眼が覚めたら僕は其処に立っていた。

「?」

どうして僕は立っていたのか。僕は眠っていた。明日から、旅行に行く。家族で。それを心待ちにしながら、

高ぶる心臓に手を当てて、静まれ静まれと頭の中で言いながら眠りについた。そのはず。

「此処って・・・何処なんだろう」

僕は言葉を口に出した。来たことの無い場所だ。テレビでは何回か、似たような風景を見たことがある。

外国だったり、自分の住んでいる国だったり、色々。

「こういう時は前に進むしかないのかな」

まいった。妙に冷静な自分が嫌だ。こういう時、何で素直に驚かないんだろう?漫画みたいに。アニメみたいに。

映画みたいに。劇みたいに。

『何だよっ!これってどういうこと!?』

『一体どーなってるんだ?』

・・・言ってみたい、そういう台詞。慌てふためきながら。いらいらしたりして。

その辺にあるものを蹴りつけたり、痛いのは拳だと分かっていながら何か殴る。

1番いいのは、その時に側に誰かいて、そうやって怯えている僕をなだめすかし、止めてくれることだ。

『ぎゃーぎゃー騒ぐなよ、慌てたってどうしようもないだろ?』

とか。

『もう、小さい子じゃないんだから!少しは落ち着きなさいよ!!』

とか。

 

気が付くと、隣に人間が1人、立っていた。

僕は初めて見るものに名前を付けるのが好きだ。だから僕はその人物を『緑の紳士』と名付けた。

そうとしか表現できない自分の想像力は、もしかしたら貧困なのかもしれない。

でも、頭の先から足の裏まで、身につけているもの全て周囲に溶け込んでしまいそうな緑の人間、

背の高い男性・・・若い男だ・・・何だかリアリティに欠ける・・・絵画のような・・・

真っ黒な髪が不自然な気もするけど・・・長い髪だ・・・シャンプーの宣伝の女の人みたいに、

つやつやして長い黒い髪・・・よく似合っている・・・上品な顔立ちの・・・

そんな人間を、他に何て名付ける?

「此処は『牢獄』ですよ」

緑の紳士は言った。低くて深みのある、僕が好きな感じの声だ。僕もこんな声が欲しい。

この人みたいな声だったら良かったのに。

「『牢獄』?」

僕は尋ねた。何で、僕はそんなところにいるんだ。悪いことなんてしていない。

少なくとも、牢獄に入らなくちゃいけない程、悪いことは。
「ええ。さぁ、奥へ。貴方は『囚人』なのですよ。これからこの『牢獄』の中で『罰』を受けなくてはならない」

緑の紳士は言った。そして、右手を彼の言う『牢獄』の方へ差し出す。

そして、左手を僕の背中に回すと、軽く僕の背中を押した。

「さあ」

緑の紳士は強く言った。僕は行かなくてはいけない。この『牢獄』の中へ。

「・・・はい」

知らない人の言うことを聞いてもいいのか?なんて、考えもしなかった。いつもなら、

『何で貴方にそんなこと言われなくちゃいけないんだ?』

とでも反論しただろう。僕の背中に彼の体温を伝えるその左手を、

思い切り振り向いて振り払ったに違いない。いつもの僕なら。
それをしなかった僕は、いつもの僕じゃなかったんだ。

いつもと違う僕は緑の紳士の言葉に素直に頷いて、『牢獄』の中へ踏み出した。

「まっすぐ、道に沿って歩きなさい。ずっと」

緑の紳士は言った。

 

『牢獄』は広くて、果てが無いように思われた。一見無作為に、でも実は恐ろしく計画的に、

聳え立つ格子の間を縫うように道が出来ている。

道があるなんて、親切な牢獄だなと思いながら、僕は無言で歩き続けた。

前にも後ろにも右にも左にも上にも当然下にも誰もいない。

蝉が鳴いている。蝉の声は神様の声だとか悪魔の声だとか、妹が言っていた。

あの子は想像力が豊かで、よく空想して遊んでいる。色々と。

空気は熱く、薄く、僕を取り巻いていた。

肺の中に溜まっていく空気が、いつもより濃い気がする。僕は、『牢獄』なんてとんでもない、

此処はとてもいいところなのではないだろうか、と思った。胸が冷えている。

身体の中がキレイになったようだ。人に見せられるくらい。

此処はいいところだ。でも、不安が拭い去れない。

「此処は『牢獄』ですよ」

緑の紳士は言った。そう、彼は確かに此処が『牢獄』だと言ったのだ!

だから、不安だ。普通、牢獄という場所は、入ったら罪を償うまで出られない。

僕は何をしたんだろう?何をしたのか分からないのに、牢獄に入るよう言われ、僕は素直に入ってしまった。

(何時になったら終わるのかな)

足が一定のリズムと間隔を崩さずに動く。1度歩き出せばもう、

(歩こう)

と思わなくても足が動く。宇宙でどん、と突き飛ばされたら、

こんな風に自分の意志とは無関係に進んでいくのだろうか。地球の上で『歩く』という行為は

疲労するから、此処より宇宙の方がいいかもしれない。

真っ暗な真空の空間を、地球に群がる人工衛星を尻目に、あっけに取られた顔のまま

どんどんどんどん進んでゆく己を思い浮かべながら、僕は歩き続けた。今、心がとても静かだ。

(こんな風になれる場所があったなんて)

僕は嬉しかった、『心地よい』という言葉が実感できる此処は、本当に緑の紳士の言う通り、

『牢獄』なのだろうか?

僕は黙って歩き続けた。此処はものを考えるには最適の場所だ。

ただし、1度足を止めればそこから動かなくなりそうな気がしたけれど。

 

しばらく1人で歩いていると、前の方から人が歩いてきた。驚いた。此処には他にも人がいたのか。

「こんにちは」

初老の男性だった。言葉の後に続く吐息は少し荒く、浅い。でも額の汗を手の甲で拭い、

僕に向かって微笑みかけてくる様子は、疲れを感じさせなかった。

「こんにちは」

僕はすれ違いざまに応えた。初老の男性は去ってゆく。続いて、その人の妻らしき小太りな女性がやはり、

「こんにちは」

と声をかけてきた。

「こんにちは」

僕が応えると、彼女は少し足を速め、夫らしき人の後に続いた。

彼等の行動(すれ違う人に一礼、挨拶する)は確かハイキングの時の礼儀だと、

誰かが言っていた。母だっただろうか。

(ハイキング?『牢獄』の中で?)

馬鹿らしい!一体何処の誰が、牢獄でハイキングなんかしたがると言うのか。いや、するというのか。

また違う人が来た。今度は家族連れだ。

「こんにちは」

「こんにちは!」

「こんにちはー」

「こんにちはぁ」

「こんちは」

5人、5通りの挨拶に、僕は5回応えた。間違いない、彼等は皆ハイキングを楽しんでいる。

ふうふう言いながら、大人も、子供も、笑顔を交わしながら。『牢獄』の中で。

『貴方達、何考えてるんですか!?『牢獄』の中でハイキングなんて!!』

そう叫んで、きょとんとした10の眼差しに見つめられ、

次の瞬間5重の笑い声に囲まれている自分を想像してゾクリとした。

違うんだ。間違っているのは僕。正しいのは彼等。

唐突に理解した。僕の『罰』は、『歩きつづけること』。

(何で?)

よく分からないが、理解した瞬間、この『牢獄』には終わりがあるのだと、実感できた。

終わりがあるなら歩こう。終わらないなら歩くのを止めようと思っていたんだ。

(でもよく考えてみたら、『終わりが無い』なんて僕には分からないよな)

流石に少し疲れてきたらしい。脳と眼球に霞がかかった様に、ビニールを被せられたように、

視界と思考がぼんやりとしてきた。

(もう何も考えないで歩こう)

終わるのなら、終わった時に答えが分かるはずだ。

だったら、疲れた頭でネガティヴな考えを展開し続けるよりも、最後の答えを待ちたい。

それがグッドエンドでもバッドエンドでも。どっちでもいいから。

 

無言で歩く。歩いていると、水のせせらぎが聞こえた。小川だ。急に喉が渇いた。

(でも僕はこの水を飲んではいけない)

水を浴びたいと思った。

(でも僕はこの水を浴びてもいけない)

暑い。すごく。はぁはぁと、時々犬がやってるみたいに舌を出して、息をしてみたら、もっと渇いた。

まだ終わらないのか?

一体何時になれば終わる?この・・・『牢獄』は・・・。
口を閉じて歩き出す。少し先に小さな女の子とその母親らしき女性がしゃがみこんで小川を覗いていた。

「こんにちは」

と言おうかと思ったけれど、止めた。2人共(特に女の子が)夢中になっていたから。

母親らしき女性も明るい微笑を浮かべて女の子と一緒にいたから。邪魔したくなかった。

僕のせいで、一瞬でもこの、恐らくは母子であるこの2人の時間を崩したくなかった。

(元気で)

まったく知らない人達なのに、こんな風に想えるなんて、素敵なことだと思った。

 

出口が見えてきた。案内板が立っている。これでもあの緑の紳士は此処を『牢獄』だと言うのだろうか?

そもそも、彼は何だったのか。

『看守』だったのか。此処が『牢獄』なら。

(そうは見えなかったけど)

とにかく出口まで来た!もう何も心配いらない。

誰も来ないということは、僕は此処を出てゆけるということだ。

「来ましたね」

声がして、誰かが僕の右肩に手を置いた。『緑の紳士』だ。

人が来た、ということは、僕はやはりこの、緑の紳士が言うところの『牢獄』を出られないのだろうか?

「あ、の・・・」

言わなくてはいけない。言わなくては此処から出られない!!

『どうして僕が『牢獄』に入らなきゃならないんだ!?僕は何もしていない!!』

とか。

『ふざけるのもいい加減にしろ!!大体お前は何者だ!?』

とか。何でもいい。何か此処から出るために、言わなくては。

「それでは、さようなら。お疲れ様でした」

緑の紳士は言った。僕は拍子抜けした。彼はあっさり僕を解放する気だ。

僕をこの『牢獄』へ誘ったのは彼なのに。

(どうして)

引き止めて欲しいのではない。そんなのは頼まれてもお断りだ。でも・・・でも。

(だったら何のために僕は此処に来て、こんなに長い道を歩き続けた?)

僕の行動には全て何らかの意味があるはずだ。いや、ぼくは何か意味のあることしかしない。

絶対に。絶対に。だから問いたい。何故、と。

「結局僕の『罪』とは何だったのですか?」

何でそんなこと聞いたんだろう?唯一わからなかったことと言えばそうだけれど。

此処は『牢獄』で、僕に与えられた『罰』は『歩きつづけること』。

では僕の『罪』は?
「貴方の『罪』は此処を『牢獄』だと感じて、そして此処を出た後に灰色の地面を見て安堵することです」
緑の紳士は言った。そして彼は『牢獄』の奥へと去り、消えてゆく。
此処を『牢獄』だと感じること?そして『牢獄』を出た後に灰色の地面を見て安堵すること?

それが僕の『罪』だというのか?

(何だよそれ)

僕は大きく1歩踏み出して、『牢獄』を出た。

 

真夏の日差しが照り付けて、灰色のアスファルトの地面が凶悪にぎらつく。

蝉が鳴いている。『牢獄』の中と同じ声音で。同じ声量で。

(帰ってきた)

ほっと一息つく。『牢獄』の中では苦にならなかった汗が、じっとりと身体を濡らす。

ぬるい雫が首筋を這う感触に、僕はゾクリとした。

そしてもう1度、今度は大きく息をついた途端、世界が暗転した。

 

・・・僕は車に乗っている。今日は待ちに待った家族旅行の日だ。

カセットテープから好きな曲が流れている。電子音の嵐。

妹がガムをよこした。受け取って口に入れて噛むと、果物の味がする。

窓の外を眺めながら、僕は視覚と味覚と聴覚以外の感覚を全部無くしたような気分になっていた。

頭の中では電子音の嵐をバックミュージックにして、昨夜見た夢が流れている。

『緑の紳士』、そして『牢獄』。夢らしく、見事なまでにリアリティの欠如した、滅茶苦茶な話だった。

 

・・・車が止まった。僕達は車を降り、歩き始めた。今日は森林散策をする、と父が言っていた。

 

そして、数分後。僕の眼の前に視界から溢れる程の緑の『森』が広がっていた。

其処は、まぎれもなく。

『牢獄』。

僕は誰にも気付かれぬように微笑を浮かべ、足取りも軽く『森』の中へ入っていった。


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