《笄斬り》 笄(こうがい)―――武士が髪を整えたりするために使う道具。 「犬、お前にこれを取らそう」 信長が、その小さな笄を目の前に差し出したとき、利家は何かの冗談だと思った。 先の合戦で功績をあげた利家に、褒美の品をといって腰の脇差に手を伸ばされた時は、その名刀をくださるのかと胸が高鳴ったが、信長が手にしたのはその脇差の鞘に挿してあった笄であった。ちなみに犬とは、利家の幼名犬千代から、信長が利家を呼ぶときの名だ。 「いらぬか?」 信長が目を細めた。 「いっ、いいえっ」 利家は慌てて頭を下げると、その小さな笄を押しいただいた。 「ありがたき幸せ」 利家の言葉に、信長はおかしそうに喉を震わせた。 「又左、御屋形様から、何を貰った」 柱の陰から突然姿を現したのは、猿、こと秀吉だった。 「さぞ、ええもん、貰ったんだろうのぅ」 いつまでも百姓言葉の抜けない秀吉と利家は、人品は正反対だったが住まいも近く仲が良かった。 「何貰ったか、おしえてくれ」 「知らん」 「知らんわけ無かろう。それとも、勿体無くて教えられんのか」 執拗にまとわり付く秀吉に、ウンザリして利家は脇差の鞘から笄を抜いて見せた。 「これだ」 秀吉の目が丸くなり、その顔はますます猿に酷似した。 ぶぶーっ その猿が大きく吹き出した。 唾がかかって利家は顔を顰めた。 「汚い」 「なんじゃあ、それは」 「だから、教えたくなかったのだ」 笑い転げる秀吉を無視して、利家はその場を去ろうとした。 秀吉は、その後を慌てて追いかけて、 「いや、待て。又左」 笑いの為の涙の滲む目をこすりながら言った。 「御屋形様のお髪を整えてきた笄じゃ。頂戴できたのは、すげえことかも知れんぞ」 秀吉の言葉には応えず利家は、手の中の笄を握り締めた。 「それより、又左、知っているか」 追いついた秀吉が機嫌をとるように言った。 「なんだ?」 「御屋形様が最近可愛がっている同朋衆のことじゃ」 「拾阿弥とかいう?」 「ああ、坊主のくせして公家みたいな顔した、いけすかん男じゃ」 「それがどうした?」 「最近態度が目にあまる。御屋形様に気に入られているから増長しておるのだ」 何か気に入らないことでも言われたのだろうか、秀吉はむっとしていた。 「だいたい、あんな男、抱いたところで気持ち良いとも思えんが」 「それは、我らの口出すところではない」 利家はピシリと言った。 信長と拾阿弥。それは利家にとっても面白くはない、気になる話ではあったが、だからと言って信長の閨中のことまで猿と一緒になって話したいとは思えなかった。 その拾阿弥は、曇った空を見上げて (雨になるやも知れぬ……) 頬を緩ませた。 信長の白い裸体が脳裏に浮かぶ。 初めて伽に侍った夜、てっきり自分が抱かれるものだと思っていたのが、意外にも信長は 「私を抱け」 と、そう言った。 初めのうちこそ恐れおののき緊張もしたが、すぐに、信長の身体に夢中になった。 無駄な肉の無い引き締まった、それでいて柔軟な若い身体。 野山を駆け回っていたにしては白い肌。その滑らかな感触。切なく漏れる甘い声、あの締め付けまで――どれをとっても、信長の身体は一級品だった。 なにより、この織田家中の誰もが恐れ敬う『御屋形様』を、自分が思うまま蹂躙しているのだと思うと、拾阿弥の雄の本能が歓喜した。 (信長様……) 信長は、雨の日になると必ず拾阿弥を呼んだ。 もちろん晴れた日に伽に侍ることもあった。けれど、雨の日は『違う』のである。 「私の中に蛇が巣食っていて、雨になると騒ぐのだ」 ある夜、信長はそういった。 まさにその言葉通り、雨の夜の信長は、魔性の蛇のようだった。 自身の快楽を追及し、いつまでも貪欲に拾阿弥を求め続けた。 拾阿弥は、信長を想って、夜が来るのを待ちかねた。 「も、っと……強く……」 「くっ」 「駄目だ……もっと、深く突け」 思ったとおり、夕方から雨になったこの夜、信長は激しく拾阿弥を求め続けた。 「あっ…んっ……」 「信長様……」 「まだ、だ……」 「もう」 「まだ……許さぬ……」 しらじらと夜が明け、雨音が聴こえなくなるまで信長の狂態は続いた。 次の日もまた、夕方から雨だった。 拾阿弥は昨晩の狂宴を思い出し、とても連日はもたないと考え、棚の奥からあるものを取り出した。堺の貿易商から密かに手に入れていた媚薬。 一物に塗れば為す方は持続力が増し、為される方は死ぬほどの快感に身悶える――と、その商人は下卑た笑いを見せて言った。 その夜、拾阿弥はその媚薬を懐に忍ばせて閨中に侍った。 「んっ……はあっ」 信長は、すぐに拾阿弥が何か薬を使ったことを知った。 身体の中が焼けるようだ。 幼い日に駿河の今川義元に施された緑鶯膏。 遠く聴こえる雨音に、十五の記憶がよみがえる。 暗闇に白い顔が浮かぶ。 『そなたが、尾張の吉法師か。うつけのふりは、楽しいか』 切れ長の瞳、赤い唇。 『欲しい、と、入れてくれ、と言い……』 (義元…さま……) 「ああっ」 腰を高く突き上げて信長は身悶えた。 拾阿弥は、薬の効果に満足し、汗を滴らせながら信長を穿ち続けた。 「くっ…」 「ああ…っ……はぁっ…」 脱ぎ捨てられた自分の着物を硬く握り締め、歓喜の涙を零しながら信長は絶頂の瞬間に叫んだ。 「義元、さまっ……」 苦しげに叫んだ信長の声に、拾阿弥ははっと身を強張らせた。 (義元というのは……あの、駿河の今川義元か?) 織田家にとっては敵ともいえる戦国大名の名を、何故? 不審に思う暇も無く、その叫びと共に自身を解放した信長の後ろの締め付けに、拾阿弥もすぐに果ててしまった。 拾阿弥が自分自身を信長の中からずるりと引き抜いたとき、信長は小さく喚いたが、その濡れた瞳の奥に灯った青白い焔までは、拾阿弥に気づかれることは無かった。 明け方、信長は気だるい身体を横たえたまま、拾阿弥に言った。 「槍の又左を知っておろう」 「前田利家殿でございますね」 「その者の笄を盗んでみろ」 「何を、ですか?」 「笄だ」 信長の突然の言葉に、拾阿弥は首をかしげた。 「何故、そのようなものを」 「みごと盗めたら、城をやろう」 「お戯れを」 「出来ぬか」 信長は、熱に潤んだ瞳で拾阿弥をじっと見つめた。赤い唇が薄い笑いを刻んでいる。 「いえ……」 拾阿弥は、ゴクリと喉を鳴らした。 笄が盗まれたと知って、利家は烈火のごとく怒った。 御屋形様から頂いた大切な笄だ。そのことは秀吉以外には話していなかったが、利家がその笄を大切にしていることは、みな知っていた。 盗んだ犯人は、すぐにわかった。 「拾阿弥だと?」 利家はすぐさま拾阿弥を呼びつけたが、拾阿弥はのらりくらりとかわす。 拾阿弥にしてみれば御屋形様の命でやったこと、いくら利家が騒いだところで痛くも痒くもない。 「それは拾ったのでござる」 「嘘をつけっ!」 刀に手をかけ斬りつけんばかりの利家に 「まあまあ……まて、又左」 拾阿弥とも親交のあった佐々成政が割って入って口添えした。 「拾阿弥は、御屋形様のご同朋衆だ。成敗するにしても、御屋形様にお伺いをたててからだろう」 利家が刀の柄から手を離すのを見て、拾阿弥はクッと笑った。 「何だ?」 佐々成政が振り返る。気心知れた人物の問いかけに、その場が収まった安堵も加わって、思わず拾阿弥も素直に応えてしまった。 「此度のことは、御屋形さまのお戯れ。お伺いをたてれば許してやれとおっしゃることでしょう」 その言葉に、利家は目を見開いた。 「御屋形様が?」 ゆっくりと振り向く。 拾阿弥の目を見て、再度尋ねた。 「御屋形様が、この笄を盗めと言ったのか」 拾阿弥はゾクリと背中を震わせ、頷いた。 利家は、その直後抜刀した。 「又左っ?!」 「ひっ」 「きゃあああっ……」 一瞬のうちに、利家は拾阿弥を斬り捨てた。 辺りが騒然とする中、利家は何事も無かったかのように懐紙で刀を拭って納めた。 拾阿弥は信じられないように目を見開き、宙を睨んでいる。いや、その目にはもう何も映ってはいない。額から胸にかけて見事な一筋の太刀痕。赤い染みが廊下に広がっていく。 「又左、なんと言うことを……」 成政が声を震わせた。 「御屋形様が、何とおっしゃるか……」 成政の声も聴こえないかのように、利家はその場を後にした。 利家は、すぐに信長に呼び出された。人払いされた部屋には二人きり。 信長は脇息にもたれて利家を見た。 「拾阿弥を斬ったか」 「はい」 「拾阿弥は、私の可愛がっていた同朋衆だ。何故、そんな真似をした」 「御屋形様が、そう望まれたからです」 利家の言葉に、信長は目を細め唇の端を釣り上げた。 「私が、望んだだと?」 「はい」 「馬鹿な……犬、お前は明日より出仕に及ばず」 「…………」 厳しい信長の言葉に、利家は黙って頭を下げた。 清洲城の信長の部屋。 入ることを許されている数少ない臣下柴田勝家が、信長の前に進み出て言った。 「御屋形様、又左…いや、前田利家のことですが……」 「何だ」 「出仕ならずとは、あまりに厳しいご処置。あの者は織田家に必要です」 勝家の言葉に、信長は口許を微かに緩めた。 「荒子の城にて、御屋形様から再仕のお声がかかるのを待っておりまする」 「そうか……」 「あれほどの人物は、そうそうおりません」 (確かに……) 信長は内心で頷いた。 あの夜、自分の心の闇を覗き見た拾阿弥。自分が切って捨てても、切腹を命じたとしても、煩わしい噂をたてられただろう。 だから命じたのだ。利家の笄を盗んでみろと。 『御屋形様が、そう望まれたからです』 真っ直ぐに自分を見つめた黒い瞳を思い出し、信長は微笑んだ。 「御屋形様」 「そうだな……私は、家臣に恵まれている」 信長はゆっくりと右手を上げて、勝家を手招いた。 傍に寄る勝家の顔にその長い指を滑らせ、信長は赤い唇を歪めて囁いた。 「私の可愛い犬だ。そのうち飼い戻そう……」 反らされる白い喉に目を奪われながら、勝家は 「それが良うございます」 低い声で呟いた。そして、誘うように開いた信長の口を吸う。 やはり、命を預け合う臣下でなければ駄目だ。この身を任せるには。 信長は勝家の腕に抱かれながら思った。 (いつか……) あの腕にも、抱かれる日が来る。 忠犬のような瞳の、誠実な男。 (利家……) その日を想い、信長はうっとりと瞳を閉じた。 完 60000ヒットありがとうvv 2003.3.15 |
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