それは、ティトーが生まれてから、15回目の春の事だった。
大海原に似た緑の大地が、風を受けてざわめいている。
「…」
ティトーは眼を閉じ、耳だけを働かせて、風の音に聞き入っていた。
光の無い視界の中で、風の音は羽ばたきの音に変わる。
大空を切り裂く、鋭利な刃のような、その羽。
長大な身体は陽光を浴びて翡翠色に煌き、巨大な顎が開かれると、
そこから雲を吹き飛ばす咆哮が発せられる。
天空の王者たるその威風堂々とした姿は、竜。
古の時代より、地上の神と崇められ、恐れられる存在。
その竜は、真直ぐティトーを目指して降りてくる。
隕石と見紛う程の速度で近付く異形の者に、両手を広げて迎え撃つ。
道端の草よりも脆弱な自分に、竜が近付いてくる。
そして…。
「お兄ちゃん!」
ティトーの夢想は、鈴を振ったような声に断ち切られた。
「ハッ!」
驚きに見開かれた目の前を、風に千切られ、飛ばされた草が横切ってゆく。
「何だ、アーイか。全く、驚かせるなよ。折角いい所だったのに…」
頭を振って、胡桃色の髪に纏わり付いた草を払うと、ティトーは勢いを付けて立ち上がった。
「ごめんね。でもね、一応後ろでしばらく待ってたんだよ。気が付くかなぁって。
だけど、お兄ちゃん、全然気が付かないんだもの!」
兄の木綿の上着に幾つも絡み付いた草を取り除きながら、
ティトーの妹アーイは困ったように微笑んだ。
透明な菫色の眼差しが、許しを請うようにティトーに注がれる。
「…そうか。悪かったな。でもさ、今日は特別にいい夢だったんだよ。だから…」
慌てて弁解する兄を優しく抱き締め、アーイは甘えるようにティトーの胸に頭を擦り付けた。
「うん。凄く幸せそうな顔していたものね」
小さくて頼り無げな妹の、母か姉のような物言いに、
ティトーは一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り直して妹に尋ねた。
「と、ところでアーイ、何か用か?」
「あ、そうだ!お父さんとお母さんが、話があるって」
父と母の用事、と聞いて、ティトーは顔をしかめた。
「…あーあ、またか」
あの2人の話と言えば、決まっている。
「お兄ちゃん」
アーイが、何か言いたそうな顔で、ティトーを見上げた。
「大丈夫だって。ま、適当に話を合わせておくさ」
そう言うとティトーは身を翻し、大きく足音を立てて歩き始めた。
次へ