教育実習生妹尾隆弘(せのおたかひろ)は、心の中で呟いた。 (ここはいつから共学になったんだ?) 『ここ』というのは、都立和亀高校。妹尾が三年前に卒業した高校だ。 確か男子校だったはずだけれど、教室の一角に美少女が二人並んで座っている。 西洋人形のような顔をした明るい髪の少女は、おとなしそうにまつげを伏せている。――寝ているのかもしれない。 その隣の少女は、つり目がちの大きな瞳で妹尾を見つめている。どこか値踏みでもしているような表情で、頬杖をついて。 綺麗な顔がというよりも、その小生意気そうな表情が、妹尾の関心を惹く。 「二週間、宜しくお願いします」 挨拶すると、教室からは思いのほか素直に歓迎の拍手が沸いたけれど、その二人の美少女はその態度をまったく崩さなかった。 「ああ、3−Eの海堂と川原ね」 数学教師宮本は、眼鏡の奥の目を可笑しそうに細めた。 「初めて見たら女の子と間違えるのはしょうがないね」 「自分の卒業した後に、女子生徒の採用があったのかと思いましたよ」 妹尾が在学中に新卒で赴任してきた宮本とは、他の教師に比べて歳が近いこともあって、実習生の身ながら気安く話が出来た。 「かわいいんだが、気をつけろよ」 「何をですか?」 「あの海堂っていうのは、ブチキレると何するかわからないからな」 「は?」 「三多摩地区の不良の親玉を、黄金の右腕一本でノシたって噂だ」 「黄金の…って、なんですか、それ?」 呆れて眉をひそめる妹尾に、宮本は磊落に笑って言った。 「まあ、触らぬ神にたたりなし。見るだけなら目の保養だ」 「触らぬ神って…」 いつからそんなバイオレンスな高校になってしまったのかと、妹尾は首をひねった。 「先生、大学は関西だったんだよね」 「東京から、わざわざ関西の大学選んだんだ?」 初めての授業の終了後、人懐っこい生徒たちに囲まれた妹尾。ここ和亀では、教育実習生は珍しいのだ。 「関西弁しゃべれる?」 生徒の問いかけに、妹尾はふざけたように答えた。 「しゃべれるで。バイリンガルや」 それだけで笑う生徒の向こうから、きつい視線が飛んできた。ふっと見ると昨日の美少女、いや、れっきとした男子生徒の川原一美が睨んでいる。 (何だ?) と、思うまもなく川原は、プイっと横を向いてそのまま教室を出て行った。 その後ろを数人の生徒がぞろぞろと従っていく。 (何なんだ、あれは) 思わずその姿を目で追うと、一人の生徒が言った。 「ああ、妹尾先生、ジルのこと知らないからね」 「ジル?」 そして妹尾は、ジル川原伝説を聞いた。(キリリク参照) (お、面白い…) 職員室で、妹尾は肩を震わせた。 生徒たちから聞いた、ジルと呼ばれる少年の行動の、一つ一つがツボにはまった。 今は、年度ごとに編纂している記念文集をわざわざ読んでいる。 ちなみに妹尾の教科は英語。生徒の文集を読みたいと言われた現国教師竹内は、その妹尾の熱心さに心を打たれたのだが、実のところ目的はジルの作文が読みたいだけだった。 『和亀高校学園化計画』 二年E組 川原一美 二年生が終わって、いよいよ最高学年の三年生になります。 今年一年、色々あったけれど、だいたいは楽しかったと思います。 でも、ぼくにはひとつ残念なことがあります。それは、この高校に秘密クラブができなかったこととホモカップルが増えなかったことです。 (ひとつといいながら、二つ書いているぞ) ぼくなりに努力はしたつもりでしたが、個人の力には限界があると痛感しました。 だから、三年になったら個人の力ではなくて権力にものをいわせたいと思います。 生徒会長をぼくの魅力でとりこにして、生徒会を中心としたソロリティを作りたいです。 ソロリティに入れるメンバーは、ぼくが決めますが、メンバーの推せんが無いとだめです。 そして推せんがあっても、ぼくがだめと決めたらだめなのです。 〔略〕 和亀高校が和亀学園になるのが、ぼくの夢です。 ぼくは、ぼくの力で、卒業までにぜったいに和亀高校を『学園』にします。 (個人の力には限界があるといいながら、最後は『ぼくの力で』と断言している) 「めっちゃ、おもろいやん」 思わず口をつく関西弁。 職員室の片隅でほくそえむ妹尾に、平和な和亀高校の教師陣は誰も気がつかなかった。 そのころ川原は、取り巻きの一人横山にブツブツと文句を言っていた。 「もうもうもうっ!何で関西弁なのっ」 「川原君」 「ちょっとハンサムだったのに、あの関西弁で全部、台無し」 「台無し、って…」 川原は『和亀高校学園化計画』の一環として、相変わらずホモカップル誕生に向けての恋愛相談をやっていたが、最近ではタマが尽きてきていた。 何しろ、密かに人気ナンバーワンの三好がことごとく振ってくれるものだから、 「攻め役がいないのよね」 と、いうこと。 そこにハンサムな教育実習生の登場で、これは使えると踏んだのに、あろうことか関西弁。 いや、関西弁は決して悪くない。悪くないのだが――― 「関西弁って、耽美じゃないわよねっ」 薔薇色の頬を膨らませるジル。 ジルにとって関西弁は、吉本新喜劇に通じる、耽美の対極にあるものだった。 プンスカ怒るジルをなだめつつ、横山たちは購買部に向かった。 「パン、買ってくるけど、川原君どうする?」 「カマンベールクリームチーズ入りのヤツ」 「あれね。あと、コーヒー牛乳だよね?」 「カフェオレにするから、普通の牛乳も買って」 「うん。わかった」 コーヒー牛乳と普通の牛乳を混ぜてちょっとだけ甘い状態の牛乳過多カフェオレが最近のお気に入りだった。 横山たちに囲まれたわがままいっぱいの昼食を終えた後、ジルはいつものように一人で職員室のある棟に向かった。 取り巻きはついてこない。そういう約束になっている。 ジルの目的は、妹尾のいる職員室――ではなく、その同じ並びにある校長室の横の来客用トイレだった。 美少年はトイレに入らない。 そう思われたいジルだったが、いかんせん、生理現象には勝てない。 「でも、みんなと同じトイレに入るのは、絶対、嫌」 そこで一年のときから来客用のトイレを使っている。何しろ綺麗で、トイレットペーパーも高級だ。 初めてそこを勝手に使用していることがばれた時は、注意を受けたのだが、その際ジルが 「僕、公衆トイレって、嫌な思い出があって、みんなが使うトイレには怖くて入れないんです」 と、綺麗な顔でポロポロ泣いた――当然、嘘泣き――ので、誤解した教師たちが職員会議の結果使用を認めることにしたもの。 「嫌な思い出って、何?」 当時いた女性の養護教諭が優しく尋ねたけれど、ジルは頑として口をきかなかったので、いつの間にかその話題はタブーになっていた。 実のところ、中学校のころ公衆トイレを使おうとして入ったら酔っ払いのゲロがあってむちゃくちゃ嫌な気分になったというだけのものだが、それをそれと知っているものはいない。 とにかくジルは、都立和亀で来客用のトイレを使える唯一の生徒だった。 そして周りに人がいないのを確認してジルがトイレの扉を開けるのと同時に、中の個室が開いて妹尾が現れた。 「おっ」 「あっ」 ビックリして後退さるジル。妹尾は、そのジルの頭をポンポンと叩いて、 「なんだ、お前も昼の後『すぐ出す派』なんだな」 と笑った。 ジルは、意味がわからずキョトンとする。 「快食快便は健康な証拠だから、恥ずかしがること無いんだけど、やっぱ、他の奴らがいるところで個室に入るのは勇気がいるよな。なんで男は大と小で別けるんだろうな。みんな個室には入れば、大だか小だかわかりゃしないのに」 (大?小?) 何の大きさの話? と、ジルが首をひねったところで、 「かく言う俺も落ちつかないから、職員トイレじゃなくてここを使わせてもらったんだけど」 「きゃーっ!!!!」 妹尾の言う『大』が大便とわかって、ジルは叫び声をあげた。 「何で僕がウンコに来たッてことになってんのよ!それより、何っ?今、僕の髪さわったでしょっ!触ったよねっ!」 「何だ?」 「ウンコして、洗ってない手で、僕の髪の毛触ったんだっ!!」 ジルは、涙目になって睨んでいる。 妹尾は、その顔をひどく可愛いと思った。 怒りに顔を真っ赤にして、ジルは来客用トイレから出て行った。 「入らないのか?」 妹尾が呼びかけると、 「入らないっ!!!」 甲高い声が返ってきた。 妹尾は、しばらくその後ろ姿を見送って、そしてクスクスと笑った。 「楽しい実習になりそうだ」 大学のある関西でも受け入れ高校はあったのだけれど、わざわざ母校に帰って来てよかった。妹尾は、実習期間中に、なんとかジルをモノにしたいとだいそれたことを考えた。 「川原くん、おかえり」 横山を始めとするジル川原お取り巻き軍団は、校舎の外の渡り廊下で待っていた。 ジルの機嫌が悪いのに気がついて、青ざめる。 「どうしたの?川原くんっ」 「ひょっとして、紙が無かった?」 「水の出が、悪かった?」 「うるさいっ、トイレの話なんかしないでっ」 「川原くうんっ」 ブリブリ怒って立ち去るジル。慌てて後を追うお取り巻きたち。 都立和亀高校では、ごくありふれた日常風景だった。 そう、教育実習生、妹尾隆弘が現れるまで。 |
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