静子にとって、彼の姿は記憶の彼方に去った、と言うには、
まだ余りにも短い時しか過ぎていなかった。

贅沢な恋をした、と今でも思う。

思いも寄らぬ出会いがあった。
それは、異国の墓地。
白い墓石が静かに立ち並ぶその場所で、
どうして人と出会うなどと予想出来ただろう。

(他人様のお墓に顔出すなんて、妙と言えば妙かもね)
静子はゆっくりと歩いていた。
普段は買い物くらいしか外に出ないというのに、
雨が上がったその翌日は、何故だか足が外へ向いた。

(雨上がりの虹に誘われて、なんて、乙女チックじゃない)
如何にもわざとらしい思いは、不快ではなかった。
むしろ、そういうものは人に言いさえしなければ、

結構抱えていたいと思う性質だ。

ぱらり、と昨夜の夜露が手に落ちる。
それをハンカチで拭くという行為は、別に珍しくも無い。
だが、ハンカチが風に攫われるという事は、少しだけ珍しかった。
「あ」
静子の手を離れた薄桃色のハンカチは、地に落ちる前に1度だけ舞い上がると、
小さな墓石の前に降りた。
特に急ぐでもなく、少し前までのようにゆっくりと歩いて行った先に、
思いも寄らぬ出会いがあったのだった。
静子が手を伸ばす前に、一回り大きな手がハンカチを取り上げる。
「どうぞ」
そう言って落し物を差し出してくれたのは、背の高い男性だった。
「あ、すみません。ありがとうございます」
柔らかい布を受け取る一瞬は、何気無いものであったが、
久しく聞いていない母国語に思わず言葉が続いた。

「もしかして、日本から来られた方なんですか?」
最近では珍しい見事な黒髪を、嫌味無く整えている男は、形の良い微笑みを見せた。
「ええ。貴女もですか?」
「そうなんです。短期留学の最中なの」
見知らぬ男性に、ハンカチを拾ってもらったというだけで、
自分から話し掛けるなど、
今まででは考えられなかった。
異国の美しさが、実は少し寂しかったのかもしれないと、後になって思った。

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