、常願寺が傍にいなかったその理由を。

 その頃、常願寺は――叔父と対峙していた、という事実を、後になって俺は聞かされたのだった。


12(まな)


かなり待たされた後、ようやく二郎のいる応接室に常願寺が姿を現した。

「二郎、久しぶりだな。」
「常願寺…」
「お前の方からやってくるなんて、珍しいこともあるものだ。で、今日は何の用なんだい。そんな怖い顔をしやがって…」

「常願寺、お前、こないだサブに会っただろう?」
二郎は単刀直入に常願寺にそう尋ねた。
「ああ、びっくりしたぜ。一郎が生き返ったのかと思って、この俺が一瞬うろたえちまった。ふふ…」
常願寺はそう言うと意味ありげな笑いをもらした。そして、その笑いに二郎は何か、ただならぬものを感じとっていた。
「お前、そのあとサブにまた会ったのか?」
「さあな…」
「さあなって、お前、まさかサブに何かしたんじゃないだろうな?」
二郎は必死の形相で常願寺に詰め寄った。
「何かってなんだ?」
相変わらずのからかい口調で常願寺がそれに答える。
「わかった、お前に真剣に尋ねた俺が馬鹿だった。とにかく、お前、もう二度とサブにちょっかい出すなよ。それだけ言いにきたんだ。」
二郎はそう言うと、帰ろうと身体を返した。しかし、常願寺の言葉がすぐ続けられる。
「二郎、何勝手なこと言っているんだ。そんなこと、はいそうですか、と俺が承知するとでも思っているのか。それに、もう遅い…」
「もう遅い?」
常願寺の言葉に二郎が反応する。
「もう遅いってどういうことだ。お前サブに何をしやがった?」

「二郎、お前には言っておく。俺は、もう二度と一郎を失うつもりはねえ。だから、もう一度一郎に会えたら、今度は絶対に躊躇しないと決めていたんだ。」
少しの間の後、ぞんがい真面目な表情で常願寺は二郎にそう言った。

「お前、何言ってやがるんだ。サブは兄さんじゃないぞ。お前、一体、何を考えてやがる?」
「だけど、一郎そっくりだ。」
そう言うと常願寺はうっそりと笑った。その笑いを見て、二郎は常願寺が持っていた兄への異常な執着を思い出していた。そして、それは自分が持つ兄への執着と同質のものだったのだ。自分と常願寺は、かつてその執着によって身体をつないだことがあった。

「常願寺、お前…」
「それとも、二郎、またお前が代わりをしてくれるのかな?あの時みたいに…」


13(もぐもぐ)



「っつ、いてぇ……」
自宅までの道のりが遠かった。
身体中がキシキシと音を立てている。
「まだ、着かねえのかよ」
歩く度に下半身から全身へと走る痛みに、俺は唇をかんだ。
(絶対に許さない)
俺はもう一度、心の中で叫んだ。
ほんの小さな石にも足をとられてしまって、ふらりと壁に手をついたとき、後ろから声がした。
「サブ、サブじゃねぇか。どうしたんだ?」
「あ……」
振り返ると
「おやっさん」
北島のおやっさんが、驚いた顔で立っていた。
「どうしたんだ、真っ青だぞ、おまえ」
「おやっさんこそ……どうしたんです?髪型変えたんですね」
夏らしく短く髪を切ったおやっさんは、前よりずい分と若く見えた。
「似合いますよ。また惚れられちゃいますね」
自分の事に触れられたくなくて、わざとおかしそうに笑って見せたら、おやっさんは真面目な顔で俺の腕を掴んで言った。
「具合が悪いときに、ふざけてるんじゃねえよ」
「っ……」
「おい、ジョージ」
おやっさんが叫ぶと、少し離れたところの店から声が返った。
「へいっ」
「車、まわせっ」
「へい」
おやっさんの所の、若い衆のジョージさんが飛び出してきた。
「家まで送ってやる」
「い、いえ、大丈夫ですから」
脂汗の滲んだ顔でこう応えても、信じてはもらえなかったらしい。
俺はそのままおやっさんの車に乗せられて、自分の家に連れて帰ってもらった。
車の後部座席に座ったとき、
「横になってろ」
おやっさんは、さりげなく俺の身体を庇うように倒してくれた。そして自分は助手席に座る。
「サブちゃん、どうしたんだい?」
ジョージさんがバックミラー越しに俺に話し掛ける。
「熱があるんだ。そっとしてやれ」
おやっさんが厳しい口調で言うと、
「へいっ」
それきりジョージさんは黙って、静かに運転してくれた。

家に帰って、叔父と顔を合わせるのだけが怖かった。
けれども、幸いにも叔父はまだ帰っていなかった。
きっとまた、遅くなるのかもしれない。
「大丈夫か?」
俺が部屋に入るのを見届けながら、おやっさんが眉根を寄せた心配顔で訊ねる。
(おやっさん……)
おやっさんは、俺の身体の異常に気がついただろうか?
いや、そんなはずは、ない―――そう、思いたかった。
「大丈夫です。寝てればなおります」
「……そうか」
おやっさんは、それでもまだ暗い表情のまま
「なんかあったら、電話しろ。必ず、な」
俺の頭をくしゃっと撫でで出て行った。


自分の家に帰って、懐かしい、慣れた魚の匂いをかいで、その匂いと共に叔父のことを思う。
また胸がひどく締め付けられる。
叔父に抱かれたいと思ったことがあった―――あの腕で、抱きしめられたいと。
けれど、生まれて初めて他人に抱かれた今では、もうそんなことは考えられない。
(汚い……)
常願寺に抱かれた俺は、もう、叔父に抱いてもらえる身体は持っていないだろう。
(殺してやりたい)
俺をこんなにして……
そしてまだ中学生だった叔父にも、こんなことをしていたのだとしたら、常願寺は、生きていちゃダメな男だ。
瞬間、激しい怒りに身体がかっと熱くなったが、疲れた身体はそれ以上考えることを許してくれなかった。
俺は、泥のように眠りに落ちて行く。

そのとき、叔父に起こっていたことも知らずに―――――――――


14(れな)


聞いた話である(こればっか(笑))。


「……馬鹿を言うな」
 暫し睨み合ったあと、二郎はふいと常願寺から視線を逸らせた。
「馬鹿はお互い様じゃなかったかな?」
 常願寺がゆっくりと近づいてきて、二郎の頬へと手をやる。
「昔の話だ」
「『昔』というには、まだ私は――」
 常願寺は二郎へと近く顔を寄せると、囁くような声で告げた。
「お前の身体を忘れちゃいない」
「よせ」
 ぞくりとした感触が二郎の背を昇る。それが悪寒であるのか、かつて身体を重ねたこの男への郷愁であるのか、彼自身にも判断がつかなかった。
「お前も忘れちゃいないだろう?」
 身体をひきかけた二郎の背を、常願寺の左手が捉える。
「よせといっているだろう」
 睨み上げたその先の常願寺の瞳に映る自分の顔に、二郎は滲み出る彼への媚びを見た。常願寺もそれに気づいたのだろう。くす、と小さく笑うと、そのまま二郎の背を抱き寄せ、口唇を重ねてくる。
「…やめろ」
 抗う素振りは演技でしかないことは、最早二人にはわかりすぎるほどわかっていた。常願寺の腕の中で二郎が目を閉じかけたその時

「邪魔するぜ」

 不意に扉があき、そこに現れたのは、ジョージを伴った北島であった。その姿に二郎は我にかえったように、常願寺の腕から逃れると
「おやっさん…」どうして、と呆然と彼を見やった。さすがの常願寺もこの不意打ちには驚いたらしく、無言のまま北島を睨みつけている。
「無体なことはやめようぜ、常願寺」
 凄みのある視線を常願寺に向けながら、北島はそう白い歯を見せて笑った。
「……これはこれは……うちの者はどうしたのかな。案内もさせず、失礼しました」
 常願寺は慇懃に頭を下げ北島に微笑みかけたが、その目は少しも笑ってはいなかった。
「失礼はお互い様だあね」
 見返す北島の眼差しも厳しいままである。暫し二人して睨み合っていたが、やがて先に目をそらせたのは常願寺の方だった。
「……帰(けえ)るぞ」
 北島は常願寺を睨みつけたまま、二郎を顎で促した。
「おやっさん…」
二郎は逡巡するようにその場に立ち尽くしていたが、ジョージがその腕をとると大人しく彼に従い、北島の方へと歩み寄っていった。
「お節介は怪我のもとですよ」
 肩を竦めながら常願寺が苦笑するようにそう笑う。
「……大怪我しねえよう、お前も気をつけな。今後こいつやサブに手を出そうとしやがったら……」
 北島はちらとジョージを目で示すと
「ウチの若えモンが黙っちゃいないぜ」
と再び常願寺を睨みつけた。
「……八王子中のチンピラを相手にするほど、私も無謀じゃありませんよ」
「わかりゃあいい」
 北島は満足そうに頷くと、邪魔したな、と常願寺へまた凄みのある笑顔を見せ、二郎とジョージを伴い、常願寺の部屋を後にしたのだった。


「無茶はするな」  
ジョージの運転するキャデラック(どうしてアメ車(笑))の後部シートに座った途端、北島は厳しい目を二郎へと向けてきた。
「おやっさん…」  
二郎はそんな彼から目をそらせると、
「申し訳ありませんでした」
と項垂れた。
「俺に謝ることじゃねえ」
北島の眼差しが笑顔に緩む。
「髪……切っちまったんですね」
 ぼそ、と二郎は彼から目をそらせたまま呟いた。
「ああ?」  突然何を言い出すのだろう、と北島は二郎の顔を覗き込んだ。
「……似合ってたのにな」
 くす、と笑う二郎はまだ北島から目をそらせたままである。
「……兄貴と同じ髪型だったからだろう?」
北島は低くそう言うと、おもむろに二郎の肩を抱き寄せた。
「おやっさん…」  
二郎が驚いたように顔を上げ、そんな彼を見る。
「……忘れろ」
「おやっさん…」
「俺が忘れさせてやる」  
北島はそう囁くと「後ろは見るなよ」と運転席のジョージに告げた。



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