雨は、夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう―――

どうして、この季節に雨が降るとこの歌を思い出してしまうのだろう?
不思議な気持ちで、十二月の、低い雲におおわれた空を見上げた。
ポツポツと地面を濡らす雫は、次第に激しくなって、この分だと雪に変わることはなさそうだ。
そして、俺は、週末の中山の馬場を思って、少し気が重くなった。

今週の日曜に行われる今年最後のGTレース、有馬記念。中山、芝2500メートル。

あの、サクシードの死んだ有馬から、ちょうど一年が経つ。

春からレースに復帰した駿は、天性の勘と勝負強さで勝鞍を重ね、さすがに佐井には及ばないもののリーディングの上位に名前を連ねていた。
俺も、復帰間もない初めのうちこそ、レースのたびにドキドキしたものだが、今では安心して観ることが出来るようになった。駿は、すっかり立ち直ったようだ。
けれど―――今週末の有馬記念だけは、違う気がする。
あのサクシードが骨折して、予後不良となったレースだ。
思い出さないわけが無い。
あの日も曇り空だった。
せめて今年の有馬は、カンカンの晴天のもとで迎えたかったのに。
「日曜までに上がるといいな」
つい独り言を言って窓の下を眺めたとき、見覚えのある鮮やかな青い傘が見えた。
(まさか――?)
信じられなかったが、玄関を開けて外に出た。
安っぽいアパートの外階段を、音をたてて駆け下りると、目の前に駿の小さな白い顔があった。

「来ちゃった」
小首を傾げて微笑む愛らしい顔。
俺は、衝動的に抱きしめた。

俺は四年になって、何とか卒業するだけの単位の目処もたち、千葉の私立高校に教員として内定をもらっていた。大学の陸上部関係のコネを使わせてもらったのは少々心苦しかったが、中山にも美浦に出るにも便利なロケーションは好都合で、話があったときに俺は喜んでそれを受けた。
同時に俺は、家を出た。
東京の西の果てから通うのはとても無理だし、社会人になっていきなり独り暮らしをするよりは少し早くから慣れておきたい、というのが親に対しての理由だったが、実際は、少しでも駿と一緒にいたかったのだ。
それが、結局、俺が引越しを済ませたのが駿のGTシーズン真っ最中だった為、当初の思惑ほど一緒にいられないというのが、俺にとってはくやしい誤算だった。
それなのに―――
「お前、いいのか?」
「えっ?」
「……今週末」
「うん、調教つけてから来たよ」
傘を投げ出してしまったので、駿の柔らかな髪に雨の雫が当たる。
「とにかく、あがれよ」
「うん」
俺は、駿が転がした傘を拾って、さし掛けた。
駿はそれに構わず軽やかに階段を駆け上がっていく。
1DKの小さなアパートに入ると、駿は嬉しそうに部屋を見渡した。
「綺麗だね。もっと散らかしているかと思ったけど」
「何も無いだろ」
「すっきりしてていい」
この部屋に来るのは、まだ二回目の駿が、それでも慣れたように台所に立つ。
「お茶、買って来たから、お湯沸かすね」
「俺がやるよ」
「いいよ。お茶くらい入れさせてよ」
駿は、やかんに水を入れながら、いたずらを思いついたような顔になってポケットに手を入れた。
「へへっ」
ポケットから取り出したのは――
「馬?」
よくチョコエッグに入っていそうな、小さな馬のフィギュアだった。
「うん、これをつけるとピーピーケトルになるんだよ。小鳥のはよく見るけど、馬って珍しいでしょう?」
言いながら、やかんの口に取り付ける。
「ここが笛になっていて、お湯が沸いたら鳴くんだよ」
「ヒヒーンって?」
「まさか」
クスクスと、笑う駿を後ろから抱きしめる。
駿のこんな仕草が可愛くてたまらない。
「だめだよ。水が、こぼれちゃう」
「じゃあ、早く置いて」
「うん」


壁に背中をつけて座った俺の、脚の間に駿を座らせて、その髪に口づける。
駿のシャンプーの匂い。
うっすらと汗の匂い。雨の匂い。
胸が締めつけられる。
「まさか、今日、会えるなんて思わなかった」
「うん」
「会いたかった」
会って、こうして抱きしめたかった。
「僕も、会いたかったよ……ずっと……」
競馬場で会うときはいつも、地下通路か検量室。
『目と目で会話することばかり、上手くなった気がする』
と、この前会ったときに駿が言った。
「駿」
名前を呼ぶと
「良馬」
応える声が震えていた。
「駿、どう…」
どうしたと、顔を覗き込もうとしたら、駿の腕が首にしがみ付いてきた。
「会いたかった。会いたかった。良馬に会って……」
叫ぶように言った後、駿は、聞き取れないほど小さな声で囁いた。
「……大丈夫だよ、って、言って……」
「駿」


有馬記念だけは、違う。
あのサクシードが骨折して、予後不良となったレースだ。
思い出さないわけが無い。



「駿っ」
俺は、駿の小さな身体を強く抱いた。
「……恐いんだ」
「駿」
「わかってる。わかっているんだけど……もう、忘れないといけないのに」
駿は声を震わせて、きつくすがりついてくる。
「でも、また、あの音が甦ってきそうで……今日、空を見て、曇った灰色の空を見たら、もう……」
「駿」
「だめだった。良馬に、会いたくて……会いたくて……こうして、抱きしめて欲しくて……」
「駿」
俺は、駿の唇を塞いだ。
言葉の代わりにたくさんの思いを伝えるために。

駿、強くて気高い、駿。
ターフの天才と呼ばれ、尊敬と嫉妬と、様々な視線に晒され、サクシードを失った心の傷を隠して、いつも不安や孤独と戦っているのか。
毎回のレースに臨むとき、どれほどの精神力で持ちこたえているのか。俺には、わからない。
誇り高く、美しい、俺の駿。
お前が、会いたいといってくれることが、こんなにも嬉しいよ
(駿……)


長い口づけの後、駿がぼうっとした眼差しで俺を見上げた。目許が赤く染まって、艶めかしい。
「良馬……」
掠れた声に、理性が飛ぶ。
「駿」
駿のセーターの下に指を這わせたその時

ピ―――――――

台所からものすごい音がした。
「あ、やかん」
駿が、ハッとしたように俺を見た。
俺は、一瞬、どうしようか悩んだ。
(男として、ここでやめるわけには―――)
しかし……
ピ―――――――――――――――――

無視するには大きすぎる音で、台所の馬が鳴いている。
「ごめんね」
駿が小さく呟いて、立ち上がった。
俺はそのとき、たぶんかなり情けない顔をしてしまったのだろう。
俺の顔を見た駿が、ふき出した。
「火を止めてきたら、続き、してくれる?」
耳元でくすぐるように囁かれて、また理性が飛んでいった。






* * *


「やっぱり、来て良かった」
駿が、微笑む。
「良馬といると、落ち着く……」
「そう?」
「ここに来るまで、ずっと不安だったのに、嘘みたい」
「駿」
抱き寄せて口づけると、駿は、子猫のように身体を丸めてすり寄る。
「週末、晴れるといいな」
「うん」
「テルテルボウズ作るか」
何の気なにしに言ったら、駿が目を輝かせた。
「今? 一緒に?」
「あ?ああ」
「うん、作ろう、作ろう」


「ええと、ハンカチでいいかな」
引越しのときに使ったハンカチ、タオルの類がたくさんあった。荷物の緩衝材代わりだったのだ。
「うん。いろいろな柄があって面白いよ」
「じゃあ、あとは紐だな」
これまた、引越しの時の荷造り用のがあった。

一時間後、俺たちは軒先にかなりの数のテルテルボウズをつるした。
派手な柄から渋いものまで。結構、壮観だ。
「下から見たら、クリスマスの飾りと思われるかなあ」
「いや、テルテルボウズだろう、どうみても、これは」
「ふふ、ふふふ……」
駿が嬉しそうで、俺も嬉しかった。
「これで、有馬は、晴れだな」
「うん、そうだね」
「カンカンの、気持ちいいくらいの青空で」
「うん」
「駿の馬が、一番に、掲示板を駆け抜ける」
「だといい」
「さすが、有馬を得意とした橘昇の息子だ。橘調教師も、感激して飛んでくる」
「やめてよ」
クスクスと駿がくすぐったそうに笑う。




「有馬終わったら、しばらく何も無いんだろ」
「うん」
「クリスマスは? ここで一緒に過ごさないか?」
「いいの?」
「それとも、ホテルとか?」
「ここがいい」
駿がまた抱きついてきた。
俺の胸の中で首を廻らせて、窓のテルテルボウズを見て言う。
「クリスマスまで、あのままにしておいてよ」
「それはちょっと、恥ずかしいな」
「うそっ」
駿が唇を尖らす。
「嘘……そのままにしておく」
その尖った唇についばむようにキスをして、俺たちは、またお互いの温もりを確かめ合う。


雨は、夜更け過ぎには、きっとあがる―――――




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