そのとき俺は、北校舎に向かって急いでいた。
音楽室の前を通って渡り廊下に出ようとしたとき、突然声をかけられた。
「きみ」
決して声高ではないのに思わずビクリと振り向いてしまう、斬りつけるような声。
俺を呼び止めたのは――――
(アイスドール)


「何を急いでいるのか知らないが、廊下は走るんじゃない」
「……どうも」
「それに、靴のかかとを踏んでいるのは、みっともないから止めた方がいい」
余計なお世話だと睨みつけると、相手もその眉をわずかに顰めた。
「きみ、クラスと名前は?」
訊ね方も横柄だ。背は175センチの俺より少し低いが、妙な威圧感がある。
「三田村貴志。2−D」
「そう」
そのまま踵を返そうとするので、俺は言ってやった。
「おい!人に名前を尋ねるときは、自分も名のれって習わなかったか」
振り向いたその顔は、一瞬、驚きに目を瞠った―――かに見えた。
実のところは、すぐにいつものポーカーフェイスになったので良くわからない。
冷たい表情で俺を見て言った。
「氷室透(ひむろとおる)。三年の、クラスはAだよ」
(知ってるよ)
心の中で呟いた。
氷室透。ここ桐陸学園の生徒会長。男とは思えない美貌とそのクールさでついたあだ名がアイスドール。
「会長、時間が」
側にいた、これも知った顔の生徒が、生徒会長サマを促す。
「そうだな」
ああ、これから生徒会の役員会議か。この小さい男はそれじゃ副会長だな。道理で見たことあると思った。でも、こいつの名前までは知らない。
氷室透――彼だけが特別だ。
この学校の生徒で、この名前を知らないやつはいないだろう。
だから、俺が名前を尋ねたとき驚いたのかな。だとしたら、ちょっと面白い。
いい気になってんじゃねーよ。
去っていく後ろ姿を見送って、俺はまた駆け出した。シューズもかかとを踏んだまま。


北校舎の一番奥、今は使われていない教室。
物置と化しているそこの鍵を、俺は持っている。
誰かが鍵を差しっぱなしで行ったところに、サボリに来た俺が偶然それを見つけたんだ。
そのまま失敬しても、鍵が付け替えられることも無く――本当に、滅多に人が出入りしない所らしい。
今じゃ、俺のプライベートルームだ。
俺が入って来る気配に気がついたらしく、部屋の中から鳴き声が聞こえた。
キャンキャンキャン
「しっ、静かにしろよっ」
俺は慌てて戸を閉める。
奥から聴こえる声は、ますます激しくなる。
「静かにって、言ってっだろ」
三日前に拾った子犬――名前はチビタだ。俺がつけた――が俺の足元にまとわりつく。ちぎれるほど尻尾を振って。精一杯ジャンプして。その様子に、何だかちょっと胸が熱くなった。
「ごめんな。淋しかったんだよな。でも、大声出すと見つかるから、静かにしてくれよ」
俺は、チビタを抱き上げた。
「飯、持ってきたから。食ったら、散歩しような」

三日前の下校途中、ダンボールに入れられて捨てられていたチビタを見つけた。場所がゴミ置き場で、俺は捨てたやつの人間性を疑ったね。このまま置いていたら、間違いなく保健所行きだろう。かといって、うちは裕福とはいえない一家四人のアパート暮らしで犬を飼う余裕は無い、っていうか、大体アパート自体がペット不可だ。
その場で三十分悩んで、俺はチビタをこの教室に連れて来た。
しばらくここで飼いながら、チビタを飼ってもいいという人を見つけようと思ったんだ。
残念ながら、この三日間じゃ見つかんなかったけどな。飼い主。


* * *

翌日の朝も、俺は通学途中のコンビニで買ったおにぎりとヨーグルトを持って北校舎の教室に向かった。
(ホームルームサボって散歩させてやろうかな)
ガツガツと朝飯を食うチビタを見ながら、そう考えた時、教室の入り口から誰かが入ってきた。
「三田村貴志」
呼びかける声は、昨日も聞いた。
「あ、ア……」
アイスドールと叫びかけて、息を飲む。
「こんな所で、何をしているのかと思ったら」
そう言いながら俺の隣まで来て、チビタを見つめる。
「学校で勝手に生き物を飼うことは……」
「禁止だろ?知ってるよ」
知ってるから内緒で飼ってんじゃねえか。
「何で、あんたがここにいるんだよ」
俺が睨むと、アイスドールは、いつもの顔で応えた。
「昨日、会議の後、君がこの校舎に入って行くのを見た」
げ、夕方の散歩の後か。
「今朝も、急ぎ足で入っていったから……」
じっとチビタを見つめるその顔は、無表情で何を考えているか全く分からない。
チビタは飯を食い終わって、俺の足に顔を擦りつけている。
鼻が痒いんだな。
抱き上げると、俺の袖口で鼻や口の周りを拭っている。
「どうするんだ」
「どうって?」
アイスドールの質問の意味がわからなかった。
「学校じゃ、犬は飼えない」
ああ、そういうことか。
「わかってるよ。飼い主が決まるまでの、しばらくの間だけだ」
「飼い主?決まったのか?」
「やっ、いや……まだ」
俺は言葉を詰まらせた。昨日まで何人も声掛けしているのだが、飼ってもいいという奇特なやつはいなかった。
「雑種だろう?汚れているし、見つかるのか?」
その言葉に、俺はキレた。
「なっ!」
綺麗な、犬で言やぁ血統書つきのサルーキーみたいなヤツにそう言われて、雑種の俺はチビタに感情移入しちまったんだな。
「ざけんなよ。雑種だからどうだってんだよ!立派に生きてんだぞっ!」
「三田村?」
「自分がサルーキーだからって、威張ってんじゃねえ」
「サルーキー?」
アイスドールは、小首を傾げた。
「俺は、チビタを捨てる気はねえからな。俺が責任もって面倒見る」
「君の家で、飼えるのか?」
「うっ……」
飼えねえから、ここに居るんだろうが!
片手に納まるチビタの小さいからだが急に重みを増した気がした。
命の重さだ。
何も言えず、じっとチビタを見る。
俺が黙っていると、唐突にヤツが口を開いた。
「僕が飼おう」
「え?」
「僕のうちなら、庭もあるし、犬の一匹や二匹増えたところで、問題ない」
「増えたところでって……犬、飼ってるのか?」
現金なもので、俺の口調は突然弱々しくなった。
「ドーベルマンを五匹」
ああ、お屋敷っぽいな。
「……でも」
そんな所で、チビタが生活できるだろうか。
ドーベルマンに苛められないだろうか。
俺の心配を読んだのか、氷室は言った。
「心配なら、見に来ればいい」
「え?」
「いつだって会わせてやる」
何、言ってんだ?
「どうせなら世話もしていいぞ。ここに通うのもうちに通うのも変わらないだろう。うちは学校の近くだし」
(それって……?)
氷室が、腕を伸ばして俺の手の中からチビタを抱き上げた。氷室の白く細い指の中にチビタの茶色いからだが収まる。
「タカシ」
「はっ、はい」
思わず返事した。
「この子の名前だ」
「はあ?」
「ちっ、ちょっと待てっ!そいつにはチビタって名前があるんだよっ」
「チビじゃないだろう。足が大きい。すぐ大きくなる。気も強そうだ」
「だからってっ」
何で、よりによって俺の名前なんだよっ!
俺が目を剥くと
「君に、似ている」
そう言って、氷室は笑った。

その笑顔で、俺は完全にノックアウトされた。

アイスドール。
なんであんたが、いつも無表情なのかわかったよ。
そんな笑顔ふりまいてちゃ、大変なことになるよな。
ぼうっと見惚れた俺に、クールな顔に戻った生徒会長は言った。
「ホームルームの時間だ。放課後、またここで会おう」
「あ、ああ……」
俺は、そう応えるのがやっと。
そしてその日一日俺は、放課後の事、これからの事、色々考えて腑抜けになっていた。









END



2002.12.12
貴子さん1000番ありがとうvv




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