オヤジの胸で泣かせろっ!
「愛の一本釣! 俺には後楽園球場がでっけえ鯨に見えるぜっ」

1(れな)


築地市場が移転する、と知ったときはやはりショックだった。
ガキの頃から慣れ親しんだこの場所が、いくら手狭になったとはいえ豊洲なぞに移ると言うのは、一介の魚屋の俺が言うのもなんだがどうにも納得がいかない。
築地には――忘れられない思い出がありすぎる。十年以上前、死んだ親父に手をひかれはじめて訪れたこの場所で
「これが父ちゃんの戦場だ」
と胸を張った父がどれだけ俺の目に誇らしく映ったことか。

 その親父も五年前、北海の猟場で命を落とした。某番場蛮(どうでもいいが、自分の息子に「野蛮」の「蛮」と名づけるばんちゃんの父は一体何を考えていたのだろう?)の父ちゃんのように鯨の腹を銛で破って出てきた、というほどのエピソードは(勿論)ないが(そしてもっとどうでもいい話だが、たしかばんちゃんの父ちゃんは高知出身だったような気がする。高知県民は「いまどき銛で鯨なんてとってねえ」と怒らなかったんだろうか)、北海の海に呑まれ、死体もあがらなかったという父の死は、幼い俺には随分堪えた。
 母親を早くに亡くしていた俺は、親戚の間をたらいまわしにされた挙句、施設に放り込まれそうになったのを、まだ若く生活能力もなかった叔父が気の毒がって引き取ってくれた。叔父とは六歳しか違わない。やはり父母を早くに亡くし、父親の残した魚屋を必死になって切り盛りしているところに俺というお荷物を抱え込み、本当に叔父は苦労したと思う。
 そういうわけで、俺は高校を出してもらうとすぐ、叔父の店で一緒に働きはじめた。少しでも叔父の手助けがしたかったからだ。叔父の誠実な人柄のためか店は今では結構繁盛し、生活も以前に比べて随分楽になっていた。叔父は俺に「大学へ行け」としつこく勧め続けたが、そこまで甘えさえてもらうわけにはいかない、となんとか叔父を説得し、こうして夜も明けるまえから築地市場に通いはじめてそろそろ半年になる。
 実際、叔父の仕事を手伝いはじめると、魚屋というのはなんてハードな仕事なのだろうということがはじめてわかった。叔父がつらそうな顔ひとつ見せなかったものだから、俺は叔父の苦労の百分の一もわかっていなかったのが恥ずかしかった。俺は少しでも叔父にラクをしてもらおうと、一生懸命働いた。最初は我ながら足手まといとしか思えず、かえって叔父に対する申し訳なさも募ったが、今では少しは叔父の手助けができているのではないか、と思えるくらいにまで動けるようになっていた。
「ほんと、たすかるよ」
 叔父の笑顔が、俺には何より嬉しかった。叔父にラクをしてもらうためなら、なんでもしようと俺は本当に毎日頑張った。

 その想いが――恋、と気づいたとき、俺はどうしようもないくらいに動揺した。

 叔父の綺麗に刈り上げた項を見るだけで、俺は自分の鼓動が早まるのを感じた。魚ケースを持ち上げる発達した上腕筋に見惚れる自分に気づき、慌てて目を逸らせたのも一回や二回ではない。家に風呂はあったが、広い風呂が好きだと叔父はよく俺を先頭に誘った。叔父の裸体を目の前に、思わず下肢に血が集まりそうになるのを必死で俺は堪えた。何度も何度も叔父の逞しい腕に抱かれる夢を見た。夢精した下着を恥じ、その頃から俺は家事を担当すると叔父に宣言し、洗濯を自分でやるようになった。ついでにメシもつくりはじめた俺に、叔父は「助かるよ」と笑って俺を見たが、俺の胸のうちを知ったら叔父はこんな笑顔を見せてくれるか、と思うと本当にやりきれない気持ちになった。

 叔父にだけはこの思いを知られたくない――俺は自分の一挙一動に本当に気を配った。自分の眼差しに少しでも彼への愛しさが滲まぬよう、細心の注意を払う己を愛しいとすら思い始めていた矢先――

事件はおこった。


2(まな)


 その日俺は銀座を歩いていた。
朝、市場で買出しを済ませ、午後店をあけるまでのわずかな時間が俺たちにとっては、ささやかな休息の時間だった。いつもは、店を開ける準備をした後は、まったりとワイドショーを見たり、昼寝をしたり、叔父の好きな朝風呂に入りにいったりと思いのまま過ごすのであるが、なぜかその日、俺はコーヒー豆を買いに銀座まで足を伸ばしていた。
美味しいコーヒーを飲むことは、俺と叔父のこれまたささやかな楽しみだったのだ。そして、俺はささやかな贅沢として、コーヒー豆は銀座にある専門店で買うことに決めていた。築地と銀座、距離的に近くはあるが遠い街であった。俺は、いつもの豆を買い、叔父の待つ店へと帰りを急いでいた。
 銀座でよく見かける古びた、しかし、金だけはかかっていそうなビルの前を通り過ぎようとしたとき、突然、そのビルから出てきた男が俺に向かって叫んだ。
「一郎!」

(一郎?それは、親父の名前だ。)
(誰だ?こいつ?)

非常に身なりのよい男だった。三十代前半くらいだろうか?銀座の似合う男のいうのはこういうやつのことを言うのだろう、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。俺のそんな様子に男は我にもどったのか、男は俺にむかってもう一度口を開いた。
「失礼、驚かせたね。」
「いや、驚いてはないけど…というか、驚いてるか…あんた、親父の何?一郎は親父の名前だけど…」
「君が?一郎の息子。これは奇遇だ。まさか、今日、一郎の息子に会えるとは思わなかったよ。そう、さっきも築地のそばを車で通るときに二郎のことを思い出していたところだ。どうだ?二郎、元気か?と言っても俺は二郎には嫌われているけどね。」

(こいつ、叔父の名前まで知ってるって何者?しかも嫌われているってなんで?)

「だから、叔父の名前まで知ってるってあんた何者?」
俺は、だんだん、こいつがうさんくさくなってきて、不機嫌につぶやいた。

「ああ、ごめん、いやあ、怒った顔まで一郎にそっくりだ。二郎はさぞ君を溺愛していることだろうね。」
男は、またもや俺の質問に答えず好き勝手なことを言う。俺は、何も言わずに男をにらみつけてやった。年はかなり上のようだが、こいつの礼儀がなってないのだから仕方がない。俺は売られた喧嘩は買うほうだ。親父譲りのこの負けん気の強さで今まで生きてきたのだ。
「ああ、ごめん、ごめん。君は顔ばかりか性格も一郎に似ているね。俺は一郎の同級生だ。小学校と中学校が一郎と同じだったんだよ。」
(何、こいつ親父と同級生ということは39歳か?30歳そこそこにしか見えなかったぜ。それにしても、親父にこんな金持ちそうな友達がいたとは意外だな。)
「意外そうな顔をしているね。ま、俺も実のところそのへんの商店街のガキだったわけだが、バブルの時代に地上げで儲けてね、今では小さいながら銀座にも会社を持っているというわけさ。」

「社長、お時間が…」
なおも話そうとする男の後ろから部下であたるのだろう男がおずおずと声をかけてきた。
「ああ、仕方がないな。こんな幸運は、めったにないのに…二郎に言っても絶対に会わせてもらえないからね。じゃあ、また、会えるね。」
男は当然のように俺にそう言った。俺は何も答えなかった。
「うん、とは言ってくれないのかい?じゃあ、こうしよう、君がもし、もう一度会ってくれるなら二郎の秘密を教えてあげるよ。それでもダメかな?」
「叔父さんの秘密ってなんだよ!」
俺は思わず言い返してしまった。
「それは、今度会ったときだよ。じゃあ、名刺を渡しておくから、いつでも連絡してきてくれ。この番号を俺の直通だから…」
男はそう言って俺に名詞をおしつけると、あっという間に車に乗って通り過ぎてしまった。


3(もぐもぐ)



名刺には、『株式会社アーバンライフ 代表取締役 常願寺啓吾』と書かれていた。
会社名だけでは、何をやっているのかも解らない。
うちみたいに『魚勝』とかいう名前なら、一発で魚屋ってわかるってもんだ。
まあ、そんなこと、どうでもいい。 

『二郎の秘密を教えてあげるよ』

突然現われた男――社長のくせに落ち着かない、いけ好かない奴だ――の、いきなりの言葉に、俺は実のところかなり動揺した。
あの叔父さんにどんな秘密があるというのだろう。
小学校上がるまで寝ションベンしていたとか、実はいまだにお化けが怖いとか……いや、これは全部俺の秘密だ。
けれども、俺の一番の秘密は、叔父に対する恋情だ。
これ以上の秘密はない。
そして、叔父の秘密というのはまさかそう言う話じゃないよな、と胸に不安がよぎったが、あの叔父に限ってと打ち消した。
俺と一緒に暮らし始めてからの叔父は、浮いた噂一つなく、見かねた叔母たちが見合いの話も持ってきたが、叔父は「まだ早いから」と言ってひたすら断っていた。
その気になればいくらでも女が寄って来そうな叔父が、ストイックに独りを通しているのが、俺は嬉しかった。

色々と考えているうちに、家に着いていた。叔父が店を開ける準備をしている。
「ごめん、叔父さん、遅くなって」
「いいさ、もう終わりだ」
「座ってて、後、俺やるから」
俺は、急いで上着を脱いで、黒い前掛けを締めた。
「いいから、サブ。それより、豆買ってきたんだろう?コーヒー入れてくれよ」
叔父が白い歯を見せて笑うと、俺の胸はぎゅっと締め付けられる。
いつもより、締め付けがキツイ。変だと思って自分を見たら、興奮のあまり前掛けの紐を締めすぎている。
胸じゃなくて、腰だったか……。
俺は顔を赤くして前掛けをはずすと、コーヒー豆を持って奥の部屋に向かった。
魚屋の店先は、当然ながら魚臭い。けれども俺は、その魚臭さが好きだった。
親父の匂いだし、叔父の匂いだ。
そこにコーヒーの香が混ざるのはそれぞれの調和が乱れるようで、俺は、コーヒーは店の裏の台所ではなく、必ず奥の部屋で入れるようにしている。
「叔父さん、コーヒー入ったよ」
声をかけると表から大きな声で返事が返って、叔父さんの逞しい身体が和室の襖から覗いた。
畳にどっかり腰をおろして、
「いい匂いだな」
嬉しそうに俺を見上げる。
俺は、内心の鼓動を悟られないよう、カップを手渡す。
叔父の太く長いいかにも漢らしい指が俺の手を包む。
この一瞬の触れ合いさえ、俺にとっては至福の瞬間だ。
「うまいな、本当にサブはコーヒーを入れるのが上手い」
(努力してんだよ、叔父さん)
叔父に褒められるのなら、俺は何だってやっただろう。
そして、美味そうにコーヒーカップに口づける叔父の横顔を見つめながら、俺はまたしてもさっきの男の言葉を思い出した。
(叔父さんの、秘密)
例えそれが何であれ、叔父に直接聞くのは気が引けた。秘密というからには、知られたくないことなのだ。
そして俺は、この叔父のことなら、例えほくろの数だって知りたい。
(いや、それこそ一番知りたいかも)

俺はそっとズボンのポケットに手を入れた。
さっき貰った名刺が入っている。
あいつはいけ好かない奴だが、叔父に関係する話なら、聞いておかないといけない。
明日にでも電話をしようと決心した。

夕方になると、こんな商店街でも活気づく。
「魚勝は、看板息子が二人も居るから、奥さんたちが集まってしょうがないねぇ」
総菜屋の高山のおばさん――四十五歳、二人の子持ち、推定体重八十二キロ――が、冷やかし半分に笑う。
確かに、スーパーでいくらでも安い魚が買える時代に、うちみたいな昔ながらの魚屋が繁盛するのはひとえに叔父の魅力によると思う。
商店街の抱かれたい男NO.1だと、高山さんから聞かされたこともある。
俺も抱かれたいと思っているとは、口が裂けても言えなかった。
「ジローちゃん、今日は何がいい」
「白身なら、良いのはいってますよ」
「二郎さん、私、さばけないんだけど、お願いできるかしら」
「二郎さん、二郎さん」
商店街の奥さん相手のとき、叔父はいつもより無愛想だ。
「そこが、いいのよねぇ」
ヤングミセスから、高田さんクラスまで、いやボケて有名な橋田のばあさんクラスまで、幅広い人気を誇る叔父。
ライバルの多さに目眩がする。
俺の気持ちは知られるわけには行かない。絶対に……
けれど、こんな光景を毎日見ていると、思いのたけをぶちまけたい衝動に駆られることもある。
「サブ、ぼおっとしてるんじゃない」
叔父の目が俺を睨む。
「あ、すいませんっ」
魚屋が、ぼっとするなんて!
今は仕事中だ。
俺が、ペコリと頭を下げると、叔父は周りに分からないように、俺を見てニッと笑った。
目が優しい。
俺は、顔が熱くなるのを感じ、ごまかすように大声を出した。
「へい、らっしゃいっ」


4(けいこ)


 しかし、俺はその後も釣り銭を間違えそうになったり、注文を間違えたりとミスが多かった。つい、あの男のことをあれこれと考えてしまうのだ。
「サブ、どうしたんだ?具合でも悪いんか?」
やっと客足が途切れた時、叔父が心配そうに声をかけてきた。
「熱でもあるんじゃねぇのか?」
叔父は前掛けで手をぬぐうと、その逞しい腕を伸ばし、俺の額にそっとふれた。プン、と魚のにおいが鼻腔をかすめ、その意外に繊細な指が俺の視界を半分さえぎる。俺は自分の鼓動が早くなるのを感じた。
「なんだ。顔も赤いな。熱があるんじゃねぇか?今日はもういいから先にあがって休んでろ。」
俺は大丈夫だと言い張ったが、叔父も一度言い出したら聞かない性質だ。とうとう根負けして、俺は一足先に上がることにした。  
部屋に戻り、シャワーを浴びて。いつものように食事の支度をした。今日のメニューは俺の得意料理、肉じゃがだ。(魚屋だって魚ばっかし食ってるわけじゃない。)しかしそうやって平常心をとりもどそうとしても、俺の頭の中にはあの男の言葉が繰り返し響いていた。
 「二郎の秘密を教えてあげるよ」 
叔父が店の片付けを終えて部屋に戻るまでには、まだ時間がある。とうとう耐え切れなくなった俺は名刺を取り出し、夢中で電話のボタンを押した。
「はい、常願寺です。」
張りのあるバリトンが受話器から聞こえる。
「あ、あの俺、今日銀座で会った・・・」
「君か!・・・フフ、早速連絡をくれたんだね。嬉しいよ。ということは、また会ってくれるということだね?」
「あ、ああ。まあ・・・。」
俺の答えは、いつもの俺らしくもなく歯切れが悪かった。
「二郎の秘密が、そんなに知りたい?」
からかうような口調に俺はカッ!となる。
「なんだよ!もったいつけた言い方しやがって!!」
「フフフ、本当に一郎にそっくりだね。嬉しくなってしまうなぁ。」
何なんだ?こいつ。・・・俺は漠然とした不安を感じ始めていた。しかしもう後にはひけない。叔父の秘密を聞き出すまでは。


5(れな)


聞いた話である。


 俺が叔父の秘密を知ろうとあのいけすかない男に電話をかけている間に、叔父の身に大変なことが起こっていようとは――そのときの俺は知る由もなかった。

「おう、二郎、もうしめえかい?」
 次郎がシャッターを閉めかけているところに現れたのは、顔なじみのブローカー北島だった。
「あ、おやっさん」
 二郎は笑顔で北島を迎えた。仕事柄、ヤのつく自由業に限りなく近く見えるパンチパーマで凄味を利かせている彼ではあるが、後ろに手が廻るようなあくどいことに手を染めてるわけでもなく、根っからの世話焼きで面倒見がいいために魚や仲間では「おやっさん」と慕われている。凛々しい眉と理知的な瞳がその外見でいながらにしてある種の品位すら感じさせるこの北島は、二郎が開業した当初から何故か目をかけてくれ、何かと便宜を図ってくれていた。
「どうしました?」
「いや…まあいいわ。また明日寄らせてもらうわ」
 北島はそう笑うと、それじゃな、とその場を去ろうとした。
「あ、おやっさん」
 なんだろう、と思いながらも二郎は彼の腕を掴むと
「残りモンで申し訳ないが、尾頭付きの出物がありますんで」
 と日頃世話になっている礼に、と申し出た。
「尾頭付きか、いつもわりぃな」
 断らないのも礼儀、というのが北島なりの思いやりらしい。
「ちょっと待ってもらえます?」
 閉めたシャッターをわずかに上げ、二郎は再び店へと入った。北島もその後に続き、明かりを落とした店内へと入ってくる。電気のスウィッチをつけようと手を伸ばしたとき、ガラガラというシャッターの閉まる音とともに店内が暗闇に包まれた。北島が内側からシャッターを下ろしたからだということに二郎が気づいたときには、その闇の中、大股で近づいてきた彼にいきなり抱きすくめられた。
「おやっさん?いったい何の…」
 冗談だ、と笑おうとした二郎の唇は北島の唇に塞がれた。生理的な嫌悪を打ち消すほどの驚愕に、二郎は抵抗することも忘れ、その腕の中で身体を強張らせていた。それを合意のサインととったのか、北島は尚いっそう強い力で二郎の背を抱き寄せると、片方の手で彼の尻をぎゅっと掴んできた。北島の雄の熱さを己の下肢に感じてはじめて、我が身に起こっている事象の異常さに気づいたかのように、二郎は激しく抵抗しはじめた。


6(まな)


「やめ、やめろ…」
「二郎、静かにしな。あまり暴れると上にいるさぶに気づかれるぞ。」
その言葉に二郎の抵抗が止まる。無抵抗になった二郎の下肢に容赦なく北島の手がのびる。
「兄さん。」
二郎は、思わず兄の名前を呼んでいた。その言葉を聞いて北島の手がとまった。
「兄さんか。二郎、やっぱりおまえ一郎のことを忘れてなかったな。」
北島の突然の言葉に二郎は何がなんだかわからない。
「ははは、悪かったな、脅かしちまって…電気つけるか。」
北島はそう言ってスイッチの場所を捜しだした。電気がついて突然視界が明るくなる。目の前にいる北島はいつものおやっさんだった。二郎にはさっきの北島が信じられない。呆然と北島をみつめる二郎に北島が口をひらいた。
「いや、何ね、今日うちの若い者が銀座でさぶ見たって言うんでね。」
「ああ、コーヒー豆を買いに行ったんだ。それが…?」
話の展開が読めない二郎は北島の言葉を待った。
「ああ、それだけだと特になんてことないんだが、どうやら、さぶのやつ常願寺と一緒だったらしい。」
「常願寺と?なんで?」
二郎は思わず北島に問い返した。
「いや、うちの若い者も一郎と常願寺のことは知らないし、なんだか珍しい組み合わせだと思ってそのまま通り過ぎただけらしい。だけど、なんだか気になってな。おまえに一言忠告しておいてやろうと思って…」
「忠告って、おやっさん…」
「いや、悪い、悪い。なんだか暗闇におまえと二人きりだと思うと、つい悪ふざけがしたくなってね。まあ、さすがの俺もさぶが、すぐ飛んできそうなこんなところじゃ、何もできないさね。じゃあ尾頭付きをもらっていくかな。」

俺は、おやっさんと叔父さんのあいだでそんなことがあったなんてぜんぜん知らなかった。その時、俺は男との電話で頭がいっぱいだったのだ。

「そんなこことはどうでもいいから、俺はどうすればいいんだ?」
俺は、男の挑発にのらないようにできるだけ、落ち着いた声でそう言った。
「つれないな。まあ、いい、で、次の休みはいつ?」
「休み?」
「ああ、いくら魚屋とはいえ休みくらいあるだろう。」
「休みじゃなくても、今日くらいの時間だったらあいてるんだけど…」
「それじゃあ、ダメだよ。ゆっくりできないからね。で、休みはいつ?」
「水曜。」
俺は仕方なく定休日を男に告げていた。
「わかった、じゃあ、水曜日に銀座に出ておいで。」
男は、そう言って、一方的に待ち合わせ場所を決めた。とりかえしのつかないことをしでかしたようで、俺はひどく落ち着かない気分だった。


7(もぐもぐ)



階段を上がる足音が聴こえてきた。
たった今の電話のことを知られたくなくて、俺は急いで畳に寝転がると、なるべく自然に見えるように、今朝買ったばかりの少年ジャンプを広げた。
どうでもいい話だが、俺は『ヒカルの碁』よりも『ピューと吹くジャガー』の方が好きだ。
襖が静かに開けられて、叔父の大きな身体が滑るように部屋に入ってきた。
何となくいつもと違う様子に、俺は少し不安になった。
「サブ」
瞳の色が、暗い。
「あ、ごめん。寝るときはちゃんと布団を敷けってことだよね」
俺が慌てて身を起こすと、叔父は軽く首を振って、ぼそりと言った。
「常願寺に会ったのか」
叔父の口からその名を聞いて、ビクリと身体が震えた。
「ど……して……」
俺が口ごもると、
「それは、俺の台詞だ。どうして、俺に何も言わない」
叔父は普段にないきつい口調で切り替えした。
「そ、れは……」
叔父の秘密を知っていると言う男――そして、叔父から『嫌われている』と自分で言っていた男――のことを、言い出すことなど出来なかった。
けれど、そんなこと、この場でも言えるわけが無い。
俺が黙っていると、叔父は焦れたように詰め寄ってきた。
「何故、何もいえないんだ。お前は、俺に隠し事の出来る子じゃなかっただろう」
叔父の真剣な瞳が突き刺さるように痛い。
「サブ、あいつに、何を言われた?」
叔父の手が俺の肩を掴む。
「な、なにも……」
「だったら、何故隠そうとする」
肩に食い込む指に力が込められて、そこから背中に痺れが走った。
「サブ、言うんだ」
「叔父さん……」
叔父の顔が目の前に迫り、そして肩を強く握られ、不謹慎にも俺は欲情していた。
叔父の秘密を内緒で知ろうとした後ろめたさ、そのことで叔父から責められているような錯覚。
「あっ……」
俺は、知らず上擦った声をあげてしまった。
その瞬間、叔父の手から力が抜けた。
ほんの少し瞳を見開いて、俺の顔をじっと見る。
俺も見返したが、叔父の顔が薄ぼんやりとかすれて見えるのは、俺の目が潤んでいるからかも知れない。
「サブ……」
不意に、叔父に抱きしめられ、俺の心臓は跳ね上がった。
「あいつには、二度と会うな」
叔父の広く逞しい胸に抱かれ茫然とした耳に、苦しげな囁きが聴こえる。
「あいつには……常願寺には……近づかないでくれ」
(叔父さん……)
「約束してくれ、二度とあいつには会わないと」
何故、そこまで叔父が彼を嫌うのか?

――――俺は、二郎には嫌われているからね――――

端正だがどこか嫌みな感じのする常願寺の顔が、脳裏に甦る。
「叔父さん……」
「約束しろ」
思いつめた声に、俺は頷く。胸につけた頬を擦りつけるように。
「会わないよ……約束する」
「サブ」
叔父が腕の力を緩めた。照れたような顔で、俺を見ると、さっと横を向いた。
「すまん。変なことしちまって」
変?
「いきなり、こんなこと……驚いただろ。悪かった」
「叔父さん、俺……」
何を言おうとしているんだ、自分。
でも、抱きしめられたことで、俺の頭は沸騰状態だ。
「俺……」
長年温めていた想いを、思わず口に出しかけた。
なのに―――
「ほんとに、すまなかった。だが、約束だぞ」
いきなり立ち上がって、叔父は部屋を出て行った。
「あっ」
取り残された俺は呆然とし、次には、叔父の胸と腕の感触を思い出して熱くなる身体を持て余した。
そして、叔父と約束しながら、気持ちは固まっていた。
(常願寺に会う。そして、あの二人の間に、一体何があったかも必ず聞いてやる)



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