江戸城、奥の庭。
緑の松も白い砂も何も変わらず主を迎えてくれた。
けれども吉宗はその庭に、以前のような輝きも落ち着きも見出すことができずにいた。
「上様」
ぼんやりと庭を眺めていると、後ろから将軍御側御用取次(おそばごようとりつぎ)役の加納五郎左衛門が控えめな声をかけた。
「大岡殿が、お見えです」
その言葉に吉宗は自分の心臓が跳ねるのを感じた。
「失礼致す」
いつになく遠慮のない態度で大岡越前守田忠相が歩を進めてきた。
吉宗は勤めて平静を装いながら振り返った。
「どうした、忠相」
「以前より調べております米相場の件で」
「それなら、爺に……」
と、傍らの五郎左衛門を目でさすと、忠相は厳しい声を出した。
「上様」
吉宗ははっとして、それでも忠相の顔を見ることはかなわず庭へと目を逸らす。
「上様、いかがなされました。以前の上様でしたらこのような大事をひとに任せてしまうようなことはございませんでした」
忠相の詰問に、吉宗は苦渋に歪む顔を見られないようゆっくりと背を向けた。
「爺、すまない。私は気分が優れぬ。忠相の報告を代わって聞いてくれ」
「はい」
「上様っ」
「さ、大岡殿」
「お待ちください、上様」
忠相の呼び止める声を背中で聞きながら、吉宗は自分の部屋へと帰った。



「う……あっ……あ、た、忠相っ……あ……ああっ」
夜中、吉宗は自分の声に目を覚ました。じっとりと寝汗をかいている。体中が火照っていて、自身の中心は大きく熱をはらんでいた。
「…っ」
自分の身体のあさましさに、吉宗は唇をかんだ。
(忠相……)
尾張中納言宗春に攫われ、さんざん弄ばれた吉宗の身体は、独り寝を耐え切れないほど淫乱なものに変えられていた。
夜になると身体が疼いた。あの鬼面の与えてくれた快感を欲して、滾るような熱が身体中を駆け巡った。
将軍として伽を命ずることのできる女人はいくらでもいたが、吉宗の欲しているものは女人に与えられるものではなかった。
自分の身体を穿つ力強く熱い楔。自分を滅茶苦茶に翻弄してくれる逞しい身体。
天下の八代将軍徳川吉宗ともあろうものが、そんなものを欲しているなど誰に言えようか。
吉宗は、何とかして以前の自分に戻りたいと苦悩していた。
しかしながら、昼間忠相と会ってしまうと夜には必ず夢を見た。
忠相に抱かれる夢。
あの日、暗い海の船底、催淫薬が見せた幻の中で、吉宗は忠相に抱かれた。
自分の尊敬する男を汚してしまったことに吉宗は泣いた。
けれども忠相に抱かれるという妄想はその後も吉宗の中に巣食って消えることがなく、夜になると甘美で酷な疼きを与えてくる。
(だめだ……)
吉宗は頭を振った。
忠相の夢を見ないですむように、なるべく顔を合わせぬようにしていたが、それも限界に来ていた。
忠相もおかしいと思っている。
どうしたら良いのか。
吉宗は自分ではどうにもならない身体をもてあまし、また眠れぬ夜を過ごした。


(おかしい……)
大岡越前守忠相もまた眠れずにいた。ほの暗い明かりを灯した呉服橋の役宅で机に向かい、吉宗の顔を思い浮かべる。
(上様が自分を遠ざけている気がする。あの上様が……)
忠相と吉宗は紀州藩からの付き合いだ。付き合いという言葉がふさわしくなければ、その当時から忠相は吉宗の腹心の部下である。紀州藩主から天下人になったとき、吉宗は異例ともいえる人事を押し通し、忠相を江戸南町奉行へと抜擢した。以来、吉宗の傍にはいつも忠相がいた。吉宗の政道を誰よりも理解し実行してきたのは忠相であるという自負もある。
(……それなのに)
忠相は聡明な額に手を当てうつむいた。
あの事件があってから、無事戻ってきた吉宗の考えていることがわからない。
こんなことは、初めてだった。


* * *

ある夜、吉宗は久しぶりに徳田新之助として町に出ようとした。
あの事件以来、市井に混じることは五郎左衛門から固く禁止されていたが、身体をもてあまして眠れぬ夜を過ごすくらいなら、懐かしい辰五郎やおさい、め組の面々の顔を見てほっとしたかった。
彼らの心配を取り払うのに、助け出された後助八に頼んで、自分は上方の親類宅で養生していることにしていた。
尋ねていったら喜んでくれるだろう。
そう思うと、吉宗の心も久しぶりに弾んだ。

堀をつたって抜け出す秘密の扉に向かっていると、
「上様」
突然、呼び止められ吉宗はぎくりと振り返った。
「た、忠相……」
忠相の、男らしく厳しい顔が吉宗をじっと見た。
「どちらへ」
「どこでもいいだろう。お前こそ、こんな時間に何を」
「上様を、心配いたしまして」
忠相の言葉に、吉宗の頬に朱が散った。けれども、突き放すように
「かまうな。忠相」
吉宗は踵を返した。
「お待ちください」
忠相が吉宗の腕を掴んだ。
痺れるような衝撃が吉宗の身体を襲った。
「触るなっ」
振り向きざまに手を振り払うと、忠相の驚愕に眉を顰めた顔と目が合った。
「あ……」
「うえ、さま……?」
忠相が唇を震わせた。
吉宗は一瞬その顔を見つめ、すぐに黙って駆け出した。
「上さまっ!」


徳田新之助として侍の姿になっても、吉宗の心臓はまだ鼓動を早くしたままだった。
掴まれた右腕が、まだ熱を持っているように感じる。
先ほどの忠相の驚いた顔が脳裏に浮かぶ。
(忠相……)
ぼんやりと歩いていると、前方から来た男とぶつかってしまった。
「あ」
「おっと」
チャリンチャリンと金の落ちる音がした。男が低い声で怒鳴る。
「てめえ、どこ見て歩いてやがる」
「す、すまない」
吉宗はとっさに転がってきた銭を拾った。薄暗い中で差し出された手にそれを乗せようとして、はっとした。
(手……)
細く長い指。関節の骨の形、爪の形まで、知っている手にそっくりだった。
(忠相)
吉宗は顔をあげ、その男の顔を見た。
忠相ではない。自分より三つ四つ上くらいだろうか、男らしいがどこかすさんだ風情の侍だった。
「何でぇ?」
「あ、いや」
銭を手のひらに乗せると、その男は軽く手の中でそれを鳴らして懐に入れた。そのまま通り過ぎようとするのに、吉宗はつい声をかけた。
「待て」
「ああ?」
男が眉間にしわを寄せて振り返る。
「もし、良かったら…酒を馳走しよう」
「なんだって?」
「ぶつかってしまった……お詫びに……」
吉宗は、自分が何を言っているのかわからなかった。
どうしてこんな男に、声をかけているのか。
「ぶつかったって……へっ、お前さん、なんかいい儲け話でも持ってんのかい」
「いや……」
「まあ、いいやな。飲ませてもらえるんなら、大歓迎だぜ」

四半刻後、大川河川敷の小汚い屋台に二人は並んでいた。
「馳走しようとか言うから、どっかうまい店でも知ってんのかと思ったら」
「すまない」
結局、ここには男につれて来て貰った。
「ま、いいって。この屋台は、見た目はこんなだが、酒もつまみもこの通り美味いんだよ」
「見た目はこんなは余計でしょ、旦那」
「見た目きたねえってはっきり言ってやりゃよかったか」
「まいったねえ」
言いながら、屋台の親父は男の差し出す湯飲み茶碗に二杯目の酒を注いだ。
吉宗はその茶碗を掴む男の指をじっと見ていた。
(似ている……)
指も、甲も、そして着物の袖口から伸びる腕に綺麗についた筋肉まで、忠相のそれによく似ていた。


男の名前は源四郎といった。もとは貧乏御家人の四男坊だったが若い時分に家を出て、渡り中間をしているということだった。渡り中間というのは、当時大名は家の体裁を整える為に奉公人を一定数雇わないとならなかったのだが、人手不足の折は口入屋の紹介で短期だけの奉公人も雇い入れた。そういう口入屋の紹介であちこちの屋敷に勤めるものを、奉公先を渡り歩くので渡り中間と言い、彼らの多くは昼間働かず夜になるとその大名の下屋敷で博打を打って暮らしていて、決して良い素性とは言えなかった。
余談だが、中間は二本差しも許されず年俸が三両一分で『サンピン』という蔑称はここから来ている。
「今は、内藤駿河守様のお屋敷さ。本当は今日もそこで金を増やす予定だったんだが」
「そうか、それでは、さそってすまなかった」
「何、言ってんでえ。酒おごってもらったほうがいいに決まってるじゃねえか」
源四郎はおかしそうに笑った。
「そうか」
吉宗もほっとしたように笑った。その顔を見て、源四郎は薄く目を細めた。目の奥に妖しい光がともる。
「まあ、旦那も飲みな」
「新之助でいい。源四郎殿」
「それこそ源四郎殿はやめてくれ。新さんよ」
吉宗の茶碗にも酒を注ぐ。
そして、吉宗がその酒をクッと空けるのを見て、源四郎は耳元に唇を寄せて囁いた。
「お前さん、男、好きなんだろ」
吉宗の身体に、カッと熱が生じた。


気がついたら河川敷の叢の中に連れ込まれていた。
屋台の親父に金を払って立ち上がったのも覚えてない。
源四郎に肩を抱かれるようにしてフラフラと、真っ暗な叢へ促されるままに歩いていた。
地面に転がされ、圧し掛かってくる源四郎を見上げる。月が雲に隠れてしまったので、その源四郎の表情も見えない。
源四郎の指が袷にかかった時、あの忠相に良く似た指を思い出して、吉宗は身体を震わせた。
「すぐわかったよ。俺はそういうの得意でね」
源四郎は吉宗の着物をはだけると、夜目に浮かぶ白い肌に指を滑らせた。
「ああっ」
吉宗の唇からすぐに甘い声が漏れた。
「思った通り、いやらしい身体だ」
源四郎が胸の突起を口に含むと、吉宗は自ら彼の頭を抱いた。
忘れていた――いや違う、忘れようとしても忘れられずにいた――待ち望んで夜な夜な身体を苛んでいた甘い刺激が与えられ、吉宗の身体は歓喜にうち震えた。
源四郎の舌が、胸の突起を押しつぶし、転がし、そして擦りあげる。ぴちゃぴちゃという卑猥な音が静かな闇の中に響く。
「んっ、ああっ……はあっ……」
「こうして欲しかったんだろ」
源四郎は舌で吉宗の胸を愛撫しながら、右手を下へと伸ばした。
「あっ、や」
「いや?」
ぎゅっと握られて吉宗は首を振った。自身の先はもう透明な液を流しつづけ、次の刺激を待ち望んでいる。
「いやらしいな。旗本のお坊ちゃんがこんなに淫乱でいいのかね」
「んっ、ん……」
源四郎の左手が吉宗の頬を撫で、唇をこじ開けるようにして口中に入ってきた。
(あっ……)
忠相と同じ手に犯されている。
倒錯した思いに震えながら、吉宗はその指に舌を絡めた。
まるで男の一物を愛撫するように丁寧に舌でなぞり吸い上げる。そのいかがわしい舌の動きに、源四郎は喉を鳴らして喜んだ。
十分に唾液を絡めたその指を後孔に差し込むと、そこは何の抵抗も見せずにそれを飲み込んでいった。
「はっ、ああ……あ、あああっ……」
ずぶずぶと飲み込んだ指の感触に、吉宗は甘い喘ぎを際限なく漏らし続ける。内壁を擦られる度に溜まっていく熱が、もっと強い刺激を求めた。
「もっ、と……」
吉宗は自ら足を高く上げ、源四郎の背中に両足を絡めると腰を浮かせた。
「せっかちだな。待てよ」
源四郎は身体を起こして、吉宗から一度離れて下穿きを脱いだ。

「あっ、ああっ……あ、うっ……ああ……あ……」
四つん這いにさせられ腰を高く持ち上げられた吉宗は、地面に頬を押し付けて間断なく喘ぎ続けていた。腰を打ちつけられるたびに卑猥な音が響くのも、吉宗の耳には聞こえてはいない。
僅かに知覚するのは、草の匂いに自身がもう何度も放った精液の匂いが入り混じった青臭い匂い。それが、なおさら妖しい薬のように吉宗を陶酔させた。
「ああっ、あっあっ……」
「くっ……」
源四郎も耐え切れず
「いく、ぜ」
何度目かの絶頂を迎えた。
弛緩した身体が背中に覆い被さる。その重さに、吉宗はゆっくりと意識を取り戻した。
源四郎が身体を離すと、ずるっとした感触とともに、吉宗の下肢を源四郎の精液が流れつたった。
「スゲエな」
源四郎が地面に仰向けになったまま言った。
「お前さん、旗本の部屋詰なんかやめちまって芳町に行ったらどうだ。男高尾太夫って江戸中の男が拝みにくるよ」
ぼんやりと源四郎の言葉を聞いて、吉宗はクスリと自嘲の笑みを洩らした。
(男高尾……そうだな……それが似合いだ……天下人などやめて……)
「冗談だぜ」
源四郎は身体を起こして吉宗の顔を覗き込んだ。月明かりの下、情事の後の顔はたまらなく艶かしい。
「もったいなくて、他の奴らにゃ渡せねえ」
愛しげに自分の頬をなでる指先に、吉宗は再び別の男を想った。
こんな姿を死んでも見せられぬ、真面目で気高い男を。




別れ際、源四郎は連絡先をよこした。
「深川島田町の傘屋の爺さんに言ってくれりゃあ、すぐにつなぎを取ってくれらア」
そう言われたところで、吉宗は二度と源四郎に会う気は無かった。
自分でもどうかしていたのだと思う。
見ず知らずの男と河川敷の叢の中で獣のようにまぐわったなど。
江戸城に戻った吉宗は、あの夜のことを悪い夢だとして忘れようとした。
けれども夜になると身体があの腕を思い出した。
一度与えられた快感を欲して、身体は貪欲にあの腕を、熱を、求めていた。
「う…っん、あ……あっ……」
身をよじって目を覚ます。
天井に映るのは、忠相の顔。そして、思い出すのは源四郎の腕、指先、熱い楔。
額の汗を拭って、吉宗は身体を起こした。


「新之助」
呼び出された源四郎は、走ってやって来た。
「二日も連絡が無いから、どうしたかと思ったぜ」
「すまなかった」
「いいって……この前は、変なところで無理させちまったからな。あとで考えて、ちっとばっかり……」
そして、吉宗の肩に腕を回して、促すように歩き始めた。
「これからはちゃんとしたとこでやれるからな」
(ちゃんとしたところ?)
吉宗は僅かに眉を顰めた。
心配したものの、そこはごく普通の一軒家だった。商家の寮(別宅)の多い地域にあるところを見ると、これもどこかの大店の寮なのかもしれない。案の定。
「呉服の近江屋正兵衛の妾が住んでいたところだよ」
「その人は?」
「その旦那と一緒に上方に行ってる」
「なぜ、その者の家を」
「使っていいって言われたんでね。その妾に」
思わせぶりに言うその言葉に吉宗が怪訝な顔をすると、源四郎はニヤリと笑った。
「俺の姉でね。妾ってのが」
畳の上に吉宗を押し倒して
「ちったあ、妬いたかい?」
襟を広げて鎖骨に口づける。
吉宗はそれには応えず、ゆっくりと瞳を閉じた。



その夜から吉宗は三日と空けずに源四郎に会いに行った。
行くべきではないと頭ではわかっているのに、身体が麻薬に冒されたかのように言うことをきかない。
そして、吉宗の様子がおかしいことに、大岡越前守忠相が気づかぬはずが無かった。



「よいか、助八。このようなことを頼むのは、まことに心苦しいものだが」
「わかっております」
「くれぐれも慎重にたのむ」
「はい」
お庭番薮田助八の姿が闇に消えると、忠相は小さく息をついた。
今日も、吉宗は姿を変えて市井に出かけている。
(以前の上様に戻ったというのなら、それでもいい……)
しかし、江戸城で見る吉宗は以前の彼ではなかった。
まだ具合が良くなっていないのだと五郎左衛門は言う。しかし、本当に体調が優れないのなら、どうして夜になると城を出て行くのだ。
そしてまた、どうして吉宗は自分のことを避けようとするのか――その理由がどうしてもわからなかった。
思い余って、忠相は助八に探らせることにした。吉宗が一体何をしているのか。自分に何を隠しているのか。
吉宗直属のお庭番をその主を探る為に使うなどとは本来考えられない仕業であるが、忠相にはもう他に手はなく、助八もまたそんな忠相の気持ちを痛いほどに理解する男だった。

吉宗の、最近では透き通るほど白くなった静謐な顔を思い浮かべて、忠相は再びため息をついた。
(上様……)


助八からの知らせは、思いのほか早かった。
そしてその内容は、忠相を愕然とさせるに十分だった。
「ま、まさか……上様が、そのような……」
蒼白になっていた忠相の顔に、次には血が上ってくる。
「何かの、間違いだ」
顔を赤くして吐き捨てるように言う忠相に、うつむいたまま助八は答えた。
「私も、そう思いました―――なれど……」
「言うなっ」
文机にあった硯を投げつける。
忠相には珍しく、感情が抑えきれなくなっていた。
「信じぬ……」
吉宗が、渡り中間に抱かれているなど―――。



二日後、徳田新之助として江戸の夜を歩く吉宗の後ろを、密かに二つの影がつけた。
吉宗が一軒の家に、吸い込まれるように入っていくのを見届ける。
「この、家か……」
「間違いございませぬ」
助八の返事に、忠相はギリッと唇を噛んだ。
間違いであって欲しいと願った。
何かの間違いだと。
「……ここで待っていろ」
忠相は、そう言い捨てるとその家に近づいた。


「ん、あっ、待て……」
忠相の耳にかすかに聞こえたそれは、聞き間違うことも無い吉宗の声だった。
「焦らすなよ」
「あっ、んっ」
「ほら、お前だって十分その気になってるじゃねえか」
「やっ……あ、あっ」
下卑た男の声の合間に聞こえるのも吉宗の声なのか。
(上様っ)
身体中の血が逆流する思いで、忠相は唐紙障子を開けた。

派手な音を立てて障子が開いたので、横たわっていた吉宗も源四郎もはっと振り仰いだ。
忠相の姿を見て、吉宗は心臓が止まりそうになった。
「なんでえ、お前はっ」
源四郎が、枕もとに置いてあった刀を掴んで立ち上がった。
それより早く忠相は腰のものを抜いていた。
白刃がきらめいた瞬間、吉宗が叫んだ。
「殺すな、忠相っ」
振り下ろされるかと思った刃が、間一髪で逸れた。
その一太刀だけで源四郎はこの目の前の侵入者が只者ではないことを察して、次の瞬間、部屋を飛び出した。
「待てっ」
「追うな、忠相」
吉宗の言葉に、足を踏み出しかけていた忠相は、ゆっくりと刀を腰に納めた。
どうせ外には薮田助八がいる。助八なら上手に始末をするだろう。忠相はそう考えながら、吉宗の方を振り返った。
吉宗は、まだ力無く座り込んだままだった。
「上様……」
忠相の言葉に、吉宗は慌てて着物をかき合わせた。
羞恥に染まった顔をうつむける。
その姿もあまりに艶かしく、忠相も言葉を失い、二人黙ったままその場に固まった。
沈黙に耐え切れず口を開いたのは吉宗だった。
「どうして……忠相……」
うつむいたまま声を震わせる。
「どうして……」
忠相もまた、吉宗と同じ言葉を繰り返した。
「どうして、このような……」
そっと自分の傍に近づいた忠相に向かって吉宗は叫んだ。
「殺せっ」
じっと見上げる目には滂沱の涙が溢れ出す。
「いっそ殺してくれ、忠相、お前の手で」
「上様」
「このような穢れた身体、お前の手で消してしまってくれ―――そして、御三家のどこからでもいい、天下人にふさわしい人物を選んで―――将軍は、八代将軍吉宗は、流行り病で死んだとでも―――」
「上様っ」
泣き叫ぶ吉宗を忠相はきつく抱きしめた。
吉宗のからだが、ビクッと震えた。
「天下人にふさわしい人物とは、上様にほかなりません」
「やめろ、さわるな、私は、この身体は、穢れているのだ」
忠相の腕の中で、吉宗は身じろいだ。
「離せ、忠相っ、離せ」
「上様が、落ち着かれるまで、離しませぬ」
「忠相っ」
吉宗が悲痛の叫びをあげるのを両腕で包み込んで、忠相は吉宗が大人しくなるのをただひたすら待った。
「うっ……う、ふっ……」
吉宗の叫び声が、喘ぐような啜り泣きへと変った。
「上様……」
「た、忠相……」
「上様、お話くださいますね―――この忠相に、全て」
「……お前には……知られたくなかったのだ……あの攫われていた間……私がどんな目にあっていたのかなど……」
「上様?」
心配そうに覗き込む忠相の顔を見返し、吉宗は諦めたように瞳を閉じた。


ゆっくりと吉宗は語った。自分の身に起きたことなのにまるで他人ごとのように、とつとつと何の感情も無いかのように語った。
忠相の方が、いたたまれなくなった。
「上様、もう結構です。もう……」
吉宗の身体を抱きしめる。
忠相の胸の中で、吉宗はぼんやりと言った。
「聞け、忠相―――お前は、聞かねばならない」
吉宗は、死を覚悟した。
「私の最後の言葉を聞いてくれ」
「上様?」
「私が、その鬼面に抱かれながら――そして、源四郎に抱かれながら――何を思っていたと思う?」
吉宗の泣きはらした瞳から、もう一度、一筋の涙が零れた。
「お前に、抱かれる夢を見ていた―――」
忠相は、息を飲んだ。
「私は、お前が好きなのだ――忠相」
吉宗はそっと忠相の腰に手を伸ばした。
そして呆然としている忠相の腕を振り解いて、一瞬にして忠相の脇差を抜いた。
それで自分の咽喉を突こうとして、飛んできた石に脇差を弾き飛ばされた。
「うっ」
「ご無礼仕る」
薮田助八だった。
忠相も我に返って、弾かれた脇差を拾うと、吉宗の手の届かないところまで投げ捨てた。
「何をする」
吉宗が再び叫ぶ。
「忠相っ」
「吉宗様っ」
忠相が吉宗の両肩を掴んで叫び返した。
「私も吉宗様をお慕い申しております」

吉宗が唖然とした。

藪田助八は、咳払いして闇に消えた。

「た、だ、すけ?」
「上様を、お慕い申しあげております」
忠相の真摯な瞳が吉宗をじっと見つめた。
「なぜ、もっと早くご相談いただけなかったのです。そうすれば……」
あんな渡り中間の出番など無かったものを、と忠相は奥歯をかみしめた。
吉宗は突然恥ずかしくなり、真っ赤な顔でうつむいて忠相の胸に顔をうずめた。
「そんな……まさか……」
忠相の着物を握り締める指先が震える。
忠相はそれに気がついて、そっとその指に自分の手を重ねた。
「上様」
「忠相」
指先から身体が火照ってくる。
じんじんと痺れるような感覚が、吉宗の瞳を潤ませる。
誘うように唇を開くと、忠相のそれが重なる。
(忠相……)
柔らかな舌を絡ませあいながら、吉宗は薄く目を開けた。忠相の端正な顔がある。夢ではない。
(忠相……)
吉宗は、もう眠れぬ夜を過ごすことは無いのだと知った。









こんな話でしたが、お読みいただいてありがとうございます。
しかも最後が妙にギャグになっていないかい?なんてな突っ込みも大歓迎。
よろしければ、みなさまのご意見ご感想などをお寄せくださいませvv



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