一條(いちじょう)あまねは、可愛かった。くっきりした二重まぶたの大きな瞳、薔薇色の頬、さらさらの髪は肩で綺麗に切りそろえられ、笑うと天使のようだった。良いところの子供らしく決して汚い言葉を使わず、子供なのに品があった。
 五歳年上のご近所さんだった須藤敦人(すどうあつひと)は、子供心に「僕があまねちゃんを一生守ってやるんだ」と切実に思った。事実、あまりの可愛らしさのためか、幼稚園の年長さんたちからいじめられているという話を聞いて、敦人は、小学校の集団登校を抜けてまであまねと一緒に通学した。いっぱしのボディーガードのつもりだった。
「あつひとお兄ちゃん、ありがとう」
 自分の指先を握った小さな手の感触は、今でも甘酸っぱい想いとともによみがえらせることが出来る。
(ああ、それなのに……)
 啄木よろしく、ジッと手を見たそのとき、
「あっちゃん先生」
 野太い声とともに、ガラリと音をたててドアが開いた。入ってきたのは高校生らしくニキビで顔をボコボコにしている三年生の佐々木だ。このところ毎日、この保健室にやって来る。
「腹痛いんだけど、休ませて」
「ああ、でも、ベッドは二つともうまってるんだよ」
 敦人は、カーテンの向こうにチラリと目をやった。一時間目の始まる前から、頭が痛いとかお腹が痛いとか言って、生徒が入れ替わり立ち代りやってきている。
「誰が寝てんだよ」
 佐々木は敦人の机の上にある保健室利用者名簿を見て、下から二番目の「二年B組石田守」の方に目星をつけた。
「おい」
 奥のカーテンをシャッと開く。
「あ、すいません」
 頭が痛いと言っていた二年の石田が起き上がる。
「いつから寝てんだよ。何時から」
 とても病人とは思えない顔で佐々木がすごむと、
「あ、えと、二時間目の終わった休み時間から」
 てへへと、やはり病人に見えない顔で石田は頭をかいた。
「もういいんじゃねえの」
 佐々木がドスを聞かせると、
「そうですね」
 お先に失礼しますと、ベッドを降りる。
「あ、おい、本当にもういいのか」
 敦人が心配そうに尋ねると、
「はい、あっちゃん先生、またね」
 石田は嬉しそうに頭を下げた。
(またね、って……)
 ぼんやり見送っていると、
「あっちゃん先生、頭痛えんだよ。熱あるんじゃねえかな、俺」
 空いたベッドにさっさと腰掛けた佐々木が、クイクイと白衣の裾を引く。
「ああ、大丈夫?」
 敦人は、佐々木の額に手を当てた。入ってきたときには腹が痛いと言っていたはずだが、敦人は気づいていない。
「熱は無いようだけど」
「ええっ、そんなはずねえよ。ちゃんと見てくれよ」
「うん」
 と、引き出しから体温計を出そうとすると、
「いや、そうじゃなくってさあ」
 佐々木はでかい図体で、子供のように身体を揺すった。
「そうじゃなくて、どうなんですか? 佐々木君」
 敦人のものではない。張りのある声が保健室に響いた。
「げっ」
 振り向くと、長髪の美貌が微笑んでいる。
(あ……)
「一條」
 敦人は、思わず「あまね」と声をかけそうになったのを慌てて抑えた。
「どうした。君もどこか具合が悪いのか」
 敦人の言葉に、一條は微笑を深くした。けれどもその目は笑っていない。
「そうですね、具合も悪くなります。このところの保健室の盛況振りを見ると」
「あ、それじゃ、俺は……」
 佐々木が大きな身体を屈めながら保健室を出て行こうとする。
「えっ? 佐々木、熱は?」
 体温計をかざして見せたけれど、佐々木は「いいからいいから」と言うように手を振って出て行った。
「あ、僕も治りました」
 もう一つのベッドで寝ていた生徒も起きて来ると、
「失礼します」一條の横を、下を向いたまますり抜けた。
「君は確か二Aの安藤君ですね、委員長の」
 一條が声をかけると、その背中がビクッと震えた。
「あ、はい」
 遠慮がちに振り返る。
「生徒の範たるべき委員長が、保健室の常連とは感心出来ませんね」
「そんな、常連なんて」
 安藤が顔を赤くすると、一條は利用者名簿を細い指先でパラパラとめくった。
「少なくともこの二週間で三回。常連という言葉に語弊がありますか」
「…………」
 返す言葉の無い安藤に、敦人が助け舟を出した。
「いいじゃないか、一條。安藤は身体が弱いんだ」
 一條の大きな瞳がさらに見開かれた。その隙に安藤はペコッと頭を下げて、逃げるように出て行った。
「須藤先生」
 一條は大げさにため息をついてみせると、利用者名簿の分厚い束をこれ見よがしに振りながら言った。
「安藤が、身体が弱いですって? 彼の健康診断表はちゃんと見ているんですか? 僕は彼とは去年から委員会で一緒ですけれど、冬でもTシャツで通学するような生徒でしたよ」
「それで風邪を引いたとか」
「一月に風邪を引いて、五月に保健室通いですか」
 一條は、呆れた声を出す。
「ごめん、冗談だったんだけど」
「面白くありませんね」
 冷たく言われて、敦人はうなだれた。

(これが、あの、あまね……)
 小学生の自分が命にかえても守りたいとまで思った少女は、実は少女ではなかった。そのことを知ったときの衝撃は大きかったが、それでも『小さなあまね』は可愛くて、守るべき対象だった。少なくとも自分が引越しをしてこの町を離れることになった中学三年の冬までは。
(あんなに可愛かったのに)
 目の前のあまねは、自分よりはるかに背が高くなっていて、こうして見下ろされるとどっちが年上だかわからないほどの迫力がある。八年の歳月は、こんなにも人を変えてしまうものか。相変わらずくっきりした二重の瞳は大きく髪もサラサラだけれど、笑った顔は天使というより悪魔のそれだ。敦人の意見じゃない。全校生徒が言うのだ。生徒会長一條あまねの微笑みは、にっこり笑って人を切る、氷の刃だと。

「須藤先生が赴任してきてから、保健室の利用者が増大していて、生徒会でも問題視しているんです」
「そうなんだ」
 確かに、毎日次々とやって来る生徒に、敦人は少しばかり不安になっていた。この学校は虚弱体質の集まりなのかと。しかしそれは今年になってからだと言う。
「何故だかわかりますか?」
「うーん、みんなが急に身体が弱くなったってことは考えられないけど……」
 敦人は腕組みして首をひねった。
「やっぱり、僕のせいなのかな」
「ええ」
「お祓いにでも行ったほうがいいかな」
「そうじゃなくて」
 一條の眉間にしわがよる。
「須藤先生が甘やかすからリピーターが増え続けているんですよ」
「僕は、別に甘やかしてなんかいない」
「自覚が無いんですか。余計にタチが悪いですね」
「どういう意味だ」
「先生がそんなだから、頭だお腹だと撫でまわされたい生徒が後を絶たないんです」
「そんなってどんなだよ」
 敦人が唇を尖らせると、一條はクスッと口の端を上げた。
「そんな可愛い顔をしていると、そのうち取り返しのつかないことになりますよ」
「だから、とりかえしのつかないことって、どういうことだよっ」
 敦人がむきになると、
「こういうことです」
 声とともに一條は敦人の両肩を押さえ、保健室のベッドの上に押し倒した。
「な、なな、なに、何っ」
 あっけなく押さえ込まれ、敦人は顔に血が上った。
 上から覗き込む一條の髪が、はらりと垂れて、敦人の頬をくすぐる。
「動けますか?」
 尋ねられて、敦人は首を振った。
 守ってあげたかった少年は、今や力もずっと強くなっているらしい。両肩を押さえられて、片膝を太ももの上に乗せられただけで、敦人の身体はわずかな身じろぎさえ出来なかった。
「こうやって『保健室のあっちゃん先生』を押し倒したい輩で、賑わっているんですよ」
「押し倒す、って……」
 敦人は自分の心臓の鼓動が次第に早くなるのを感じた。
「もう少し貞操観念を強く持って、青少年を刺激しないことです」
 一條は、あっさりと敦人を解放して、長い髪をかきあげた。
 起き上がった敦人はバクバク言っている心臓に焦り、悔し紛れに、聞こえないほど小さな声で呟いた。
「何だよ、小さい時はいじめられて泣いてたくせして」
「そんな四つの子供の頃のことを言われても困りますね」
「うわ、地獄耳。じゃない、あまね、憶えているのか、俺のことっ」
 すっかり素になって敦人が言うと、一條は、今度こそ心底呆れたという顔で応えた。
「当たり前でしょう。何を言っているんですか」
「だって、お前、この一ヶ月ずっと知らんふりしていたじゃないか」
「お互い様でしょう。大体、初めに他人のふりをしたのは、先生、あなたですよ」
「う……」

 そうだ。
 赴任初日、職員室の前ですれ違ったとき、
『あ、須藤先生、紹介しときますよ、これが我が校始まって以来の秀才、生徒会長の×ジョウです。おい、こちらは新しい保険医の先生だ。見た通り大学出たての新任だから、よろしく頼むな』
 いっぺんに紹介を済ませた体育教師のだみ声は、ちょうど名前のところが聞き取れなかった。ただ、秀才、生徒会長、といった言葉が耳に残り、
(はあ、すごいハンサムの生徒会長だ。その上、頭もいいのか)
 天が二物を与えることもあるのだなと、感心しながら挨拶した。
『どうも、はじめまして。須藤です』

 そして、その後の全校集会で、生徒会長の名前が一條あまねと聞いた敦人は、言葉にできないほどのショックを受けたのだ。


「だ、だって、お前、すっかり変わっていたから」
 敦人がモゴモゴと言い訳すると、
「須藤先生は、全然変わっていませんね」
 一條は、すかさず言った。
「どうせ、童顔だよ」
「ええ。それに、天然で、薄情で」
「薄情って何だよ」
「そうでしょう、引っ越すなんて一言も言わずにさっさといなくなって、そして再会しても他人のふり」
「だからそれは、本当にわからなかったんだよ、それに引越しのこと言わなかったのは」
 と、叫んでしまってから、敦人は恥じるようにうつむいた。
「なんです?」
「なんでもない」
 敦人は唇をかんだ。
「言いかけたことを言わないのは、よくありませんよ」
 一條の指が、敦人の顎をつかむ。敦人はそれを振り払って、早口で言った。
「言えなかったんだよっ」
 悲しくて辛くて寂しくて――さよならと口に出したら泣き出しそうだったから。
 五つも年下のあまねの前で泣くなんて、みっともなくて出来ない。
 だから、引越しの前日までずっと悩んで、それでも言えなくて。
 手紙を書いたけれど、自分の気持ちが上手く伝えられなくて、それも破って捨てた。

「言えなくて……でも、言えなかったこと、ずっと後悔していた」
 ポツリと呟いた敦人の頬を、今度は優しく一條の指が撫ぜた。
「ねえ先生、僕が何故髪を伸ばしているか、わかります?」
 突然の問いに、敦人はきょとんとした。小首をかしげる様子は、何となく森の小動物に似ている。一條は、微笑んだ。いつものそれではなく、敦人が思わず見惚れる最上の微笑みで、
「願をかけていたんですよ、好きな人にもう一度会えるように」
 古くさいでしょう、我ながらそう思いますよ。と風のように囁いた。




End

          オールマイティの生徒会長、年上の保険医、幼馴染、逆転、長髪なのは願掛け(笑)などが、チャットでの妄想でした。
          イメージ壊していたらゴメーン。


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