「梅若、次は何が食べたい?」 「もう、おなか一杯」 「じゃァ最後に栗きんとん。はい、あーんして」 「あーん」 国光の声に合わせて、口を開ける。 国光は親鳥のように栗きんとんを運んでくれて、それから餡の付いた箸の先でちょんと俺のほっぺたをつついた。 「おや、横についてしまったよ」 わざとつけたくせに。 「きれいにしようね」 国光は、俺のほっぺたの餡を唇と舌でなめ取った。 「んッ」 くすぐったい。 「こっちも」 「そっちは付いてないだろぉ」 甘えた声を出して、やんわりと胸を押しやる。 国光は身体を離すと 「さっ、ご飯が終わったら、身体を拭く時間だ」 いそいそと濡れ手ぬぐいを絞って 「ちょっと冷たいからね」 胸の袷から手を滑らせる。 「んっ。つめた……」 「そういっただろ」 水で冷たくなった国光の指が、拭くふりをしながら、色々と悪戯する。 「あン」 胸の尖りを押しつぶされて、甘い声を上げたとき 「何してんだい」 水より冷たい声がした。 「うわっ」 俺は驚いて、国光の背中に隠れる。 「さっきから見ていれば、いちゃいちゃと」 雪太郎が縁側に尻と片足を乗り上げて、こっちを覗いていた。 「みっ、見てたのかよっ」 呆れた視線が痛くて、つい逆切れ。 「黙って入ってくるなんて、不躾だね」 邪魔された国光も、当然剣呑な顔。しかし雪太郎はしゃあしゃあと言った。 「何度も声かけたのに返事がなかったから庭に回ったんだ。こんな大きく襖を開けといて、さあ見てくださいって言ってるようなもんだろ」 「う……だって閉めてると部屋が暗いんだもん」 「私は暗いほうがいいんだけれどね」 国光の言葉に、 「へえ、梅若は明るいところでやるのが好きなのかい」 雪太郎がいやらしく微笑んだ。 「ちがうよっ、別にいやらしいことしてたんじゃない」 「違う? じゃあ、何してたんだい」 「……看病ごっこ」 「はい?」 年末に風邪をひいた俺を看病した国光は、それがけっこう楽しかったらしい。俺も国光に甘えるのは嫌いじゃないから、ついつい乗ってしまったんだけれど、まさか他人(ひと)に見られるなんて。 「まったく呆れた色ボケ組みだよ」 「ほっとけよ」 俺はブツブツ言いながら着物の乱れを整えた。 「で、何しに来たんだ?」 訊ねると 「初詣でも行こうかと思って」 誘いに来たのだと言った。 「俺たちもう行ったもん。元旦に。ね、国光」 「ああ」 「何度でもいいじゃないか」 雪太郎はプウッとふくれた。 「どうする?」 「別にかまわないけれど、今から遠いところはね」 「あ、じゃあ、あの竜閑橋のお稲荷さんは?」 「そりゃ、ずい分手近なとこに」 国光は苦笑して、それから 「そういえば、梅若を助けてもらった後から、あんまりお参りしていなかったね」 はたと思い当たる顔をした。そう、タイムスリップした俺はお稲荷さんの裏の池に倒れていたのを見つけてもらったのだ。 「雪太郎も一緒だし、お稲荷さんにしようか」 「アタシはどこだっていいよ」 雪太郎は、切れ長の目をキツネのように細めた。 お参りを済ませて、帰る途中、せっかくだからと遠回りして町をぶらついた。 「にぎやかだね」 江戸の正月はにぎやかで活気がある。二日の初売りは呼び込みの声が響き渡ってすごかったし、三日の今日も新年の挨拶に歩き回る人たちがひっきりなしのお祭り騒ぎ。この祭りはしばらく続くみたいだ。 商家の続く大通りをすぎて、家に帰る途中、橋を渡ろうとして 「あっ」 俺は、上を見て叫んだ。 色とりどりの凧が、大空に舞っている。 一つ二つじゃない。十も二十も。 「すご……」 「なんだい、初めて見たわけでもあるまいし」 雪太郎が笑う。 (いや、初めてなんですけど) 昔、小学生の頃、お正月に帰った富山の田舎で従兄と凧揚げをしたけれど、こんなにたくさんの凧が飛んでいるところを見たことない。 「見に行く?」 国光に訊かれて、うなずいた。 川べりの空き地では、大勢の子どもが凧を飛ばしていた。全部、四角い凧だ。俺が子供の頃に見た奴凧みたいなのとか三角なのとかはないのかな。 「誰が一番高く上げるか競争しているんだよ」 「へえ」 江戸の空には、遮る物など何も無い。凧の天敵電線も。 澄み渡った冬の空が、子どもたちの凧をどんどん吸い込んでいく。 「気持ちよさそうだな」 「梅若も、やってみたい?」 「あ、いいねェ、やろうよ、梅」 国光の言葉に、雪太郎が相槌を打つ。 「うーん」 と、視線をやった先に、ひとりの男の子を見つけた。五、六歳くらいだろうか。たった一人で凧を握り締めて佇んでいる。俺はなんとなくその子の横顔が気になって近づいた。 「凧、上げないの?」 ビクッと振り仰いだ顔には、やっぱりうっすらと涙のあとがあった。それが気になったんだ。 その子は黙ってうつむいた。持っている凧を見ると、骨が折れていた。 「ああ、落として折っちゃったんだね」 俺はしゃがんで、目線を合わせるとその凧を手に取った。 「うーん。新しい骨が無いと直せないね」 凧は手作りのものらしく、俺が見てもわかるくらい骨の組み方も紙の張り方も上手くない。これじゃあ、飛ばなかっただろう。雪太郎もやって来て、 「これじゃァ駄目だよ、坊。おとっつぁんにお願いして新しいの買ってもらいな」 男の子の頭を撫でた。男の子は下を向いて黙ったまま。 俺は雪太郎の顔を見あげて、首をかしげた。そこに 「その子、おとっつぁん、おらんもん」 女の子の声がした。 「おとっつぁんおらんし、その凧もおっかさんが作ったから、絵も無いし、全然、飛ばんの」 男の子よりちょっとだけ背の高い、おかっぱ頭の可愛い子だ。その子の言葉に、下を向いてた男の子がぎゅっと唇を噛んだ。 「また泣くんか。孝太の泣き虫ぃ」 女の子がからかって、孝太と呼ばれたその子は小さい足で駆け出した。 「あ、待って待って」 俺は思わず追いかけた。 「孝太君、それじゃあ、俺がそれ直してやるよ」 孝太が振り向いた。 俺は、後ろについてきている国光と雪太郎を振り返った。 「ねっ」 「骨はどうする?」 懐手をして、呆れたような笑顔の雪太郎に 「提灯屋の茂さんのところにあるだろう」 国光が応えた。 「紙はうちにあるよね」 俺が言うと、 「嫌ってほどね」 国光が微笑んだ。 孝太を連れてうちに戻る途中で、提灯屋の茂三さんの家に寄って骨をわけてもらった。 「国光先生、今年は凧の絵、描いて下さんなかったんですねぇ」 「すまない。去年の暮れは何かと忙しくてね。全部、断ったんだよ」 提灯屋の茂三さんは、お正月用の凧作りもしているのだそうだ。しかし、 「国光、凧の絵も描いたりしていたんだ」 初耳だ。 「国光先生の大凧は江戸の町でも大人気ですよ。持っているだけで、自慢でサ。うちにもほら」 茂三さんが指す部屋の奥、天井に大きな凧が飾ってあった。力強い武士の絵だ。 「曽我の兄弟だね」 雪太郎が言うと、 「ああ、一昨年の奴だね」 国光が言った。 お屠蘇を飲んでいけという誘いを振りきって、俺たちは茂三さんの家を出た。 俺はいいことを思い付いていた。孝太の凧は『凧』って字が墨で書かれているだけだ。どっちにしろ張り替えたら何か描かないといけない。孝太と手をつないで歩きながら、 「ねえねえ、国光。孝太の凧の絵、描いてやってよ。さっきみたいなの」 「どれだけ時間がかかると思ってる。今日中に孝太を帰してあげられなくなるよ」 「そうしたら、かどわかしになるねぇ」 ククッ…と雪太郎が笑う。 「ちぇっ」 俺が唇を尖らすと、国光は、 「さっきみたいのじゃなければ、すぐに描いてあげるよ」 「ホント?」 「可愛い梅若の頼みだからね」 俺の鼻の頭をつついた。 「やった。よかったな、孝太」 孝太を見ると、孝太はほっぺたを赤くした顔を上げて、小さく笑った。 「梅、不器用だね。アタシがやるよ」 俺が骨をモタモタと組んでいたら、雪太郎がさっと取り上げた。 「それがいい。手先の器用さじゃ、この男にはかなわないよ」 国光の言うとおり、雪太郎は凧糸を使って器用に組み立てていく。 「梅若はこの糊を溶いておいで」 国光に言われて、椀の中の水糊を掻き混ぜる。なんか俺が一番役立たずだ。 「じゃあ、糊を塗って」 雪太郎はあっという間に組みあがった凧の骨を国光に差し出す。 「梅若、それをとっておくれ」 「はい」 するすると骨に糊が塗られて、国光の繊細な指が、紙を丁寧に張る。 よれの一つも無い、きれいな凧が出来上がった。 そこに国光が、黒々と墨を含ませた筆を執る。 「何を描くの?」 「見ておいで」 サッと右腕が動いて、真っ白な背景に墨が散った。 幸太は不思議なものを見るように、俺の身体にしがみついて凧を見つめている。俺も凧から目が離せなかった。 墨のかすれ具合も計算しているかのように、凧の上に描かれていくのは堂々とした昇り龍。尖った爪の片方は珠玉を抱き、もう片方は天をつかむ。大きく牙をむいた力強い龍の絵は、優男の国光の絵とはちょっと思えない迫力のある出来だった。 「さすがだねえ」 雪太郎が感心した声を出す。 「こんな激しい絵も描くんだ」 俺がポツリとつぶやくと、 「おや、そんなの梅が一番知ってんじゃないのかい」 雪太郎は含み笑いで囁いた。 出来上がった凧をもらって、幸太はこっちが嬉しくなるほど喜んだ。 俺たちの作った凧――いや俺がやったのは水糊を溶いただけだけど――を上げるのに、一緒にさっきの川べりに行く。 「いい風だ」 国光が髪をかき上げた。 「よし、孝太、俺が持っているから、走るんだよ」 「うん」 タタタ…と走るのに合わせて、そっと凧から手を離す。風を受けた龍は、ふわりと舞い上がった。 「孝太、少しずつ糸を伸ばせ」 俺は走っていく孝太に叫んだ。ちゃんと雪太郎が一緒に行ってくれて、孝太の凧糸を調整してくれている。 グングンと龍は天に昇っていき、その途中で、国光の絵がみんなの目を惹いた。 「すげえなぁ」 「昇り龍だよ、ありがたや」 見物に来ていたらしい酔客が両手を合わせる。 誰の凧よりも高く上がっていく孝太の凧。 孝太の周りにいつの間にかさっきの女の子が来ている。凧を見上げて何か言ってるけど、二人とも笑っているから心配することじゃない。ひとり、二人、子どもが寄ってきて、孝太はいつの間にか友達の輪の真ん中にいる。 「よかったね」 言うともなしにつぶやくと、 「梅若は、子どもが好きなんだね」 国光が言った。 「何で?」 「さっき、孝太と仲良しだったじゃないか。手もつないで」 「は?」 俺は国光の顔を見た。 「子どもと手をつないだら、子ども好きなのか?」 「梅若が、子どもが欲しいとか言い出したらどうしよう」 「いうか、バカ」 っていうか、それってこの間までの俺の悩みだよ。 「国光こそ……子ども欲しいとか……思ったりするんじゃねえの?」 唇を尖らせて小声で聞くと、 「いらないよ」 即答だった。 「これ以上ヤキモチ焼く相手は増やしたくないよ」 「ヤキモチ?」 思わず聞き返す。 「梅若が孝太と手をつないでいるのを見て、ちょっと妬いたよ」 「ば、バカじゃねえのっ?」 俺は叫んだ。 「五歳の子ども相手に妬くか、普通」 「私は、梅若のことだったら、生まれたばかりの赤ん坊にだって妬いてしまうよ」 国光は笑いながら、俺の腰に腕をまわした。 「だから、赤ん坊なんていらない。二人っきりでずっと一緒にいようね」 耳元でささやかれて、わかった。 多分、俺が美幸さんに言われて悩んだこと、雪太郎に聞いたんだな。 「国光……」 「梅若」 唇を受け止めようとしたら、 「こらあ、こんなに子どもが大勢いる中で、何をしようってんだい」 雪太郎にど突かれた。 「この色ボケ組み」 雪太郎のこれは「バカップル」のお江戸言葉版としてこれからも使われそうだ。 |
HOME |
小説TOP |