よち宗が十二歳になった年、盛大な鷹狩りが行われた。練り絹の小袖に緋色の陣羽織姿で白馬にまたがったよち宗は、皐月人形のように凛々しく愛らしかったが、ずっと浮かない顔をしていた。 「上様、いかがなさいました?」 忠相が声を掛けると、よち宗はポツリと言った。 「ウサギさん、かわいそう」 「上様……」 忠相は心優しい幼い将軍に頬を緩めかけたが、思い直して、厳しい顔を作って諭した。 「無益な殺生をするのではありません。これは上様が立派な将軍となられるために必要な鍛錬のひとつです」 「馬に乗っているだけなのに、どうして鍛錬になるの」 むずがる子どものように、よち宗が身体を揺らしたその時、 バン! という大きな音が響いて、その小さな身体が馬上から転げ落ちた。 「上様っ!」 「それで、上様は?」 忠相から話を聞き、伊織は青ざめた。切れ長の目が大きく見開かれている。 「無事だ。弾は当たらなかった」 鉄砲の弾は陣羽織の肩飾りを貫通しただけで、よち宗を傷つけてはいなかった。衝撃で落馬したよち宗は、陰に控えていたお庭番の隼人が瞬時に駆け寄り、しっかりと受け止めて助かったのだと忠相は言った。 「よかった……」 伊織は胸を撫で下ろした。 「よくない。天下の徳川将軍が暗殺されかけたのだ」 忠相は唇をキリキリと噛んだ。 「尾張の陰謀に違いない」 8・5代将軍徳川よち宗に対抗する尾張中納言徳川宗春。次期将軍の座を狙っていると言う噂は、江戸城でもささやかれている。 「で、犯人は見つかったのか」 「いや。見つかるまいよ。失敗した時点でこの世にはいないかもしれぬ」 「尾張の諜者か?」 「わからん。あるいは……」 * * * 江戸城に戻ってもよち宗は、隼人に抱きついたまま離れなかった。 日頃からよち宗の甘えん坊ぶりに苦言を呈している御側用人田之倉は、その様子に眉をひそめたけれど、なにしろ命を狙われた後だ。 (本来、お庭番ふぜいに上様を預けるなどと、出来はせぬのだが……) 「上様が落ち着かれたら、分をわきまえて、控えるように」 隼人にそう言い、部屋を出て行った。 「上様、大丈夫ですか?」 誰もいなくなって二人きりになると、隼人は優しく声を掛けた。 よち宗はその腕の中でフルフルと首を振った。 お庭番としての厳しい修行を重ね十七歳になった隼人は、すでに大人の忍者と並んでも引けを取ることのない逞しい体躯の持ち主となっている。それに引きかえ、よち宗はこの二年間さほど大きくなっておらず、同じ年頃の少年たちに比べてもずっと小さかった。 「隼人、よち宗は殺されてしまう」 「いいえ、そんなことはさせません、決して……」 内心、間一髪だったよち宗を思うと身体が震えるが、それをこらえて、安心させるように微笑んだ。 「この隼人が、上様のお命は必ずお守りいたします」 「隼人……」 よち宗の小さな指が、隼人の着物をぎゅっと握り締める。隼人はその指をそっと外して、自分の指を絡めた。 「約束しましたから」 小さな小指を指の先でそっと撫でる。 「約束?」 よち宗は頬を胸に預けたまま、隼人を見上げた。 『隼人は、よち宗のために、命をかける?』 『はい』 「上様は、私が命にかえてお守りします」 「……うん」 よち宗は、隼人の胸の中で小さくうなずいた。 その二日後。隼人は、お庭番頭から重大な密命を与えられた。 「これから尾張に?」 「そうだ。才三や半兵衛たちと一緒に行ってほしい」 徳川宗春の陰謀を暴く――今後もよち宗の身に危険が降りかからないようにするためには火種から消さねばならない、と頭は言った。将軍に対する謀反がはっきりした場合は、たとえ相手が尾張でも、公儀もそれなりの処置が取れる。 「隼人、尾張の忍びも手練れぞろいだ。心してかかれ」 「はいっ」 よち宗の為に命をかけて働ける――それは、お庭番として生まれ育った隼人にとって、これ以上無い喜びだった。 けれども――。 「はやとっ! はやとおおっ!!」 江戸城奥の庭、よち宗が小さい身体を震わせて大声で呼ぶと、 「参上いたしました」 一陣の風とともに、隼人が姿を現した。 「忠相から聞いたっ、隼人、尾張に行くというのは本当か?」 「はい」 「嫌じゃ、嫌じゃ」 よち宗は隼人に駆け寄ると、その胸をポカスカと叩いた。 「そんな危険なところに行ってはならぬ」 よち宗の大きな目からは、涙がポロポロこぼれている。 「上様」 「よち宗は小さいから弾がはずれたのじゃ。隼人は大きいから、弾が当たって死んでしまう」 泣きながら不吉なことを言うよち宗に、隼人は苦笑して、 「大丈夫ですよ、上様」 胸に当たる白い手を包むように握ると、ゆっくりひざまずいた。 「二年前、この庭で約束しましたね」 「う?」 涙と鼻水を垂れ流した顔で、よち宗は隼人を見た。 「私の命は、上様のもの。上様の為に命をかけます」 「駄目じゃ」 いやいやと、大きくかぶりを振る。 「行ってはならぬ」 「上様……」 隼人は胸が熱くなった。よち宗が自分を心配して泣いてくれているというだけで、今ここで討たれて死んでも悔いは無いと思った。 「上様、どこにいらっしゃいますか」 御側用人田之倉がよち宗を捜しに来た。隼人は、ゆっくりとよち宗の手を離し、そして再び風のように消えた。 * * * 品川宿の街道を歩く隼人は、武士の格好をしていた。 「才三さん、どうして俺だけ侍なんですか」 「一番似合っているからだ」 答える才三はそれに従う小者の格好。先輩を従者に仕立ててしまって、隼人は落ち着かない。ちなみに、二人と離れた道を行く半兵衛は虚無僧姿。忍者が変装する場合、多くは僧、旅芸人などに化けるが、隼人の端正な顔や凛々しいたたずまいはむしろ武士の方がしっくり似合って、目立たなかった。 「目立たないのが、一番なんだよ」 そう呟いた才三の耳に、はるか遠くから子供の声がした。もちろん、同じく忍びの耳を持つ隼人の耳にもそれは届いた。 「はやとぉーっ」 よち宗だ。 見る間に、早馬が駆けてくる。手綱をとるのは忠相。その胸の前で小さなよち宗が振り落とされないようにしがみ付いている。 (な、何故……) 才三は愕然とした。目立たないのが一番だと言ったばかりなのに。 「隼人っ」 忠相に助けられて馬から降りたよち宗は、まっすぐ隼人に駆け寄った。 「いや、その、連れて行かないと死ぬと騒がれて……」 忠相は、申し訳なさそうに、誰にとも無く言い訳をする。 才三は呆れて目眩がしたけれど、忍びの誇りにかけて顔には出さなかった。 「う、上様」 呆然とする隼人に、 「約束を取り消しに来た」 よち宗は右手の小指を突き出して叫んだ。 「約束……」 「あの約束は、無しじゃ」 よち宗のために命をかけると誓ったあの約束を、いきなり反古にされて、隼人は少なからず衝撃を受けた。しかし、 「よち宗のために命をかけるという約束は無し。代わりに、よち宗のために命を大事にすると約束するのじゃ」 よち宗の言葉に、持っていた編み笠を取り落とした。 「隼人、決して死んではならぬ。それが、このよち宗との新しい約束じゃ……」 頬を赤くしたよち宗が、潤んだ瞳で訴える。 「上様っ」 たまらず、隼人はよち宗を抱きしめた。 「隼人」 よち宗も、隼人の胸に顔をうずめる。 品川宿を行き交う旅人たちが、いったい何事かと振り返る。 (だから、目立ってはいけないと……) 才三は、恨めしげな目で忠相を見た。 指きりげんまん。 再び小指を絡めた二人。 よち宗は、小さくなる隼人の後姿を目で追いながら、小指の先をそっと口に含んだ。 背中に甘く走った痺れは、よち宗を少し大人にした。 |
HOME |
妄想TOP |