「平気だよ」
彼はそう言って塀を登り、柘榴に手を伸ばした。
「やっぱり止めた方がいいよ、ねぇ」
私は不安だった。何か、よくない事が起こる。そう確信していた。
「大丈夫さ。だって、この家はもう何年も前から人が住んでないんだぜ?
別に、誰かのモノって訳じゃないんだ」
彼は私の声を聞かなかった。ぐっ、と腕に力を込めて、木の枝にぶらさがっている柘榴をもぎ取る。
「喰いたいだろ、柘榴?お前、ずっと此処の柘榴が喰いたいって言ってたじゃないか」
彼は魅力的な微笑みを浮かべ、手の中にある果実を見つめた。
冬場、乾いてひび割れた人間の指先にも似た割れ目から、きらりきらりと赤い色が覗いている。
「それは、そうだけど」
不吉な影に怯えながらも、私の眼は彼がもいだ柘榴に釘付けだった。
早く、あれを食べたい。今すぐに食べたい。
「ほら」
彼が柘榴を手渡すと手を伸ばし、私が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、風が吹いた。
「あ・・・」
彼は消えて、柘榴だけが私の手の中に落ちた。
彼は私の目の前から消えた。突然吹き抜けた、一陣の風と共に。
でもそれは、風に攫われたのでは無かった。彼は別の場所にいたのだ。
街中が彼を探した。彼の両親は勿論、私の両親も、そして私も。
でも探し始めて間も無く、私は彼を探すのを止めた。
何故なら、私には彼が何処にいるのか分かったからだ。
「どうしてそんなところにいるの?」
人々が持つ懐中電灯の明かりに照らされて、斑に光る街を自室から見下ろしながら、
私は彼が取ってくれた柘榴に話し掛けた。
『捕まったんだ。柘榴を取ったせいで』
彼は柘榴の中に居た。きらりきらりと煌く赤の中に。
彼の姿は見えないけれど、木からもがれて死んだ筈の柘榴は彼の手と同じ温もりを有しており、
抱き締めると確かに心臓の鼓動を伝えてきた。
「捕まったって・・・誰に?」
『それが分かったら苦労しないよ。でも、そう言われたんだ。誰かに』
彼はあまり焦っている様子では無かった。いつもと同じ、何かへの期待を含んだような声で、
気楽な調子で私に応えた。
「怖くないの?」
割れ目をなぞりながら訪ねると、彼は笑った。
『何言ってんだよ。お前じゃないんだぜ?』
私は怖がりだ。こんな事を言ったのが彼で無ければ、私は大いに憤慨しただろう。
でも、彼なら許せる。私が怖いと思うもの全てから、彼は私を護ってくれたから。
「ねぇ、其処から出られない?」
私はそっと柘榴に唇を寄せた。彼とキスした事は無い。
でも、こうしていると、そんな気分になった。
『無理らしい。そう言われたんだ。誰かに』
「また、<誰か>ね」
『仕方ないだろ?』
溜息をついて、私は割れ目から覗く赤を舐めてみた。彼が不思議そうに尋ねてくる。
『何してる、今?』
私は声をあげて笑うと、柘榴に向かって囁いた。
「柘榴を舐めていたの」
『喰わないのか?』
「だって、そんなことしたら」
彼はどうなるのだろう?私の歯で噛み砕かれて、喉を滑り落ち、胃の中に入ってしまうのではないだろうか。
『喰えばいいのに。腐るぜ、柘榴』
彼は私が柘榴を食べることを強く希望しているみたいだった。自分のことは考えていないのだろうか。
「でも、貴方も一緒に私のお腹の中に入ってしまうことにならない?」
『平気だよ。柘榴を喰って、俺を此処から出してくれ』
出来るのだろうか、そんなことが。
でも、確かにこのままずっと居ても、彼が柘榴の中から出て来られないのは確実だ。
「分かったわ。今から食べるね」
私は柘榴を口にした。甘酸っぱい、何とも言えないあの酸味が、口の中に満ちる。
「美味しい・・・」
それは間違い無く、今まで食べた中で1番美味しい柘榴だった。
「ねぇ、出られそう?」
一息ついて、残った柘榴に向かって話し掛けた。
『多分』
彼の声が聞こえた。私は安心して柘榴を食べ続けた。
「ねぇ・・・今何処に居るの?」
柘榴を食べ終えて、私は虚空に向かって語りかけた。柘榴はもう無い。
今まで彼が居た場所は、私のお腹の中に消えた。
彼は返事をしてくれない。やっぱり出られなかったのだろうか。私は彼を食べてしまったのだろうか。
「ねぇ、返事して・・・」
ふと泣きそうになって、堪えるために唇を噛んだ。彼は応えない。
私は窓を開けた。バンと大きな音を立てて開け放った両開きの窓から、風が吹き込む。
「アッ」
そのあまりの強さに眼を閉じると、誰かが私の身体を抱き締めた。
「え・・・?」
心臓の鼓動。紛れも無く彼のもの。でも何故か確かめるのが怖くて、私は眼を開かなかった。
「ただいま」
涼やかな声に、私は眼を開いた。彼が居る。目の前で微笑んでいる。
「・・・良かった」
涙声だったが、はっきりとそう言って私は彼を強く抱き締め返した。
そして私達は、どちらからともなくそっと唇を重ね合わせた。
「柘榴の、味がする」
「うん」
街はまだ斑に染められている。私達は暗い部屋の中で、声をあげて笑い始めた。