ひろみか☆PLAZAものがたりの部屋>ご意見申し上げたてまつります!


第一話:「パソコンラックに物申す!」

ひろみか一家は、先日パソコンを新しく買った。それまではノートパソコンだったので置き場所に困ることもなかったのだが、今度はどどーんとデスクトップを買ったのである。
とりあえずダイニングテーブルの上に置いたが、いつまでもそのままというわけにもいかないので、パソコンラックを購入することにした。
ラック選定にあたり、私が希望したことは以下のとおりであった。
ひとつ:我が家にはいたずら盛りの乳幼児がいるので、床置きでなく、デスクタイプのもの。
ひとつ:パソコン関係の雑誌やCD、ついでに文房具なんかもいっしょに収納したい。
ひとつ:収納する場所は、オープンだといたずらされ放題になるので、扉もしくは引き出し式が望ましい。
ひとつ:大きなデスクを置く場所はないので、なるべくスペースを取らないものがいい。

ようするに、よく見かけるスチール製のラック状のものに、扉がついていればよかったのだ。
まあこの程度の希望ならいくらでも該当する商品があるだろうと思っていたのだが、
実際にあちこちに探しに行ってみたら・・・ない!!

まず、「パソコンラック」というと、スチール製にせよ木製にせよ、収納スペースがどれも見事にオープンタイプなのである。扉のある収納スペースつき、という視点から探してみると、「ご主人の書斎にどどーんと置いて頂戴〜」と言わんばかりのでかい・おまけに高い机ばかり。とても我が家のリビングに置けるようなスリムなものではない。
お店をあきらめて通販で探してみても、見事にみんな似たようなつくりなのである。
「なぜ?収納部分扉付きスリムタイプのパソコンラックが、なぜどこにもない!?」
意地っ張りな私は、こうなるとどうしても妥協したくなくなってしまった。そして家中のカタログをひっくり返すこと1週間。ついに、「これだ!」というものを見つけた。

それは、パソコンラックではなく、「キッチンカウンター」だった。
天板までの高さも80cmとちょうどいいし、天板のすぐ下からテーブルが引き出せるようになっていて、ここにキーボードとマウスが乗せられる。幅80cm、奥行き35cmで、パソコンがはみ出ずに載せられることを確認した。ほんとうは幅は60cm程度までがよかったのだが、この際それぐらいはあきらめよう。横にスキャナーやらプリンターやら置けるじゃないか、と考えることにした。なにより、下の収納部分が充実しているのがうれしい。天板脇にはコンセントまであるじゃないか!も〜、なぜ君にキッチンカウンターなんて名前がついているの!?と質問したいぐらい、私の求めた条件をクリアしていたのだ。

かくして、私は今、キッチンカウンターに乗せたパソコンでせっせとこの文章を書いている。案の定、いたずら好きな乳幼児がまとわりついてくるが、子どもの手では扉や引き出しを開けられないようにロックをつければ、書籍やCDに被害は出ない。 アナログな私は、パソコンをしていても「ええと、パスワード・・・」などと鉛筆でメモることが多いのだが、そのための文房具も引き出しにきちんとしまえている。実に、きわめて快適である。

しかし、なぜ、この機能がパソコンラックにないのか。
子どものいたずらからパソコンと周辺機器を守りたい親が、我が家以外に存在しないとはとても思えない。これだけパソコンがファミリーユーザーに浸透してきているのに、ラックはいつまでたってもビジネスライクにしか考えられていないんじゃないのか。
このカウンターだって、あくまでキッチン用にデザインされているので、パソコン用としてデザインすればもっともっと便利になり得るのだ。たとえば台所によくあるレンジ台。あれには、レンジの上に更に棚が2段ついていたりする。まるで食器棚のように周囲に収納を配置してあるものもある。あれでいいのだ。あの形で、電子レンジの収まる部分(もちろん、キーを打つのに適した高さに調整する)にパソコンが収まり、格納できるキーボードとマウス台がついていたら、どんなに便利だろう?上の棚にはプリンタやスキャナーを配置し、下には書籍やCDをしまう。電話も置ければなお便利。
もう、私の頭の中には理想のパソコンラックが燦然と輝いてしまっている。なのに実際にはどこにもないのだ。どうしてくれるメーカーよ!!

パソコンラックを製造している企業に物申す!!

「パソコン=ビジネスユースという
凝り固まったイメージをいいかげんに捨てて、
時代の波に適した製品をつくりなさーーーい!」



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第二話:「ベビーカーは邪魔物?」

東京の街をベビーカーで移動するのは大変だ。こんなに狭い道をどうして、と思うほど
大きなトラックが疾走していったり する脇で、途切れ途切れの歩道をこわごわ進まなくてはならない。上の子の手をつなぎ、片手でベビーカーを押す状況の時は、 それこそもう道を歩くのが真剣勝負である。(^-^;)冗談抜きで、それほど東京の道は狭くて交通量が多い。
そんな思いをしてスーパーにたどり着いても、店の通路はカート一台通るのがやっとの
幅しかない。どこへでも行きたがる上の子の手を離さず、 片手押しでふらつくベビーカーが
棚やお客さんにぶつからないように注意しながら、フックを使ってベビーカーにぶらさげたかごに(本当はベビーカーにものをぶら下げてはいけないらしいのだが、両手がふさがっているので
どうしようもない)品物を入れて買い物をするのはほんっとうに苦労する。
さらに。東京は電車という公共交通機関が大変発達している。道路は渋滞が激しいし、
駐車場事情も悪いので、電車は本当に便利である。
しかし、それをベビーカーで利用しようとすると、これがまた大変な重労働なのである。
大抵の駅には長い階段があり、ベビーカーごとかつぎあげて子供をはこばねばならない。
それは危ないからやめろと言われても、まだ歩けない子供をベビーカーから下ろし、
ベビーカーをたたんで小脇に抱え、下の子を抱っこしたら両手はいっぱい。上の子はひとりで
歩かせなくてはならない。途中で「疲れたー」といわれたらアウトである。
しかも、母親の背中にはおむつやミルクや着替えやらが入った重たいリュック。この状態で
出かけていって、買い物して帰ってくることは超人的な技を要求される。
そんなわけで、新聞などに時折「ベビーカーでの移動は大変・・・」とか「汗だくになって運んでいても、声をかけてくれる人すらいない・・・」などという母親の切実な声が投書されたりする。
同じ境遇の身、その辛さはわかりすぎるほどわかる。
ところが、こうした意見には必ずと言っていいほど、「そんなの甘えです!」「そんなに大変ならベビーカーを使わず、おんぶすればいいでしょう。」「近頃の母親は見栄えを気にしておんぶをしないくせに・・・」という厳しい意見がかえってくるのだ。しかもその意見は、子育てを終えた女性からのことが多い。 「いいですか、私たちが子育てした時代は、みんなおんぶしていたんです。おんぶして両手に荷物を持てばいいじゃないですか。どうしてベビーカーにこだわるのですか。それに、そうまでしてどこに出かけたいというのですか。親の都合で連れ回される子供がかわいそうです。」・・・等等。辛い子育てを終えて来た先輩達の意見はとても手厳しい。
でも、私はいつも、こうした意見を読む度に、違和感を覚えてしまうのだ。

「私たちの時代は・・・」とおっしゃる、その時代。きっと、今からは想像もつかないほど育児は大変だったに違いない。紙おむつなんてなかった。洗濯機だってなかった。赤ん坊のいる家には必ず布おむつが大量に干されていて、それが目印になった時代。核家族は珍しく、どの家もたくさんの大人とたくさんの子供がいた時代。
その頃には、まだたっちもできないような子供を連れて、母子だけで街まで買い物に出かけるなんてことはほとんどなかったのではないか。布おむつでは出先でおむつ替えするのも一苦労、帰ってくる頃には汚れたおむつで大荷物になってしまう。「おむつが取れるまでは、どこかに連れ歩くなんて考えたこともなかったねぇ」とは私の母の言葉である。「今は便利な世の中になったよねぇ。こんな小さい孫と旅行できるなんて、想像もできなかったねぇ。」
そう、今の時代はその当時と比べて何もかも便利になっているのだ。おむつは紙で使い捨て。洗濯はスイッチオンであとは干すだけ。かまどで火をおこすこともない。お風呂だって
スイッチひとつで適温の湯が張られる。ベビーカーもずいぶん軽く持ち運びやすくなった。
こんな風に、世の中すべてが便利になっているのに、なぜ、子育てだけが
「昔はこうだったんだから、そうすればいいだけでしょう!!そうしないなんて甘えです!」
と、言われなければならないのだろう??
「共働きで夜洗濯したいのに、洗濯機の音が大きいからできないって?あなた、昔はみんな
たらいで洗ってたんです!たらいで洗えば音もしないでしょう!どうして洗濯機に
こだわるのですか!」と、言われているに等しいような気がするのは、私だけだろうか。
しかも、時代は核家族化してしまった。母親はちょっと出かけたい時でも、子供を誰にも預けることができないのである。昔だったら家にいる誰かに見てもらって買い物に行くこともできただろうが、今はそれができない母親がたくさんいるのだ。預け先がなくて歯医者にもいけない
母親だっているのだ。同世代の独身の友人は、海外旅行に行ったり、おしゃれなレストランで
食事したり自由にできるのに、母親になった途端デパートに買い物すら行けない日々。
喫茶店で、せめてコーヒー一杯の休息すらできない日々。
おしゃれする気持ちもなくなっていく。これじゃいけない!外に出よう!自分を磨こう!
家にいて動けないのを子供がいるせいにしちゃ駄目だわ!!
・・・そう思った母親が、いざ出かけた時に様々な不自由にぶつかる。世の中はまだ、
子連れの母親にやさしいモードになっていないのを感じる。その時、「もっとこうだったら・・・」
「こんな風に手助けしてもらえたら・・・」と思うのは、当然なことではないだろうか。

世の中の先輩主婦の皆様。これは、ご意見というよりお願いです。
皆様はそれはそれは大変な苦労をして子育てをなさってきたのだと思います。そして、
その苦労をどうにかして一つでも楽にしたいという思いが、世の中を少しずつ少しずつ
便利にしていったのでしょう。 皆様の苦労のおかげで、今の時代がこんなに便利に
なったのだと言っても過言ではないと思います。ほんとうにご苦労様でした。
大変な思いをして私たちを育ててくれたことに敬意を表します。
でも、だからこそお願いです。皆様の時代と今の時代とでは、子育ての環境があまりにも
違うのだということを理解してくださいませんか。
狭い道にたくさんの車が走るようになりました。紙おむつのおかげで赤ん坊の外出する機会も増えました。ベビーカーは軽くなりました。きゃしゃにもなってしまいましたが・・・。
便利な時代に、子育てだけ不自由を受け入れろとおっしゃるのはどうか勘弁して下さい。
もう、私たちはかまどで火をおこす時代に戻れません。たらいで洗濯する時代に戻れません。
産まれた時から男女平等の教育を受けて来た世代です。子育て中は家にいるのが当たり前、
それが母親というものだと言われても、素直に納得はできないのです。
私たちは、皆様とおなじように、この不自由な子育て環境をどうにかして改善したいのです。
私たちの子供が子育てをする頃になったら、「今はいいわねぇ〜、昔は大変だったのよぉ。
紙おむつは環境に悪いものしかなくって、社会問題になってたし、ベビーカーは駅の中で
たたまないといけなかったし、出かける時はこーんな大荷物をしょって覚悟を決めて、
って感じだったんだからぁ」と、笑って言えるような世の中になっていてほしいのです。
世の中を便利にしようと戦っていらした皆様。皆様の苦労と努力に感謝し、拍手をおくりたいと思っているからこそ、こんなお願いをさせていただきました。
どうか私たちの置かれている環境をご理解下さい。
ベビーカーで外出しているお母さんを冷たい目でみないでください。・・・お願いします。



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第三話:「新聞勧誘で思うこと」

新聞の勧誘で不快な思いをしたことのない人っているんだろうか。
どういうわけか主婦が忙しい時間帯にピンポーンとやってきて、「あ、奥さん?新聞どことってる?うちのにしてよ〜!洗剤6箱置いてくから!それと今日は特別、トイレットペーパーもつけとくから、ね、3ヶ月でいいよ!」・・・。間違ってドアを開けてしまったら、断るのに一苦労である。
たちの悪い人になると、「今契約してくれたらさぁ〜、たまごもつけちゃうから!」なんて約束してはんこをもらってから、「じゃ、今そこのスーパーで買ってくるからちょっと待ってて!」と行ったきり、その後何日待っても絶対にやってこない、なんてこともある。
我が家は読む新聞を決めているので、勧誘はぜんぶ断ることにしているのだが、それでも、今取っている新聞屋を語ってドアを開けさせ、「実はこんど私、そこの販売所から独立しましてね、違う新聞を配ることになったんですよ、それで 販売所の所長さんがお祝いだってんで、お客さんから3ヶ月だけ契約をとってもいいって言われましてね、で、ご挨拶がてら契約のお願いにまわっているわけでして・・・」なんて嘘八百を並べる人もいるのだ。
とにかく私は、新聞の勧誘が来るたびに嫌ぁ〜な気分になる。
でも、新聞はとらないわけにいかないものだと思う。インターネットが普及して来て、最新ニュースはネットでGetした方がずっと早くなったけれど、新聞は自分の興味のない分野も目にすることができる。ネットだと、どうしても自分の見たい分野だけみてそれでおしまい、ということになってしまうから、やはり新聞は大切だと思うのだ。 それに私は、新聞の社説やコラム、論評や読者の声を読むのも大好きなのだ。本好きの主人は、書籍の紹介ページもよく見ている。
というわけで、新聞というのはとても大事なものだと思うのだ。制作サイドや記者も知識人が多いのだろうと思う。寄稿する著名人もそうそうたるメンバーであるし。
しかし。だからこそ、私はつねづね不思議でしょうがないのだ。
新聞を制作している人たちは、きっと自分達の仕事に誇りを持っているに違いないと思う。なにしろ、自分達の作った新聞が民意の方向を変えることだってあるのだから。
それなのに。彼らは、自分達の制作した「新聞」そのものが、あんな野蛮な方法で売られているのをなんとも思わないのだろうか!?
世の中に、他にそういう製品があるだろうか。メーカーで働く人が、自分の作った商品がまるで押し売りのような形で日本中の家庭に配られていたら、どう思うだろうか?
もし私が新聞制作側だったとしたら、新聞に自分の文章が載るような仕事をしていたとしたら、 自分の作品がそんな風に売られているのは耐えられない。販売員はあちこちの新聞勧誘を渡り歩く人が多いようだが、それぞれの新聞の中身を毎日読んでいるとはとても思えない。
どこの世界に、自分が売るものの中身を良く知らずに売りつける販売員がいるだろう。車がそんな風に売られるだろうか。良くある訪問販売として思い付くのは、浄水機や布団、幼児教育・・・などなどたくさんあるけれど、 どの販売員も、すくなくとも自分の売ろうとしている商品についての知識は多少は持っている(たとえセールストークにしても、である)。新聞の販売員に、「おたくの新聞は紙面構成が嫌いなんです」と言ったところで、 「は、それはなに面のどの部分でしょうか。すぐに制作側に伝えます」と返してくる販売員がいるだろうか。
少なくとも、私は今まで会ったことがない。
制作サイドと商品と、販売員の質の差がここまで開いているものって、他にあるだろうか・・・?
なぜ、押し売りまがいなのか。銀行や百貨店の外商のように・・・とまでいかなくても、せめて接客態度ぐらい研修し終えた者を使うわけにはいかないのか?
そもそも、なぜ社員は勧誘をしないのか?自分達の唯一の商品ではないか。
新聞記者は記事を書く前に、新聞配りや勧誘を体験させるぐらいのことはしたほうがいいのではないか。自分達の書いた記事がどのように形になり、どのように市民に配信されているのか、知らないままでいいわけはないと思うのだが。
もし、この文章を制作サイド側の人が読むことがあったなら、ぜひともご意見を拝聴したいものである。



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