東京競馬場、新スタンドオープン記念。


 あまり変わっていないように思えた東門から入って、パドックに向かって真っ直ぐ歩くと、さすがにスタンドのあたりは大きく様変わりしていた。
 一年半ぶりになるのだろうか、東京競馬場に来るのは。
「ずいぶんきれいになったよ」と、駿から聞いてはいたけれど、訳あって競馬場には近づかないようにしていた。

 実は、去年の一月、写真週刊誌に駿と俺とのことが載りそうになった。山本さんや天城さんのおかげで事前に知ることができ、最後はJRAがかなりの圧力をかけて、その記事は握りつぶすことができた。けれどもそれだけで終わるはずも無く、今度はJRAが駿と俺を引き離そうと色々な脅しをかけてきた。まあ、当たり前だ。今や駿は佐井と並んで競馬界の顔だから、スキャンダルは御法度。男女のスキャンダルでも相当なイメージダウンなのに、まして同性愛なんて――お偉いさん方が必死になったのも、よくわかる。と、今だからそう言えるけれども、正直、当時はキツかった。駿のご両親にも心痛をかけてしまった。
「こんなことなら、写真週刊誌にすっぱ抜かれて公表されたほうがましだった」
 あの駿が腹立たしげに拳を壁に打ち付ける様子に、俺は本気で、別れるべきかどうか迷った。誤解しないでほしい。別れてもいいなどとこれっぽっちも思ったりはしない。ただ、俺とのことが駿の将来に影を落とすなら、駿の騎手としての栄光を踏みにじるというのなら、死んだつもりで別れるべきなのかと迷ったのだ。
 それも結局、駿が「それなら日本で騎乗できなくてもいい」と、さっさとアメリカ行きを決めてしまったために、慌てたJRAが折れる形になった。慌てたのは俺も同じだったが、後になって駿に尋ねてみたら、
「JRAが僕を引き止めるのは、なんとなくわかってた」
 と、確信犯的なことを言って、俺を二度驚かせてくれた。
「お前、勝ち鞍重ねるたびに、ふてぶてしくなってるな」
 呆れて笑ったら、
「それで嫌いになる?」
 僕のこと……と、急に子供の顔になる。
「まさか。―― それに、世界一のジョッキーになるにはそれくらい必要だろ」
「ふふっ」
 俺の返事に照れたように笑った駿は、去年そんなことがあったにもかかわらず年間二百勝をあげ、間違いなく世界一への道を歩き出している。

「こっちこっち」
「写真撮ってよ」
「うん。ケータイだけどね」
 駿の名前のついた揃いのブルゾンを羽織った女の子たちが集団で、俺の脇をすり抜け、パドックに走っていった。公式ではないけれどファンクラブもいくつかあるらしい。JRAが駿を離さなかったのは正解だ。

 ちなみに、あの話には後日談がある。写真週刊誌の記事は握りつぶしたものの、ターフのアイドル橘駿に男の恋人がいるという噂は芸能界の裏に通じた輩の間でまことしやかに囁かれ、あろうことか、その相手が同じくターフのプリンス佐井猛流だと言うことになってしまった。それを耳にした佐井が面白がって否定しなかったものだから話はこんがらがり、その上、関西の光岡とかいう騎手が「ほんまの相手は俺やで」とか夕刊紙で激白した――もちろん冗談だ。しかし、関西の人間は冗談のために人生かけられるのか――ものだから、ますますややこしくなり、三人そろってJRAからきついお叱りを受けた。それについて駿は不服そうだったが、もともとの原因が自分にあるため仕方なく怒られていた。 しかし、騎乗停止にならなくて良かった。そうしたら、昨年のリーディング順位は大きく変わっていたことだろう。
 そんなこんなで当初深刻だった話も最後はドタバタに終わって、俺もしばらく人目のある所を避けていたのだけれど、そろそろいいかと出て来たわけだ。
 そしてもう一つ――
「藤木」
「福永」
 今日、ここに来たのはこの友人に会うため。待ち合わせしたパドック前で、福永は携帯を握ったままの片手を振った。
「久しぶり! 変わってないなあ、藤木。いや、焼けてるな? 何処か行ったのか」
「まさか。四月にそんな暇ないよ。これは部活焼け。高校生に混じってね」
「ああ、陸上部な。いいなあ、健康的で」
 福永こそ、卒業して三年経つけれど全然変わってない。相変わらずの、人のよさそうな笑顔。
「俺なんか、ここんとこめったに太陽の下に出ないから。ほら、わざわざ駅近のマンション借りただろ? そしたらうちの会社も駅から地下でつながってっから、気がついたらほとんど日にあたらないわけよ。こんな色白になっちゃって、誘導馬にでもなるしかないって」
 ポンポン飛び出す軽口。
「土日も会社に泊り込んでるってな。亜矢子に聞いた」
 福永の家に電話したら、ごく自然に、亜矢子が出た。福永が新居を借りてから、もう一緒に暮らしているらしい。
「まあね、先週までむちゃ忙しかったんだよ」
「大変だな。式の準備もあるんだろ」
 福永と亜矢子は、六月に結婚する。
「そっちは亜矢子に任せてるから。俺は何もしてないよ」
「そういうもんなのか」
「そういうもん。招待状送るからな。出ろよ」
 照れ隠しなのだろう、ぶっきらぼうな口ぶりで、福永が唇を尖らせる。
「当たり前だろ」
「ウマ研の奴らも呼ぶからさ……ヤスさんとか」
「……懐かしいな」
 あの人にも、ずいぶん世話になった。

 急に周りが騒がしくなったのは、次のレースに出走する馬が出てきたからだ。
「パドック見やすくなったよなあ」
 福永が振り返って、しみじみ呟く。
「こんなに近くで見られるなんて――あの頃からこうだったら、もうちっと勝ててたな」
「ない、ない」
 二人して笑いながら、ゆっくりと手すりの近くまで近づいた。
 新スタンドオープン記念、ダート 2100メートルのハンデ戦。
「橘駿のサイレントノワールは三番人気か」
 慣れた手つきで新聞を小さく広げた福永が、巨大な電光掲示板を見上げて呟く。パドックに目を戻し、ポケットから赤ペンを取り出した。
「ヤネのおかげで人気出てるけど、馬の状態は今ひとつだな」
「そうかな」
 目の前を、駿が乗る予定の黒い馬が通り過ぎていく。お祖父さんの牧場の馬じゃない。駿のお父さんの橘昇厩舎は、勝ち鞍を重ねて大人気で、預かってほしいという馬がたくさん集まっている。このサイレントノワールもその一頭だ。
「堂々としてかっこいいじゃないか、黒光りしているぞ」
「いや、あれは汗だ。イレ込んでんだよ」
 そうなのか。
 俺は、駿と付き合っていながら、いつまでたってもそういうのはさっぱりわからない。
「だいたい太り過ぎだ。見てみろプラス15キロだぞ」
「マイナス18キロよりはいいだろう」
 掲示板を見ると、プラス21キロとか、マイナス18キロとかかなり馬体重には変動がある。今、目の前を歩いているのは、マイナス10キロのタイキアルファだ。ヒョコヒョコした軽そうな足取りが、なんとなくかわいらしい。
「タイキアルファはマイナス10キロでもいいんだよ」
 同じ馬を見つめて、福永が真剣な顔で言う。
「元に戻しただけだからな」
 赤ペンでなにやら書き込んでいる。
「へえ」
 それ以上は何も言わずに、福永が馬券の検討をするのを待つことにした。福永も競馬場に来るのは久しぶりだと言っていたから。学生の日のように、楽しませてやりたい。
 そう言えば、福永が駿と初めて会ったのは、ここだった。ダービーの日だ。サクシードが怪我をして、出られなかった日本ダービー。
 ふと、目の前を通り過ぎた黒い馬が、エアサクシードに重なって見えた。
「止まれ」という合図とともに馬が停止すると、バラバラと騎手が駆けて来る。駿の姿は真っ先に目に飛び込んできた。

「あっ、ほら、橘駿」
「きゃー、手ぇ振っちゃおうかな」
「よしなよ、レース前なんだから」
「携帯なら写真撮っていいよね」
「フラッシュはダメだってば」
「あっ、こっち見たっ」
「しゅーんっ」

 少し離れたところからも、そのはしゃいだ声は聞こえてきて、
「人気あるよな」
 福永は、俺を見て苦笑した。
 俺は、黙って頷いて、サイレントノワールの背にまたがる駿を見た。 青毛の真っ黒な馬体に、サクシードを思い出す。

 エアサクシード――駿の、たった一頭の馬。最初で最後の馬。
 今日も、駿は、サクシードの思いを乗せて走るのだ。

 じっと見つめていると、駿と目が合った。
(まずい)
 こんなに前に来ていては目立ってしまう。手綱を握っている厩務員の小川さんも気がついてこっちを見た。馬との距離が近すぎるというのも考えものだ。そっと離れようとしたとき、駿が右手を上げるのが目の端に映った。
「きゃぁっ」
 女の子たちが歓声を上げて、すぐに注意を受けた。焦って駿を見たら、知らん顔で帽子を直すふりなどしている。
「まいったなあ」
 パドックを離れながら、福永が新聞を丸めて、思案顔になる。
「サイレントノワールは切るつもりだったのに。橘駿にガッツポーズなんかされたら、切れないじゃないか」
「やっぱり、あれ、そうだったのか?」
 見間違いじゃなかった。
「お前に見せたに決まってる」
「……」
「まあ、見たのは他にもいただろうけどな。ほら、二番人気まであがったぞ」
 肩越しに電光掲示板の動きを見る。
「……」
「しかたない。橘駿に賭けるか」
 渋々という口ぶりとは裏腹に福永は、新しくなった券売機に、半分スキップしながら行った。

(まったく……)
 またお父さんの昇さんに怒られるだろうに、駿の奴。ばかな真似して――と、内心で文句を言いながら、やはり俺の口元も緩んでしまっていた。







2005年4月23日




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