闇の中二つの裸体が動いている。 長身の方の白い身体には静謐な能面のような顔。美形である。が、見るものによっては寒気を覚える、冬の月のような冷たい美しさだ。 尾張藩主中納言徳川宗春、その人である。 徳川家康の子を祖とする尾張、紀伊、水戸の三藩は「御三家」と呼ばれ、将軍家に世継ぎのいない場合その中から後継者を選ぶ。 宗春は、ときの八代将軍徳川吉宗と将軍位を争い敗れた尾張中納言継友の弟にあたる。継友亡き後、尾張六十二万石の藩主となった。 「あ、む、宗春様。もう……」 「まだじゃ、焔。二ヶ月ぶりなのだから、もそっと楽しませてくれねばのう。ふ、ふふふ」 宗春の胸の下に組み敷かれ眉根を寄せた、焔(ほむら)と呼ばれたその男。尾張徳川家に仕える忍びである。 宗春よりほんの少し小柄で色は浅黒い。しかしながら整った目鼻立ちはくの一といっても通用するだろう。事実、たびたび女を装い忍び働きをしている。 この二ヶ月、焔は宗春の密命により江戸に潜入していた。ようやく報告が出来るまでになって城に戻ってきたその夜のことである。 「わ、わたくしとて、宗春様の命でなければ、二ヶ月もおそばを離れたりなど……あっ」 「ふふ、その話はあとできこう。……それより」 宗春の指と舌がが執拗に焔の敏感なところを弄る。 「ああっ」 「相変わらす゛いい声じゃ。もっと聞かせてくれ」 「むね、はる、さ、ま……」 忍びとして完璧に鍛えられていたはずの身体も動けなくなるほど苛まれ、気を失う寸前にそうやく焔は解放された。 「かわいいの。やはりお前の身体が一番じゃ」 主君に優しくささやかれて、焔は歓喜と羞恥に身を震わせた。 「さて、仕事の報告を聞こう。半刻後に茶室に参れ」 「は、はい」 主の趣味の色濃く現れた茶室は、質素を重んじた時代にあって驚くほどの絢爛さであった。 宗春という人物、兄継友が亡くなった後を継いで尾張藩主となったのだが、その兄と争い将軍となった吉宗の、家康の時代を範とする「質素倹約」「武芸奨励」といったことごとくを嫌っており、今ではあからさまに反発するように華美な生活をおくっている。 「それで?」 「はい。吉宗公はしばしば江戸城から姿を隠してゆくえがわからなくなっておりましたが 突き止めましたるところ、身分を隠して市井の生活を覗いていらっしゃるご様子にて……」 「なんと?」 宗春の切れ長の目が見開かれた。 「天下の将軍家ともあろうものが、身分を偽って町中にでていると?」 持っていた扇で口元を隠し、堪えきれない風に笑う。 「ふ、ふはは……面白い!もともと紀州の山猿じゃ。江戸城の中は窮屈であろう。が、それにしても面白い……面白いぞ。ふ、くく、くっくっくっ」 ぱちん と、音を立てて扇を閉じると、その先で細長い小箱を指し示した。 「それを使え。計画は予定通りじゃ」 「はっ」 箱を懐にしまうと次の瞬間、焔の姿は闇に解けていた。 焔が消えた後も宗春はしばらく宙を見つめ、含み笑いを続けていた。 「面白い……おもしろいのう……吉宗」 火事と喧嘩は江戸の花。その両方にめっぽう腕が利くと評判の『町火消しのめ組のお頭辰五郎』といえば、江戸でもちょっとした顔であった。 そのめ組の辰五郎が渋い顔で若い衆を引きつれ、家に帰ってきた。 「おかえりお前さん。どうだったんだい?」 め組の女将おさいの甲高い声が迎える。 「いやあ、どうしたもこうしたもおかみさん。ありゃ、ひでえ」 「犯人の野郎もたいした凄腕ですぜ」 辰五郎の言葉を待たず興奮した若い衆が口々に話し出す。 「真正面から袈裟懸けにばっさりだ。ありゃただの物盗りじゃ、なさそうだ」 「いやだねぇ。物騒な。こんなに人殺しが続いていちゃ、おちおち外にも出かけられやしないじゃないか」 おさいが丸い顔を大げさに顰めて口を尖らす。 と、そこにふらりと入ってきたのは貧乏旗本の部屋詰め三男坊という若侍。 その実は天下の八代将軍徳川吉宗とは、め組の頭辰五郎しか知らぬこと。 「おいおい、どうした。何の騒ぎだ?」 「あら、新さんいらっしゃい」 吉宗、市井での名は徳田新之助という。 「いえね、実は今うちの人が伊勢屋さんの旦那の死体検めに行ってきてねぇ。」 「死体?何があったんだ、頭」 「それが……」 辰五郎の語るにはこうである。 この十日間ほどで三件の殺しがあったが、そのいずれも辰五郎のよく知っている大店の主人であった。中には辰五郎がまだ無鉄砲だった若い時分からの知り合いもいて、付き合いの長さははそれぞれであったが、いずれも鳶職時代からの贔屓にしてもらっている。その三人が奇妙な殺され方をしているとのことで、共通した知り合いとしてちょいと検めて欲しいと、町の親分から頼まれ、たった今殺された三人目の伊勢屋の主人の死体を見てきたところである。 「奇妙?」 「いや、殺され方自体は別に奇妙でもなんでもないんですよ。ただね」 「ただ、なんだ?」 「その死体の三つとも、口の中に紙が丸めて突っ込んであったそうで。どうも、何かの本かなんかの写しじゃねえかと。で、なんかの覚えはねぇかと見せられたんだが、あっしにはさっぱり……」 知り合いの無残な死体と、その口から出てきた怪しい紙片を思い出し、辰五郎の顔は再び渋くなった。 「ほう。たしかに、妙な話だな」 新さんこと吉宗は、涼しげな眉をそっとひそめてつぶやいた。 江戸城奥の庭。 松の緑がまぶしい。砂で作られた山も川もよく手が入っていて、静かに美しい。 さすがにここまでは将軍の許可無く入ってこれるものはいない。 今、吉宗は大岡越前守忠相と二人ゆっくりと肩を並べて歩いていた。 吉宗は、この庭を忠相と歩くのが好きだった。 吉宗が紀州藩主時代からの付き合いの、真面目で優しいこの男を家臣というよりも年上の友人のように尊敬し、頼りにもしていた。 吉宗が身分を隠して市井に混じっているということをを初めて聞いたときも、越前守忠相はその厳しく整った顔を少しだけ顰めて見せたが、頭から反対はしなかった。 『上様。どうぞ上様のお心のままに。なれど、どうか、危ないまねだけはなさらないで下さい。この忠相の目の届かぬところで上様が危険な目にあっているなどと、考えただけで、私は仕事になりません』 『天下に聞こえる名奉行、大岡越前守の仕事の邪魔をするわけには行くまい。心配するな』 つい冗談めかしてかわしたが、その時の忠相の真剣な顔を思い出すたび胸の奥がちりちりと疼く。 その気持ちが何なのか、吉宗にはわからない。 実際、あれから町中では何度か危ない目にあっているのだが、その罪悪感なのかもしれない。 いずれにせよ吉宗にとって、本来の自分を隠してすごす市井の日々も、何もかもわかってくれている忠相と過ごす江戸城でのこの時間も、かけがえの無い大切なものだった。 「忠相。変死がおきているそうだな」 「さすが上様。お耳が早い」 越前守忠相は、伏し目がちの目元を緩めて薄く笑った。 が、すぐに表情を改めて、真面目な顔で吉宗を見つめ言った。 「そのことでお耳に入れたいことがあります」 「ご禁制の書?」 「はい。内々に学者に調べさせましたところ、外国の兵法書を訳したものではないかと」 三大将軍徳川家光が鎖国をしいて以来、外国との貿易は清国とオランダ以外は許されず、その二国にしても長崎の出島でのみ徳川幕府の厳しい監視下のもと交易を行っている。 しかしながら、禁ずれば潜行するだけで、監視の目を逃れての密貿易は廃ることがない。 幕府も躍起になって取り締まっているが、吉宗にとっても頭痛の種といえた。 「しかし、なぜそのようなものを死体の口に……」 「さて。何かの判じ物でしょうか。殺されたのはいずれも大店の主です。今、その者たちと密貿易の関係を探らせているところです」 「そうか。よし、わたしも少しあたってみよう」 うなずく吉宗に、はっとして顔を上げた忠相は 「いけません。上様。ご禁制の品が絡んでいるとなれば、相手は相当に危険な者どもです。私共も慎重に探っておりまするゆえ、どうぞ上様は今回の件にはお関わり合い無きよう」 若い主君を厳しい表情でたしなめた。 「わかった。わかった。お前に心配はかけたくない。危ないまねはしないぞ。はは、ははははは」 しかられても何だかうれしい。吉宗の笑い顔は少年のように無邪気だった。 ちょっとした異変はその三日後に起こった。 その夜、吉宗はめ組の家で馳走になっていた。 辰五郎を相手にちびちびと酒を飲んでいたところに、め組の居候で、若い衆には兄貴分の龍虎が帰ってきた。 元相撲取りというこの大男。黙って立った姿は強面の無頼漢だが、口をひらくとお調子者のおっちょこちょい。吉宗にしてとっても 「にくめぬ奴」 である。 その龍虎があたまの後ろをかきながら首をかしげて部屋に入ってきた。 「どうした。何かあったのか?」 「やあ、新さんいらっしゃい。いや、今そこで妙なことになってね」 と、話し始める。 「そこの、角の飯屋の脇の道で女が探し物をしていましてね。困った様子だったんで声をかけたら」 「兄貴、また美人だと思って鼻の下伸ばしてたんじゃねぇの」 つまみを持って通りかかった弟分の鉄が茶々を入れる。 「うるせえ。おめぇはひっこんでろ」 叱り飛ばして、先を続ける。 「でね、大事なものをなくしたっていうんだが、それが何だかは教えちゃくれねぇ。とにかく大事なもんだってんで、半刻ばかり一緒に探したんだが、とうとう見つからず仕舞い。気を落とすなよと別れたところで、こいつを拾っちまったんでさぁ」 見れば、金糸の刺繍のついた立派な守り袋。 「あれだけ探したときには見つからなかったのにねぇ」 と、ぶつぶついう龍虎からそれを受け取った辰五郎は、さほど躊躇せず中を開いた。 「これは!!」 守り袋から出てきたそれは、辰五郎も吉宗もよく知っているものであった。 ただし、辰五郎は殺された知り合いの口の中からでてきた紙切れとして。 吉宗は、越前守忠相から教えられたご禁制の書の写しの一部として。 「おい、龍虎。おめえ、その女がどこの誰だって訊いたのか」 血相変えた辰五郎がきくのに、どう意味を取り違えたか、 「いえ、それが、聞いてないんで届けてやることも出来ずに困ってるんでさぁ」 と、龍虎相変わらずのお人よし。 吉宗はその紙と守り袋を見つめながら静かに聞いた。 「どうだ。もう一度会ったら、それとわかるか?」 「そりゃあ、夜目にもわかる美人でしたからねぇ」 でへへと締まり無く笑ったが、二人の真剣な顔に姿勢を改めて 「わかりますよ」と、胸をはった。 「そうか。それじゃ、ご苦労だが、明日からその女を捜してくれないか。だが、無理はするな。どこにいるのかさえ分かればいい。くれぐれも、深入りはしないでくれ」 新さんこと吉宗にそういわれると、かえって張り切る龍虎だった。 「まかせてくだせぇよ。二、三日中にはきっと見つけてきまさぁ」 次の日から龍虎は『らしくも無く』食べる時間すら惜しんで、女を捜した。 二日、三日、そして四日。 何の手がかりも無いまま日が過ぎていく。 女の顔も記憶が薄れてきそうなころ。 「ええい。こうなったら神頼みだ。天神さまでもお参りしていくか」 と、立ち寄った湯島天神社の境内に、その女はいた。 「こりゃほんとに天神さまのお引き合わせだぜ」 女は龍虎に気づかずに女坂を下っていく。そのまま振り向きもせず、まっすぐに南のほうに歩いていった。 龍虎は大きな身体を折り曲げながら、付かず離れず後をついていく。 途中女はかごを拾った。 尾行をする身としては、僥倖だ。 かなり近づいても、かごの中からは後ろを見ることが出来ない。 そうこうするうち、女は一軒の家に入った。 見渡すとこのあたりは、商家や武家の寮、いわゆる別宅が多い。 その女の入ったのもそうした一つで、あまり使われていなさそうな感じがした。 その夜。龍虎と吉宗は二人でその家の前に来た。 「ここですぜ」 「そうか。ありがとう。よく調べてくれたな」 「これから、どうするんで?」 「さて……」 お庭番の助八につなぎを付けてさぐらせるのが一番かと考えながら、声をひそめて話しているところに闇を裂く女の悲鳴が響いた。 「きゃあああああああっ。助けてぇぇ。助けてください」 その声に弾かれた様に、二人は地を蹴って駆け出した。 吉宗が家の中に跳び込んだのと、中から女が飛び出してきたのが同時。 その後ろには浪人風の無頼漢が三人。 後ろ手に女をかばうと、吉宗は腰の刀に手をかけた。 ずいっと左足をひき、まさに抜こうと身構えたそのとき、 女が懐から二寸ほどの針を取りだし、後ろから吉宗の首筋に突き刺した。 「な……なに……」 振り向いたが、貧血でも起こしたように目の前が暗くなっていく。 がっくりとひざをついた吉宗を、女がその細腕で軽々と抱き上げた。 「船を」 その声はもう女のものではない。 浪人風の男たちもさっと着物を脱ぐと、夜目に溶け込む忍び装束になっていた。 龍虎は、とうの昔に気絶させられ、庭に転がっている。 ここは、どこだ。 闇の中、目がさめた。 まだ、あたまの後ろに鈍い痛みが残っている。 身を起こそうとして、吉宗は自分の両手両足が鎖で縛されている事に気づいた。 忍びが使う鎖鎌ほどの細い鎖だが、しっかりとつながれた先は床に埋まっている。 「気がつかれましたか」 誰もいないと思っていた部屋の隅から、人の影が浮かび上がる。 「お前は!」 あの家から飛び出してきた女。いや、今は女の姿ではなく、忍び装束でもない。ごく普通の武家姿だが、まっすぐおろした黒い髪がお小姓風でもある。尾州お庭番の焔であった。 「お前、お前が……そうか。全部、仕組まれていたのだ、な」 勃然とした直後にすぐに思い出したのは龍虎のこと。 「龍虎は。あの一緒にいた男はどうした!」 「ご安心を。殺しちゃいませんよ。大事な証人ですからね..あなた様が、密貿易の組織の異変に巻き込まれて死んだという」 「なんだと?!お前は何者だ。ここはどこだ」 「さあ。ね」 ふふふ、と笑うと、焔はくるりと踵を返した。 「あなたが目覚めたことをお屋形様に知らせに行かねばなりません」 「待て!」 思わず大声を出す吉宗を、焔はちらりと振り返り 「すぐ、もどりますよ」 と、言って、消えた。 どれくらい時がたったのか。真っ暗な闇の中に静かな足音が聴こえる。 手燭をかざした焔の後ろから、長身の鬼が入ってきた。 いや、正確に言えば、鬼の面をつけた男だ。顔の半分、鼻から上を隠し、白い長髪までついている。 見えるのは、よく通った鼻筋と、形のよい唇のみ。 尾張藩主宗春の戯の姿であるが、もちろん吉宗にわかるはずもない。 「だれだ」 応えぬと分っていても、誰何せぬわけには行かない。 「この私を、どうしようというのだ」 「……そう……どうしようかのう。吉宗」 鬼面がそう囁いたとき、吉宗は青ざめた。 この者たちは、自分が将軍吉宗であるということを知っている。 鬼面の男、宗春はゆっくりと近づくと、吉宗のあごに手をかけた。 振り払おうとした瞬間、両手と両足が引っ張られ身体ごと床にたたきつけられた。 鎖が床に巻き取られ短くなっている。 焔が壁の機械を操作しているところを見ると、そこから床下に仕掛けがつながっているらしい。 「や、やめろ」 宗春は、身動きの取れなくなった吉宗のあごに右手をかけ、親指で唇を弄りながら薄く笑った。 「そう。どうしようか」 鬼は歌うように囁いて、ゆっくりとその右手を下ろし、着物をはだける。暗い部屋の中で吉宗の意外に白い胸が浮かび上がった。 「山猿じゃとおもうていたが、きれいな身体じゃ。ふふふふ…….楽しみな」。 首筋から臍下まで人差し指をゆっくり這わせ、また上に向かって擦り上げる。 肌の感触を味わうように、また、反応を楽しむように何度も何度も。 「うっ」 見知らぬ男からこのようなまねをされているという嫌悪感に、吉宗の肌は粟立った。 「やめろ。やめないか」 不自由な身体を左右に揺すり叫ぶ。 「私を私と知ってのことか。こんなことをして許されると思っているのか。」 大声で抗う吉宗に、宗春は鬼面の奥の目を細め、その指を胸の突起に移した。 きれいに手入れされたつめの先で赤い突起を軽く弾く、擦る、と、それは堅く小さくこわばった。 「っ…やめろっ、やめて……くれ。」 さっきよりは哀願口調になった吉宗をみて宗春は 「指はお嫌いらしい」 と、おかしそうに、指のかわりに舌先を近づけた。 しっとりと唇が吉宗の乳首を吸い上げる。舌先でねっとりと擦り上げ、軽く歯を当ててみた。 「うう…」 刺激に吉宗の身体が、びくんと大きくはねた。 横目でその反応を楽しんだ宗春は、空いた右手で吉宗の裾を割った。 そろそろと手を這わせやんわりと握る。 嫌悪感よりも恥辱よりも、与えられる快感が勝る証拠には、吉宗のそれは宗春の手の中でしだいに形を変えていく。 「ん…あっ、ああ……」 自分のものとは思えない甘えた声に、吉宗は焦った。 (自分は八代将軍吉宗だ。それがこんな……) 吉宗はきつく目を閉じると、首を振り、唇を噛み締めた。閉じた目じりから細く涙が糸を引いて床に落ちる。 それから、宗春の執拗な愛撫は続いたが、手淫で果ててしまったときまでも、吉宗は声を出さなかった。 「なかなか。我慢強いのぅ」 鬼面の瞳はその様子を面白そうに眺めている。 吉宗はゆっくり目をあけた。ぼんやりとした視界のなかで鬼の顔が近づいてくる。 「血が、出ているぞ」 そういって、鬼面の宗春は吉宗の唇をぺろりと舐めた。 「なっ」 「さすが将軍様の血は美味じゃ。ふふふ」 笑いながら出て行く宗春の後ろをしずかに焔が追う。 後に残された吉宗は、ぐったりと床に身を横たえ、いつのまにか鎖が延びてやや身体が自由になっていることにも気づかなかった。 翌日、またその次の日も、鬼面の宗春は現れ、吉宗の身体を弄んで行った。 将軍吉宗にとって生まれて初めて味わう、悪夢のような日が一日二日と過ぎていく。 そのころ吉宗が消えた江戸では、大岡越前守忠相が鬼神の様な形相で懸命の捜索を続けていた。 しかし、将軍不在などということが知られれば天下が乱れることは必至。表向きは将軍様ご病気と偽り、籔田助八をはじめとしたごく少数の吉宗直属のお庭番が捜索にあたったが、未だはかばかしい情報は集まってこない。 町方では、徳田新之助という侍の捜索が大々的に行われていたが、こちらは初めから捜査は混乱させられている。 翌日気がついて番屋にかけこんだ龍虎の証言で、「怪しい浪人者三人と襲われていた女」を手がかりとし、江戸中で聞き込みがおこなわれているが、もとより知るものはなく、大勢の働きのわりに役に立ちそうな情報は皆無だった。 「宗春様」 思いつめた焔の呼びかけに 「ここではそう呼ぶなと言ったであろう?」 宗春は含み笑いで応える。 宗春は着替えの最中であった。他に家臣はいないのか、ここでは焔が宗春の身の回りの世話を一通り行っている。 「では、お屋形様。吉宗公のこと、いつまでああなさっているおつもりでしょうか」 主従の関係にあっては言えないでしゃばったことも、つい口をつくほど焔は苛立っていた。 「初めの計画では、将軍をさらって少しいたぶった後は、ひそかに殺すはずでした」 それが、なにゆえ、宗春様は毎日のように吉宗を嬲って楽しんでいるのかといいたいのだ。 「計画は変わってはおらぬ」 「では」 「急くな。焔。私は退屈だったのだ。もう少し楽しませてくれてもよかろう?」 羽織を着せてもらいながらちらりと見やる流し目は、意地の悪い光もたたえている。 臣下としてはこれ以上何も言えず押し黙った焔に 「妬いているのか。ふふふ。あまり見せつけすぎたようじゃ」 と口づける。 「宗春さま。わたくしは……」 「……久しぶりにそなたを鳴かせてみたくなった。参れ」 「宗春様……」 「嫉妬に震えるお前も可愛い」 その日、焔は、宗春と身体をつなげながらも、心はひどく遠くにあると感じた。 今は昼なのか夜なのか。吉宗は床に横たわったまま。ぼんやり考えた。 時間の感覚も何も無い中で、鬼の面が現れることだけが自分がまだ生きているということを確認するような日々であった。 皆心配しているだろうと、初めのうちはいろいろ思いやって泣けてもきたが、今ではそれも億劫となっている。 何の音もしない。自分の耳はまだ聞こえているのか? 試してみたくなり左手を床にぶつけてみた。 じゃらん―― 鎖がぶつかる乾いた音がした。 「忠相」 ふと、思い出し名前を呼んでみた。 危ないまねをせぬように、口すっぱく言われていた。 「すまぬ。約束を破ってしまった」 「なんの約束じゃ?」 と、そこに鬼面が現れた。 手に香炉のようなものを持っている。 とたんに甘い香が部屋に広がり、吉宗の鼻孔を刺激した。また、身動きが取れなくなる。 鬼は、香炉を吉宗の顔の横に置くと、 「南蛮渡りの貴重な香じゃ。ゆっくり味わうとよい」 と言い残して出ていった。 しばらくして、まだ妖しい香が残る中、鬼面の宗春と焔がもどってきた。 吉宗は眠ったように横たわっている。 よく見ると、額や首筋が汗ばんでいる。頬が上気し、少し呼吸が荒い。 宗春に頬をたたかれ、うっすらと目をあけた。 「どうじゃ」 「?」 吉宗は頭の芯がぼうっとして、何も考えられなくなっている。 宗春は、 「くくく……」 と、笑って、いつもの様に吉宗の着物をはだけはじめた。 「あ、」 着物を脱がす指が肌に触れただけでびくっと吉宗の身体が痙攣する。 「催淫香が効いているようじゃの」 「あ、ふ、ううっ」 薬で自制の聞かなくなった身体は、宗春の与える刺激にいちいち敏感に反応する。 あれだけ嫌がっていた甘えた声も抑えられない。喉を大きくそらしあえぐ。 吉宗の瞳は涙にぬれて見開かれていたが、何も見えていなかった。 宗春の長い指が乳首から下におりていき、いきり立って既に透明な雫を垂らしているそれを強く握った。 「ああっ」 強い刺激に身を震わせると、雫はますます流れでて宗春の指を濡らす。そのねっとりとした液体を潤滑油がわりに、感じやすいくびれに沿って擦りあげる。 「ああああぁぁ」 大きくのけぞり、びくっびくっと息づくそれは、今しも爆発しそうだ。が、宗春は根元をきつく握り、解放を許さない。 「んっ……ふ、ああ。はぁっ」 切なげに息をする吉宗の表情は今までに無い艶めかしさで、それを見る宗春の欲望も、身体の中心で我慢できないほどに高まっていた。 両足を曲げさせて、横に広く押し広げる。そそりたった吉宗自身の奥に菊座がひくついている。 今までも無理やり押し込まれているが、今日の吉宗は自分からそこへの刺激を求めるように腰を揺すった。 「好い子じゃ。今入れてやろう」 宗春は自分もそこで裾を割り、下履きを脱いだ。 吉宗は自分が自分でなくなっているのを感じていた。 香をかいだ後、体中の感覚がひどく鋭敏になったのと裏腹に、思考する力が無くなった。目も見えない。 真っ暗な闇の中で、快感に翻弄されている。 その闇の中に、一人の顔が浮かんだ。厳しくそして優しい端正な顔。 「た、だす、け……」 大岡忠相。いつも吉宗を支え守ってくれた兄のような男。 次の瞬間、吉宗は忠相に抱かれていた。 忠相の、武人としては繊細な、それでいて一本一本が力強い指が身体を弄る。 忠相の、温かな唇が自分のそれに重なる。舌が滑り込み吉宗の舌を絡めとり、激しく口腔を犯す。息が熱い。 そして、待ち望んだ忠相の屹立したものが、自分の中心を貫く。 「ああっ、た、忠相……忠相」 宗春は、はっと身を起こした。 「忠相。越前守のことか?」 催淫薬が効いていつになく乱れた吉宗を楽しんでいたが、自分以外の男の名前を聞かされ血の気がひく。今、この吉宗を嬲っているのはこの私ではなかったのか? 屈辱に身体がふるえ、怒りで目もくらむ。 仮面の下の瞳も鬼と化し、両手を吉宗の喉に巻きつける。 「う、ぐっ」 首を締め付けられ苦しげに眉を寄せる吉宗は、それすらも快感なのか下半身は猛ったまま。 宗春も喘ぎながら、ぎりぎりと力をこめていく。 「許せぬ。許せぬぞ。吉宗」 「宗春様。おやめください!」 焔の悲痛な叫び声に宗春は我に返った。 「あ、いえ、お屋形様。も、申し訳御座いません」 まるで自分が首を締められたかのように焔は青ざめていた。 「なれど、そのままでは殺してしまいます。死なせるのは、かまいませぬが、お、お屋形様が殺してはなりませぬ」 殺すのなら、どうぞ私にお命じくださいと訴える視線をそらし、宗春が言った言葉は 「手当てしておけ」 ゆらりと部屋を出て行った。 後に残された焔は、うつむき唇をかみしめた。 吉宗は泣いていた。 少しずつ戻る意識の中で、自分のみた幻覚を思い出して泣いていた。 尊敬する男を汚してしまった。 自分が忠相をそのような対象に選んでしまったことに、恥ずかしさに身がすくむ。 もう、忠相の顔を見られないかもしれない。そう考えると余計涙が出た。 忠相。忠相。 それでも先程忠相に抱かれて感じた快感はあまりにも甘美だった。 「許して、許してくれ。忠相」 焔は泣きながら眠っている吉宗を見ていた。 この人は、本当にあの八代将軍吉宗なのだろうか。 尾州では、将軍の座を争った尾張中納言継友様を暗殺したという陰口までがささやかれ、いたく評判の悪い将軍だった。だから、宗春様も吉宗を憎んでいた。それが、 「いったい。どうして、こうなってしまったのか」 宗春様は吉宗に惹かれている。 先程、宗春様を止めたのは尾張藩主に人殺しをさせられないなどという家臣としての判断などではない。ここで吉宗を自分の手にかけたら、宗春様は一生吉宗を忘れないだろうという恐怖が勝ったのだ。吉宗にそんな僥倖を与えたくなかった。 「いや、今となってはたとえ私が殺したところで同じやもしれぬ」 死んだ吉宗を思い、殺した私を憎むか。 「宗春様」 焔は、しずかに吉宗に近づくと右手を上げた。 一方、大岡越前守忠相のもとには、ようやく公儀お庭番の手により有力な情報が届けられていた。 「なに、船だと?」 「はい。わたくしたちもまさか海の上とは思わず手間取りましたが。おそらく間違いは御座いません」 応えるのは吉宗直轄のお庭番、おその。昨日まで他のお庭番とともに江戸のみならず、遠く西国までも吉宗の行方を探していた。 地続きでは、全く消息を絶った様子であったが、一ヶ月近く前に尾張の港から出航した船が、その後江戸に向いながらも、どこの港にも入っていないことを突きとめた。 「かなりの沖合いですが、今ごろは、助八様がきっと」 「そうか」 (しかし、はたしてご無事でいるのかどうか……) 忠相の焦燥にやつれた顔は、曇ったままである。 「大丈夫です、大岡さま。今まで、船が何の動きも見せていないことこそ、上様ご無事の証拠。お気を強くお持ちください」 「そう、そうだな。けれども落ち着かぬ。私もそこに」 と、立ち上がりかけ、忠相は 「大岡様。上様がご不在のときに、大岡様まで城を離れていかがされますか」 おそのにぴしりと言われて、はっとする。 「すまない。そのとおりだ。全く私も、上様がいなくなってからというもの……どうかしている」 薄く苦笑いする端正な横顔。その睫毛が落とす影を見つめ、おそのは胸が締め付けられ 「もうすぐ。もうすぐです。大丈夫です」 本当はまだはっきりと安否が知れたわけではなかったが、そう言わずに入られなかった。 月も隠れた夜。海の色も空の色もわからない漆黒の闇の中。巨大な船に一艘の小船が近づいている。 「ちっ、思った以上に立派な船だぜ」 公儀お庭番頭、籔田助八である。 そろそろと船尾に回り、船を海につなぎとめている鎖を探る。 「よっと」 鎖に手をかけると身軽に船体に取り付きするすると登っていく。黒いしのび衣装が、その姿を闇に隠している。うまい具合に静かに甲板に降り立った。 「まずは、上様が本当にこの船にいらっしゃるのかどうか」探り出すのが今夜の仕事である。 吉宗の閉じ込められた部屋は、船の最下層であった。 焔の振り上げた右手が吉宗の頬を打つ。 ぴしっ。という高い音。 うっすらと吉宗が目をあける。まだ焦点は合っていない 「しっかりしてほしいですね。助けてやろうというのですから」 忌々しそうにいうと、吉宗を縛していた両手両足の鎖をはずした。 宗春に知られたら、ただでは済むまい。けれども焔にとって、このまま吉宗を置いておくことは宗春が自分から離れていくのを待つだけのことであった。 (ならば、いっそ宗春様の怒りにふれて、殺されてしまったほうがまし) その前に吉宗を手の届かぬところに返そう。その忠相とやらに守ってもらうがいい。 焔は来たときのように吉宗を抱え上げると部屋を出た。 そのとき、焔は怪しい音を聞いた。常人ならば決して気づかないだろうかすかな軋みだが、研ぎ澄まされた忍びの耳は、それが身内のものではないことを聞き取った。 そっと吉宗を下ろすと息を詰め自分の気配を消す。相手も気配を消しているが、この船の中では慣れた焔に利があった。 「だれだ」 懐から取り出した手裏剣が闇に向って飛んだ。 きん。 壁に突き刺さった音の中にあきらかに刃物でかわされた音が混ざる。 次の瞬間、焔の顔に別の手裏剣が飛んで来た。 「甲賀か。公儀お庭番だな」 ひらりとかわして、相手にだけ聴こえるように低く叫ぶ。 「いいのか。吉宗はここにいるぞ」 相手の動きが止まった。 焔は吉宗を脇に抱え、ゆっくりと立ち上がった。 「お前もでてこい」 その言葉に応える様に、闇から助八が姿をあらわした。 二人の忍びはしばらくじっと動かなかった。 本当に力のある者はぶつからずとも相手の器量を推し量ることが出来る。 助八も、相手が相当の使い手であることを感じ取った。 それだけに、吉宗が相手の手にあるうちは分が悪い。 『本気で戦えは゛、どちらかが死ぬ。いや、上様が人質となっている今、死ぬのは俺か』 助八の背にじっとりと汗が浮いてきた。 しかし、相手は意外なことを言った。 「吉宗を返して欲しくば、くれてやろう」 「なに!」 「ただし、余計な詮索をせずさっさと立ち去れ」 焔はそう言うと、吉宗を品物か何かのように投げてよこした。 「う、上様」 倒れ掛かる吉宗を両手にしっかり受け止めると、すぐに体勢を整え身構える。 その様子を見、焔はくすくす笑い 「さぁ、早く行かねば気が変わるぞ。今すぐ船を下りねば、他のものも気づいて今度こそ逃げられなくなるぞ」 と、追い立てる。 助八は混乱しながらも、腕の中の吉宗を見る。面変わりするほどやつれてはいるものの、将軍吉宗に間違いは無い。 確かにこの機会を逃すと吉宗を抱えた身では船を降りるのも難しいだろうと判断すると、助八はさっと身を翻した。 「かたじけない」 助八の姿が消えたのを確認して、焔は先程かわした助八の手裏剣を手に取った。 甲賀独特の細い短剣のような切っ先を眺めて呟く。 「かたじけない、か。誰に向っていっているのだ」 一瞬瞳が凶暴な光を宿し、次の瞬間自らその左眼に手裏剣を突き刺した。 「お前らなどにそのような事を言われては、宗春様に会わせる顔が無いわっ」 (宗春様を裏切った罪が左眼一つですむとは到底おもっておらぬが、今は死ぬわけにはいかぬ。公儀お庭番にこの船を知られた以上、一刻も早く宗春様を尾張にお逃がしせねば) 左眼から噴き出す血をぐっと抑えると、宗春の部屋に向って駆け出した。 「宗春様」 「どうした、焔、その血は」 寝所で休んでいた宗春が青ざめる。 「眼。眼をやられたのか」 「話は後で御座います。公儀お庭番です。かなりの手だれ。とにかく此処からお逃げください」 有無を言わさず宗春の肩を掴み、隠し扉へとおしやる。その奥の部屋には、万が一に備えた脱出用の小型の船が用意されている。 「吉宗はどうした」 「残念ですが、私もこの状態では、宗春様おひとり逃がすのがやっと」 「……そうか」 顔を血で真っ赤に染めた焔を見やると、宗春は意外にさばさばと 「では、遊びは終わりじゃ。急ぎ国に帰ろうぞ」 と、船に乗り込んだ。 焔が後に続く。右の眼にも血が入り、焔の視界は真っ赤だ。 暗い海の上に漕ぎ出す。 器用に船を操りながらも、怪我が痛むのか、あぶなくよろけて膝をつく焔に、 「大丈夫か」 手を差し伸べる宗春。 「はい。申し訳御座いません。先程、合図を上げましたので、間もなく仲間の船が引き上げてくれます。お叱りはその後で」 「私が何を叱るのじゃ」 「それは……」 「公儀お庭番に見つかってしまって、吉宗は連れ戻された。お前は怪我までしてしまった。まこと残念じゃが、それだけのことじゃ」 「はっ」 「それにしても」 宗春は、じっと焔を見つめて 「きれいな瞳であったものを、惜しいのう」 と、微笑んだ。 「申し訳、ありま、せん」 焔の右の眼から涙があふれ出る。 焔と宗春の乗った小船が十分離れたころ、母船が炎を吹き上げた。 漆黒の闇の中、巨大な船が爆発する轟音がとどろき、あたりをまさに火の海に変え、真っ赤な炎の中心で船は静かにその姿を沈めていった。 その炎を助八も見ていた。 「証拠隠滅、か」 まあ、いい。いつかきっと突き止めてみせよう。一番大切なものは手に入れたのだ。 腕の中には将軍吉宗がぐったりと身を横たえている。 一瞬、天を焦がすほど吹き上げた炎に吉宗の顔が赤く染まる。 「上様」 もうすぐ、江戸城で大岡越前守忠相の喜ぶ顔が見られる。いや、爺も、おそのも、そして辰五郎はじめとする町の面々。皆が、吉宗の帰りを待っていた。 もう一度、眠る吉宗の顔を見ると、助八は船をこぐ手に力をこめた。 |
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