「忠相、今日はどこに行くの?」
「お食事が終わられましたら、小石川養成所の視察ですよ」
「ホント?」
 大岡越前守忠相(25歳)に言われて、8・5(はちてんご)代将軍、徳川よち宗(10歳)は瞳を輝かせた。
 小石川養成所には大好きな伊織先生がいる。

「早く行く」
「お食事が先です」
「じゃあ、早く食べる。早く持ってきて、早く早く」
「台所は遠いのです。もう少しお待ちください」
 忠相は困った顔で、頬をふくらます将軍を見つめた。


「上様、飯粒が」
「むぐむぐ」
「そんなにお急ぎにならなくても、伊織先生は逃げませんよ」
 忠相の言葉によち宗は顔を真っ赤にした。その顔を見て、忠相は微苦笑する。
(本当に素直に顔に出すのだから……)


「せんせぇーっ」
 小石川養成所ではちょうど患者が途切れて、朝から忙しかった榊原伊織(24歳)も一息ついていた。
「これは上様」
 パフンと膝にしがみついてきたよち宗に、伊織は微笑んだ。チラリと隣に立つ忠相に目をやると、やれやれという顔をしている。伊織と忠相は乳兄弟だ。幼い頃は紀州でともに育ち、今では二人とも江戸の町のために働いている。
「上様、聞きましたよ。この間、薬湯を飲まなかったそうですね」
「えっ?」
「飲んだ振りして、壺の中に捨てていたと」
「う……」
 よち宗は、伊織の膝に抱きついたまま、言いつけたであろう人物を睨んだ。忠相はしらっと横を向く。
「だって、お薬、苦いんだもん」
「よく効くお薬は苦いのですよ。良薬口に苦しというのです」
「リョーヤククチニニガシ?」
「そう。今度からちゃんと飲んでくださいね」
「うん。伊織先生がそう言うなら飲む」
「約束ですよ」
「うん」
「良い上様です」
 誉められて、よち宗は、嬉しそうに笑った。

 ひとしきりしゃべってよち宗は、疲れてしまったのか
「ふぁあ」
 大きなあくびをした。
「上様、もう帰りますか」
 忠相が尋ねると、
「いやっ、まだ伊織先生の傍にいるの」
 伊織の膝を枕にして、よち宗は横になった。伊織は、猫の背中を撫でるようによち宗の頭を撫でる。よち宗はうっとりと目を閉じた。
「今日はもう患者も来ません。忠相様もゆっくりされたらどうですか」
 伊織が意味深に微笑んで、忠相は咳払いした。

「よく眠っている」
「本当に上様は、おかわいらしい」
 布団をかけられた小さなよち宗の寝顔に、忠相と伊織は目を細めた。
「上様は、お前のことが大好きだな」
「ふふふ……」
「何だ?」
「どっちに妬いているのかと思って」
「ばか」
 忠相は伊織を引き寄せた。
「ここじゃ……」
「わかっている」
 二人はそっと隣の部屋に移った。
「んっ…」
「伊織」
「忠相…ぁ…」
 忠相の指が伊織の襟元をはだけて白い胸を弄る。
 深く重なり合った唇は、淫靡な音をたてた。
「ん…ふっ」
「はぁ…っ」
 口づけの合間に漏れる息は、押し殺そうとしても、次第に熱く乱れてくる。
 その時、カタンと唐紙が鳴った。
 ビクリと身体を離す二人。
 薄く開いた襖の向こうに、よち宗のキョトンとした顔があった。
「う、上様」
 忠相は慌てて姿勢を正した。伊織は背中を向けると、乱れた襟元をかき合わせる。
「何してるの?」
 よち宗の質問に、いつも何でも答えてくれる二人が、何も言えずに黙っている。よち宗は理由(わけ)のわからない怒りにかんしゃくを起こした。
「帰るっ」
「う、上様」
 お待ちくださいと追いかける忠相を振り切って、ポテポテと足音高く駆け出したが、子どもの足なのですぐにつかまった。
「駕篭にお乗りください」
「…………」
 黙って駕篭に乗ったよち宗だったが、揺られているうちに胸が苦しくなって涙が出てきた。子どもながら、二人のしていたことを理解した。 大好きな伊織先生は、忠相のものなのだ。
「ふぇ……」
 よち宗の初恋が終わった。





「上様、どうなさいました?」
 江戸城奥の庭でぼんやりと鯉を見つめるよち宗に、隼人(15歳)が声をかけた。お庭番の少年である。
 大人のお庭番は、情報を収集するために全国に散らばっている。お庭番見習の少年達が幼いよち宗の友達役も兼ねて奥の庭に入ることを許されていたが、隼人はその中でもお庭番見習頭として大人からも一目置かれる利発な少年だった。
「隼人……」
 よち宗は、潤んだ瞳でお庭番少年を見上げた。隼人の胸がドキンと高鳴った。よち宗は隼人の指に手をかけると、そっと自分の着物の袷に導いた。よち宗の頭の中には、あの時見た伊織の姿が焼きついている。はだけた白い胸に忠相の指が動めいていて、伊織は切なそうに眉を寄せていた。
(あれは、気持ちがよかったのだろうか……)
 よち宗は、伊織の真似をした。
「上様、何を」
 隼人はうろたえた。
 ずっと心の中でいとおしいと思っている上様が、ゆっくりと唇を寄せてくる。

「いけません」
 声とともにグッと肩をつかまれ、身体を引き離されて、よち宗は大きい瞳を見開いた。
「上様、こんなことをなさっては、いけません」
 隼人は、息が荒げそうになるのをこらえて言った。
「何があったか存じませんが、上様ともあろうかたが、私のようなものに、いいえ、誰に対しても、気安く触れたりしてはなりません」
「どうして?」
 小首をかしげ、よち宗は、傷ついたような顔で隼人を見つめた。
「それは……」
 隼人は唇をかんだ。抱きしめたくなる衝動を、ぐっと押しとどめる。
「それは、上様だからです」
「では、もう上様などやめる」
 よち宗は拗ねて、小さな足で小石を蹴った。ポチャンと池に落ちて、鯉たちが驚く。
「上様」
 隼人はひざまずいた。
「私たちは、上様のためにここにいます。上様のためだけに」
「隼人?」
「私は……私は、上様以外の誰のためにも、この命をかけたくはありません。上様でないと駄目です」
 少年の不器用な言葉は、よち宗の傷ついていた心を癒して、ほんの少し揺さぶった。
「隼人は、よち宗のために、命をかける?」
「はい」
「よち宗じゃないと駄目?」
「はい」
「ふうん」
 よち宗の頬が染まる。
「わかった」
「上様」
「約束だよ」
 よち宗が小指を差し出した。隼人はわからずに、見上げる瞳でたずねた。
「指きり。伊織先生が教えてくれたの」
 隼人の小指と絡めると、よち宗の白い指はひどくか細く小さかった。
「約束する時は、これでユビキリゲンマンって言うんだって」
「う、うえさま……」
 小指の先が熱を持ち、隼人は頭がクラクラとした。
 よち宗は、自分を見つめる隼人の目に満足した。初恋を失った代わりに、新しい何かを手入れた気がした。

 この二人が、結ばれるのはこの二年後のことである。








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