湿気を随分と含んだベッドの中にいた僕の耳は、朝を告げる雨音を敏感に聞きつけた。

絶え間無い水の音がする。きっと霧雨みたいなのに違いない。

僕は夜中の間にぐしゃぐしゃになったブランケットをきつくきつく抱き締め、

顔を押し付けて小さく笑った。

気分は最高。昨晩雨を願って、照る照る坊主を逆さ吊りにしておいたのが良かったらしい。

今日は予定通り、紫陽花狩りだ。

 

薄手のシャツを頭から被り、

適当に掴んだ半ズボンに脚を通し、

木綿の上着を無造作に羽織って、

サイドテーブルに置かれたナイフを手に、僕は家を出た。

傘は、持っていかない。

そんなもの、必要無いからだ。

 

友達と待ち合わせた場所に着く頃には、僕は全身から雫を滴らせていた。

きっと今身体を絞ったら、熟れた果実から滴る蜜のように、雨水が溢れてくるだろう。

そんな事を考えながら待ち合わせ場所に着いた僕は、先に到着していた友達の姿を見て、
遅れたことを謝りもせずに大笑いしてしまった。

「何だよ。遅れて来たのはそっちなのに、挨拶も無しに笑い出すなんて、失礼な奴!」

友達が憮然とした眼差しで僕を睨みつけてきたので、僕は笑顔のまま言ってやった。

「だってさ、今の君の格好を見て、笑わずにいられるわけがないじゃないか」

明らかに大人用の、大きな黒い傘。

それに対して、小さい子供が着るような、黄色い雨合羽。

足には、黒いゴム長靴。

「仕方ないだろ。出かける時に・・・母さんに見つかっちゃったんだ」

友達は言いにくそうに、そして少しだけ言い訳がましく言う。

僕はゆっくりと友達の周りを回って、完全武装のその姿をじっくりと観察した。

「あんまり、見るなよ。僕だって嫌なんだ」

雨に濡れるのは僕達の楽しみの1つ。

なのに友達はそれを満喫できなくて、悲しげな顔で俯いてしまったので、僕は今度こそ謝った。

「ごめん、からかうつもりじゃなかったんだ。さ、行こう!今日はきっといい紫陽花が手に入るよ」

やっと友達が笑顔になったので、僕は歩き出した。

 

その道は細く、例え快晴の日でも薄暗い。

道の両側に立っている大きな木々の枝葉が、屋根のようになっているせいだ。

そんな道だから、今日のような雨の日は、まるで夜明け前のような暗さだった。

でもここを通らないと、紫陽花の咲く、あの古い教会には行けない。

「ねぇ、何色の紫陽花が欲しい?」

僕は隣を歩く友達に尋ねた。友達はしばらく考えてから、

「紫」

とだけ、言った。

「僕は、蒼がいい」

そう言うと友達は、わかってる、というように軽く頷いた。

 

こびり付いた泥のせいで、靴底が平らになった頃、僕達はその古い教会の門の前にいた。

視界の半分以上を、星の数ほど、と錯覚してしまいそうな紫陽花の花が埋め尽くしている。

「ここって・・・こんなに沢山の花、咲いていたっけ」

友達は少し呆然としている様子だ。

僕は濡れて柔らかくなった草を踏みしめ、門の中へ歩き出した。

 

其処はまさしく、紫陽花が全てだった。

赤紫、蒼、薄紫。数え切れない、そして恐らくは僕らが知らない名前の紫と、同じ数だけの緑。

教会の中から聞こえるパイプオルガンの音色が、この場所から現実感を剥ぎ取ってゆくような気がした。

雨水と土と草の匂いに満たされながら、僕達は紫陽花の中を迷っていた。

「蒼が、沢山あるね」

「ああ、数え切れないくらい」

でもこの無数の蒼と紫の中で、僕達が探し求めるものはたった1つなんだ。

そしてそれは、僕達のすぐ目の前に、佇んでいた。

 

例えるならそれは、真夏の日暮れ前の空の色。

彗星の尾の色。

友達の、眼の色。

僕が見たことのある、最も美しい蒼達。

その紫陽花は、それらに勝るとも劣らぬ美しい色をしていた。

息を飲んで目の前の蒼の姿に魅入っている僕に、友達が、

「・・・切らないのか?」

と、声をかけてきた。

僕はしばしの間、黙ってその蒼い紫陽花を見つめていたが、やがてポケットからナイフを取り出した。

そして華奢な茎に指を伸ばし、小さな銀の刃を当てた時、土の上で鳥が鳴いた。

 

「!」

僕は思わず身を引いて、まじまじと地面を見つめた。

紫陽花の下に、雀がいる。

濡れた羽根を休めていたのだろう、僕の顔を黒曜石のような眼で見つめている。

「・・・雨宿りしてたんだね」

僕はナイフをしまうと、頭を振って幾らかの雫を払い、友達を促した。

 

「行こう。別の紫陽花の所に」

「でも・・・あんなに綺麗な蒼い紫陽花、もう無いかもしれないぜ?」

言いながら友達は、何度も何度も蒼い紫陽花を振り返る。しかし僕は、穏やかな心のまま歩き出した。

「いいんだ。あの花は僕のじゃない。あの花を、僕だけのものにはできない」

パイプオルガンの音色は気が付けば止んでいて、雨もその数を減らしていた。

「僕の側にいてくれる蒼は、きっとこの蒼だよ」

僕は手近にあった蒼い紫陽花に無造作にナイフを当てると、それを切り落とした。

腕の中に落ちたそれは、あの紫陽花ほど美しい蒼では無かったけれど。

僕は、満足だった。

 

雨雲が去り、他の星々に先立って月が天に現れた時、僕は狩って来た紫陽花に似合いのリボンを結んであげた。

大きな花は、満足気に僕の腕の中で咲き誇っている。

僕は花瓶に花を渡し、ベッドの上に横たわった。

月光が差し込む窓から、教会の尖塔が見える。

僕は明日、あの蒼い紫陽花にもう1度会いに行こうと思った。


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