何時までも売れない作曲家であり続ける僕を見かねた両親は、

もう幾度と無く音楽を捨てるように忠告してきたけれど、これだけは譲れなかった。

僕にとっての音楽というものは、生活の中に在って然るべきもので、

それが無い、それを持っていないという自分の姿を

想像する事が出来ない。従って優しい両親の忠告にも決して首を縦に振る事無く、僕は今までやってきた。

「先生?何か、考え事でも?」

困り果てた両親の顔がふと思い浮かび、頭の中の彼等と同じ顔をしている僕の耳に突然、

華やかなソプラノの声が囁きかけてきたので、僕は慌てて顔を上げた。

「い、いやッ、失礼ッ!何でもありません、ノエリア!」

今はピアノのレッスンの最中だったのだ。慌てふためく僕を見つめ、綺麗なへーゼルの眼差しが笑う。

売れない作曲家の僕は、とりあえず食い繋ぐ為に、さる令嬢のピアノ教師を務めていた。

ノエリアという名のこの少女は19歳だったが、

まるで僕よりも年上であるかのように振る舞ってみせることがある。

そんな彼女を生意気だと感じる者もいるようだが、両親を早くに亡くし、後見人の力を借りているとは言え、

家の全てを取り仕切っている彼女の立ち居振舞いは、僕にしてみればむしろ賞賛に値するものだった。

そういう訳で、他の同年代の少女達よりも明らかに多忙な彼女の、唯一とも言える自由時間が(彼女に言わせれば)、

僕の週1回のピアノのレッスンらしい。

「いや、本当に申し訳無い。大した事では無いので・・・」

焦った時のいつもの癖で、眼鏡を外して胸ポケットにしまうと、僕はノエリアに微笑みかけた。

「相変わらず素晴らしい演奏でしたよ。第2楽章はもう、終わりにしてもいいかもしれないな」

おもむろに楽譜を手に取り、細かな音符達に目を走らせる。

妙に緊張してギクシャクとした僕の様子が余程におかしかったのか、

ノエリアは口元に白い手を当てて笑った。

「ふふふ・・・先生ったら、何もそんなに焦らなくてもよろしいのに。

私、別に先生が今の演奏を聞いていなかった、なんて、決して思っていませんわよ」

勿論、演奏はきちんと聞いていた。

それなのに妙な罪悪感(と言うほど重たいものでも無いのかもしれないけれど)が僕を突き回し、

僕は2度3度咳払いをした。

「と、とにかく!次回からは新しい曲の練習を始めましょう。次は、何がいいかな・・・」

まだ笑う事を止めない令嬢に、僕は苦笑いして立ち上がると、ピアノの蓋に手をかけた。

「ねぇ、先生?新しい曲決めの前に、お願いしたい事があるのですけれども、構いませんか?」

僕が黒い蓋を閉めると、優雅な動きで立ち上がった彼女が言った。

「お願いしたい事・・・何でしょうか?」

いぶかしむ僕に、ノエリアは魅惑的な笑顔で答える。

「先生が、きっとお喜びになるお話ですわ」

 

ノエリアの話は非常に奇妙で、何所か不吉で、それでいて彼女の言う通り、

僕にとっては非常に魅力的なものだった。

それは、ある老人の遺言を聞き届けて欲しい、というものだった。

「その方は、ピアニストで、作曲家でもある御方なのです」

ピアニストで作曲家と言えば、僕の同業者だ。もしかしたら名前を知っているかもしれないと思った僕は、

彼女に尋ねてみた。

「お名前ですか?メレニス・バーントフリック氏と仰いますけど・・・ご存知かしら?」

僕は知らなかった。ノエリア曰く、決して有名な人物ではなかったらしい。

相当な変わり者で、自分の言いたい事は全て音楽で伝えたと言う。

しかも、気に入った人間の為にしか、音楽を作らなかったと言う。

「言いたい事をピアノで?それでは、どうやって他人と意思疎通を?」

僕にしてみれば、想像し難い話だ。そのメレニス氏は、まるで狂人のように思える。

「メレニス氏にとって、音楽は言語なのです。だから最初は皆不安に思うけれど、彼が演奏すると、

不思議とその意思を汲み取る事が出来たのです」

そう言ってノエリアは、レモンティーを一口飲んだ。

「メレニス氏の音楽は、ピアノだけで演奏される曲なのです。私も一曲作って頂いたのですけれど、

とても綺麗な曲ですのよ」

それは初耳だった。聞けばノエリアの祖父母の代から交流があったらしい。

「祖父も、祖母も、父も、母も、皆メレニス氏に音楽を作って頂いたそうです。私も、生まれた時に」

ノエリアは寂しげだった。

肉親のいない彼女にとって、恐らくそのメレニス氏は、もう1人の祖父のような人だったのだろう。

「そのメレニス氏の遺言を・・・どうして僕が?」

出来る限り彼女を気遣いながら、僕は改めて尋ねた。

「彼が遺言として残した曲の意味を、未だ誰も理解出来ていないのです」

そしてノエリアは一呼吸置いて呟いた。

「だから・・・メレニス氏はまだ、棺に入る事が出来ないのです」

 

昔から自分は、想像力は人よりも豊かだと信じてきた。そのお陰で悪夢に怯えた事もあったが、

楽しい事も人一倍考えていたと思う。

しかし今、石畳の道を歩きながら僕は、自分の想像が及ばない事実に直面していた。

先刻の、教え子との会話が脳裏に蘇る。

 

「・・・どういう事です・・・?」

ノエリアの白い頬が、心なしか青ざめて見えた。

「メレニス氏は、もうとうの昔に亡くなっているのです。

それなのに、最後に伝えたい音楽を誰も分かってくれないから、ピアノの側を離れられないでいる」

ノエリアを彩っているのは恐怖では無く、ひどく純粋な悲しみだ。

「お願いです、先生。メレニス氏の遺言を聴いてみてください。

もしかしたら、貴方なら・・・」

へーゼルの眼差しが、僕を射抜く。その煌きを忘れぬ内に、僕は彼女の家を出た。

 

「僕が喜ぶ、か・・・」

確かにその通りだ。僕の心は今、未知の事実を目前にして、とても高揚している。

ノエリアに教えられた黒い門へ1歩、また1歩と近付く度に、心拍数が上昇し、

怯えと好奇心がないまぜになった震えが身体を駆け抜けた。

やがて僕の足は黒い門へ至り、それを乗り越え、僕の手はその背後の薄暗い大きな屋敷に入る為、

古い扉のくすんだ銀色のノッカーを握った。

2度、叩く。

古い扉を開けて出迎えてくれたのは、真新しい空色のドレスに身を包んだ少女だった。

「どなた?」

亜麻色の髪がとても綺麗な少女だった。ドレスとお揃いの布地で作られたリボンが、

優しく髪を結んでいる。

僕は眼鏡を外すと、ノエリアの名前を告げ、メレニス氏の遺言を聴かせて欲しい、と頼んだ。

「ああ、貴方がノエリアのピアノの先生なのね!お待ちしていました!」

彼女の眼はそのドレスよりも澄んだ、鮮やかなアイスブルーだった。

「どうか、どうか、早く音楽室へ!おじい様の遺言を聴いて差し上げて・・・!」

一条の希望に輝いた眼が、次の瞬間悲しみに揺れる。まるで万華鏡の如くに姿を変える眼から零れ落ちて、

桜色の頬を伝う涙にそっとハンカチを差し出すと、僕は屋敷の中に足を踏み入れた。

 

「お話はノエリア嬢から伺っております、クレイランさん」

久しく呼ばれた事の無かったファミリー・ネームに戸惑いながらも、僕はメレニス・バーントフリック氏の息子、

カボーニ・バーントフリック氏と握手を交わした。

「初めまして。お会い出来て光栄です、カボーニさん」

彼は恰幅の良い紳士だった。恐らくその表情は、普段ならば自信と生気に満ち溢れ、

多くの人を魅了するのだろう。

だが彼は今、とても疲れているといった様子だった。

「父は音楽室のピアノの前にいます。ご存知だとは思いますが、言葉を交わす事は出来ません。

貴方はただ、ピアノの左側に置かれている白い椅子に座ってください。

そうすれば父は、遺言の演奏を始めるでしょう・・・」

そして彼は長い間僕の手を握っていた。彼が本当に苦悩しているのだという事、

そしてとても大きな悲しみが彼の心を占めているのだという事、

とにかく早く父親に眠って欲しいのだという事(決して邪悪な目的の為ではなく、

彼の最愛の家族の安らぎの為に)。

何もかも全てが彼の大きな手を介して僕に伝えられた。

「父が死んだのは、もう3ヶ月も前なのです」

それだけ言うと彼は、左手で目頭を押さえて、震える右手で音楽室を指差した。

 

「失礼します」

音楽室の重い扉を開いて、薄暗い部屋に足を踏み入れた。

3ヶ月前に死んだはずの音楽家は、穏やかな顔でピアノの前に座っていた。

僕はこの部屋に来る前、死んだ音楽家の様々な姿を思い浮かべていた・・・腐敗して崩れている老人、

憐れなほどに青ざめて痩せた老人、いっそ天使のような姿(一応断っておくが、

僕は別に天使を見たことは無い)の老人、

いや、或いは姿は見えないかもしれない・・・とも。

しかしそのどれも彼の真実の姿には当てはまらなかった。

彼は多分生きていた頃のままだった。穏やかな笑顔も、きっと。

僕は言われた通りに、ピアノの左側の白い椅子に腰掛けた。

老人はゆっくりと鍵盤に指を置くと、もう何度も演奏したに違いない遺言を奏で始めた。

 

その音楽を、僕は正確に語る事は出来ない。

 

ただ眩かった。老人の姿は、第1の音が鳴り響いた瞬間に掻き消え(つまりは、僕の眼には見えなくなって)、

後はピアノの音だけが部屋に君臨していた。そう、その音楽は言わば支配者だった。

絶対的な存在など決してこの世にありはしないと僕は常日頃から思っていたけれど、

今この瞬間、今この時間だけは、僕はある偉大な音楽に隷属した。

だがしかし、それは音楽の領域を超えることはしなかった。

音楽それ自体は美しく、劇的だった。

しかしその音楽は僕の中から僕が持つあらゆるものを引きずり出し、目の前に並べて見せた。

形無きそれらは今となっては僕の中では光としか言いようが無く、

これまでのように感じ取る事の出来ないまま、僕がそれらに気付く事の無かった時のままの姿で

僕の内に戻っていったが、今の僕はピアノに触れればそれらをまた引き出すことが出来るだろう。

敢えてそれらを言葉で表せと言うのなら、僕はそれらを普段人々が無意識だとか深層心理だとか、

そういう部分にあるものだと語る、例えば夢の材料、実体験を超えた、自分以外の誰にも分からない、

恐らくそれ自体を知る事無く生きてゆくものだと言う。この言い方が正しいのかどうかは分からないけれども。

 

全てが終わった時、老音楽家は僕を見つめていた。僕は彼の遺言を確かに聞き届け、それを理解したのだ。

だがそれは他者に伝える事の出来るものでは無く、僕と彼の間でのみ有効な言語だった。

しかし彼が死んだ今、この音楽を知り、その音を感じ取る事が出来るのは僕だけなのだという

特権的な確信が、僕を高ぶらせていた。

僕はようやく死者となった老人の身体を抱き締め、確かに彼の伝えたかったものを受け取った事を、

そして至上の幸福を与えてくれた彼に感謝する言葉を囁いた。

 

音楽室を出ると、老人の家族達が僕を待っていた。

「クレイランさん、父は・・・」

カボーニ氏の声に、僕は穏やかに微笑むと、遺言を確かに受け取った旨を伝えた。

「おじい様は、何と?」

空色のドレスの少女が、遠慮がちに僕に尋ねた。

「申し訳ありません。僕はそれを言葉で伝える事は出来ないのです」

ふいに涙が溢れてきた。その涙を何か別の意味に感じ取った少女が、落胆した声で言った。

「では、貴方も遺言を理解出来なかったのね・・・」

「いいえ!」

僕は即座に否定した。家族達が驚く。

「僕は、僕は彼の遺言を受け取りました。そう、僕は遺言を受け取ったのです!そして、理解しました!」

涙を拭う事もせず、僕は音楽家の家を後にした。

彼が僕に伝えてくれたもの、それをそのまま他者に伝えることは出来ない。

だが僕は確かに彼の遺言を聴き、確信を得た。

飛ぶように我が家を目指す僕の頭の中で、音楽が氾濫していた。

 

その後僕は、売れない作曲家では無くなった。老音楽家が僕に残してくれたものは、僕に新たな音楽を与え、

それらは尽きる事無く僕の内から生み出されていった。

今日もまた万来の拍手に包まれながら、僕は若き日のメレニスに思いを馳せた。

 

彼はこの場所に立ち、何を思っていたのだろう?

この中に、彼の音楽を理解出来た者は、本当に1人もいなかったのだろうか?

いなかったのだ。

だから、僕が此処に立っているのだ。

 

いつか僕が死ぬ日が来たら、僕はきっと遺言を残すだろう。

そうしてそれを本当に理解してくれる人が現れるまで、僕はピアノの前を動かずにいるに違いない。

死ぬ事も、しないで。


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