本田秀一は、俺の幼馴染だ。 幼稚園の年少さんの時、同じさくら組になってから、同じ小学校、中学校、そして高校とずっと一緒に来た。そして俺は、いつまでもそれが続くものだと思い込んでいた。 三年生最後の体育祭を間近に控えたある日の放課後。 俺は秀一を訪ねて生徒会室に向かった。 体育祭準備でみんな出払っていて人のいない廊下。生徒会室には、秀一ひとりだった。 「どうしたの、秀一。難しい顔して」 「よう、アツヒロ」 秀一はちらっと振り向いたけれど、また難しい顔をして黒板を睨んでいる。 黒板にかかれているのは次の生徒会の議題だろう。 『男同士のフォークダンスを廃止するか否か』 ああ、そんな綺麗な顔をして、こんなつまらないことを悩まないでくれよ、秀一。 俺は内心ため息を吐く。 「ああ、これね。毎年廃止案が出ている割に無くならないのは、結構楽しみにしている連中もいるんじゃないの」 「せめて、オクラホマミキサーじゃなくて、マイムマイムにしてくれっていう声もあるんだが」 どっちでもおなじじゃないか。 なのに、秀一は、 「新聞部でアンケートでも取ってもらえないか?生徒会は新聞部の世論調査を頼りにしているんだ」 真面目な顔で言う。俺は今度こそ本当にため息を吐いた。 「体育祭前で人手が足りないんだよ。秀一の頼みなら何とかしてやりたいけど、これはそんな重大なことじゃないだろ」 「重大じゃ、ない、かな」 「他にも考えないといけないことはたくさんあるんだろう?お忙しい生徒会長」 「いやな言い方だな。それより、何の用だ?」 「ああ、そうだ」 俺は、三年の学年主任の畠山先生に頼まれた用事を伝えるためにここに来た。 「進学相談会、今年は土曜日にもひとコマやるって」 「土曜?」 「平日だとOBがつかまらない大学が二つ三つあって、その大学の希望者だけ土曜日にするって畠山先生が言っていたんだよ。その中にK大もあって、お前の志望校だろう」 お前と俺の。 「ああ、K大ね」 秀一のその反応がどこかおかしい気がして、俺は、聞き返した。 「ああ、って?」 「えっ?」 「乗り気じゃ無さそうだね。まさか、志望校変えたの?」 まさかと思って聞いてみた。本当に『まさか』という気持ちだ。秀一が俺に黙って志望校を変えるなんて――― 「変えようと思ってるんだ。実は」 「えっ?」 自分で尋ねたくせに、思わず裏返った声をあげてしまった。 「何で?」 尋ねる声は、震えていないだろうか? 「他に勉強したいことができて」 「他に、ってなんだよ」 「ううん…まあ、そのうち話すよ」 「そのうち?」 そのうち、そのうち、そのうち、そのうち――― 頭の中でリフレインが叫んでいる。 俺は、俺たち二人は、当然同じ大学に行くものだと思っていた。 「それで、どこの大学にしたんだ」 「それは…あっ、すまない、これからトトカルチョ実行委員会なんだ」 秀一は腕時計を見ると、慌てたように生徒会室を出て行った。 俺は、残されて呆然とする。 目の前の黒板では 『お昼のおやつ300円以内の上限撤廃について』 などという気の抜けた議題が、俺をあざ笑っていた。 「やっぱりトトカルチョでは、学年リレーは外せませんよね」 秀一の隣を歩いているのは確か二年のトトカルチョ実行委員の坂本だ。最近よく秀一の周りをうろちょろしているから、自然と憶えてしまった。 「秀一」 声をかけると、秀一はゆっくり振り向いた。 「なんだ、アツヒロか」 眼鏡の奥の瞳が細められた。無理して笑っている時の顔だ。 あれから――あの、志望大学の話をしてから――秀一は俺を避けるようにして、登下校時は勿論、学校内でもほとんど顔を合わせていなかった。 痺れを切らして今日は、秀一の委員会が終わるのを待ち伏せしたのだ。 「話があるんだ」 「忙しいんだけどな」 「知っているよ。お前はいつだって忙しいじゃないか」 俺も無理して笑って見せた。俺は自分で言うのもなんだけれど内面と外ヅラが違う。初対面の人間は俺が笑って見せると、大概安心したような顔をする。ちなみに言葉遣いも心で呟くものと外に出るのとは大違いだ。 けれども、さすがに十五年にもなる付き合いで、秀一は俺の微笑みに何かを感じたらしい。 「また、今度…」 くるりと踵を返した。 「秀一っ!」 俺は思わず秀一の腕を掴んだ。 秀一は、ギョッとした顔で振り返る。薄いフレームの奥の瞳が怯えたように見開かれた。 その瞬間、俺の心の中に嗜虐的なものが生まれた。 そのまま腕を掴んで秀一を引っ張っていった。 「ち、ちょっと、何の真似だっ」 「いいから」 驚く坂本もうろたえる秀一も綺麗に無視して、俺は新聞部の部室に向かった。 活動の無い日の放課後の部室は、幸い誰もいなかった。 「一体、何だ。こんなところまで引っぱって来て」 秀一が珍しく不機嫌そうな声を出す。 「こんなところで悪いけど、秀一とちゃんと話がしたくてね」 言葉尻を捕らえて言えば、秀一はちょっと赤くなった。 ふてくされたような顔で、パイプ椅子を引くとどっかと腰を下ろして長い足を組んだ。俺はその目の前に立つ。 秀一は、俺の顔を見ないようにして、机の上の校内新聞に目を落とした。 「秀一」 呼びかけても、顔をあげない。 「志望校変えるって、いつ決めたんだ」 黙っている。 「夏休み前には、一緒にK大に行こうって言っていたよな」 秀一は睫を伏せて、黙ったまま校内新聞をめくる。 「秀一」 俺は苛々してその新聞を取り上げた。 秀一はようやく顔をあげて俺を見た。 「アツヒロは、何でK大を選んだ?」 「えっ?」 一瞬、返事に詰まった。なぜなら俺にとってのK大は、学力から言って適当でブランド名もあって、そして何より『秀一と一緒に行ける大学』だったから。 言葉のない俺に、秀一はかってに答えを出した。 「あそこはジャーナリストを大勢出しているからね。アツヒロは将来そっちの道に行きたいんだろう?だったら、ちょうどいい」 ジャーナリスト。確かに、そんな話をしたことがあった。 「夏休み前に、アツヒロの書いた文、読んだよ。高校生の書いた校内新聞の記事とは思えない立派な文章だった」 そういえば、いつもゴシップやお笑い系の多い和亀校内新聞だったが、休み前最後に発行したヤツはスペースがかなり余ってしまってちょっとマジな文章を書いた覚えがあった。 秀一は、眼鏡を外してレンズを拭いた。 いつもクールに見える顔が、眼鏡を外すだけでこんなにも無防備になる。 「アツヒロには将来の目標があって、それに向かって着実に近づいている。大学だって、その目標に向けての堅実な階段だ」 いつになく頼り無く見える秀一。胸が締め付けられる。 「でも、俺は違う。K大を選んだのは、お前が、あそこがいいって言ったからだ」 「秀一…」 「目標も無く、動機も曖昧。同じ大学を目指しても、お前と俺じゃあ、全く…」 言いながら再び眼鏡をかけようとする手を抑えて、俺は叫んだ。 「いいじゃないかっ!」 座る秀一の前に跪いた。顔を覗き込むと、眼鏡の無い端正な顔が驚いたように俺を見つめる。 「一緒の大学に行くって言うのが動機じゃ、何でいけない」 「アツヒロ?」 「お前、俺のこと勝手に誤解して、作ってくれちまっているけど」 秀一の手を眼鏡ごと両手で包む。 「俺の、K大志望の動機は、お前と一緒に行けることだ」 「アツ…」 「ジャーナリストになるだけなら、どこの大学に入ったってなれる。でも、お前と一緒の大学っていうのは一つだけだ。だから、俺はお前の志望校を知りたいんだ」 秀一の顔が、赤く染まった。 「他に、勉強したいことって何だよ。お前が行きたいって大学を教えてくれよ」 「それは」 秀一は、困ったようにうつむいた。そして小さな声で答える。 「まだ、決まってない…」 「決まってない?」 「ああ、決めたいとは思ったんだ。お前にはお前の夢や目標があるように。俺にも、何か…そう思って考えたんだけど、まだ良くわからない」 ああ、我が校始まって以来の秀才と誉れも高い本田秀一のこんな様子を一体誰が信じるだろう。 いや、誰にも教えたくなど無いが。 「秀一、だったら、俺も一緒に考えさせてくれ」 「アツヒロ?」 「お前の夢に、お前の将来に、俺もほんの少しでもいいから係わっていたいんだ…ずっと…」 「アツヒロ」 秀一の唇が震えた。 その薄く開いた唇に、俺は、そっと自分の唇を重ねようとして 「部長、大変です―――っ!!」 コンマ一秒で、突き飛ばされた。 ドアを蹴破らんばかりにして飛び込んできたのは、二年の橘だ。 「トトカルチョマークの斎藤が!って、あれ?どうしたんですか?」 床に尻餅をついている俺と、秀一を交互に見比べる。 秀一はといえば、俺を突き飛ばしながら知らん顔でさっさと眼鏡をかけて、完全武装のクールビューティに戻っている。 「じゃあ、僕はこれで。じゃましたね」 言葉遣いもよそよそしく、部屋を出ようとする。 「あっ、おい。話がまだ」 思わず腕を伸ばすと、ドアのところで秀一は振り向いた。 「土曜の進学相談会には、出るよ」 「え?」 「付き合ってくれるよな、アツヒロ」 「……ああ」 そして秀一はニッコリ微笑んで出て行った。 俺は一世一代のチャンスを逃してしまったような気もしたが、不思議と清々しい気持ちになっていた。 「部長、大丈夫ですか?」 橘が不思議そうに見る。 「ああ」 そして思いついた。 「お前、来年、部長ね」 「ひえっ?」 新聞部の部長というのは、これで何かと忙しい。記事にされたことで怒って押し寄せる連中をさばくのも部長の役目だ。 橘には荷が重いと言うものだが、これくらいの罰は受けてもらってもいいな。 end |
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