・・・魔術師という人種ほど、付き合いにくい連中はいない。
彼等は自分の世界の中で、自分の定めた法の下、自分が王として君臨する。
この話は、その魔術師に対する悪戯心が引き金になって、
取り返しの付かない事態を引き起こしたという、良い例。
兄さんの研究室はいつも鍵がかかっているのに、今日に限っては何故か本1冊分の隙間が開いていた。
僕にしてみれば、その隙間は楽園の門。
おいでおいでと優しく手招きする誰かがその奥に見えると、本気で思った。
(鍵を掛け忘れた兄さんが悪い。扉が開いているということは、入って良いということ)
僕は躊躇うことなく扉を開き、異国の薬草と古い本と魔法の匂いがする部屋の空気を肺の8分目まで吸い込んだ。
受け入れたことの無いものに体内が侵されてゆくのが何とも言えず嬉しくて、僕は声を出さずに笑う。
それはつまり微笑むということ。
(思ったとおり。ここは秘密の部屋だ。兄さんは、僕にこんなに沢山の秘密を持っていたんだ)
兄さんは卑怯だと思う。僕のことは何でも尋ねる。それは僕が何でも答えるということを知っているからだ。
兄さんは自分のことは何も言わない。僕が尋ねても。
「お前には関係の無いことだ」
掌に乗せられて、良く通る声でこう言われて、光の少ない黒い眼で見つめられれば、
僕が沈黙することをあの人はよく、知っている。卑怯者だ。世界一の。
(兄さんは身体が大きい。僕は小さい。僕は極端に小さい。その小ささといえば、兄さんの掌に乗ってしまうほど)
「あ、人間の骨だ」
大きな机の上に横たえられた、人間の上半身の骨を見つけた。下半身は砕け散り、
原型を留めない白い粉になっている。文字通り、粉砕されたという感じだ。
「兄さんの骨・・・じゃないよね」
兄さんは今日僕と一緒に朝食を食べた。
半熟卵、黒パン、ミルクティー、ポテトサラダ、フルーツ入りのヨーグルト。チーズは僕が貰った。
それが2時間前だ。兄さんは2時間で骨になったりしない。
「誰の骨だろう?」
僕は肋骨の1本に手をかけ、骨と骨の隙間を通った。流石に少々狭くて苦労したが、
何とか背骨の上に降りる。
「んん・・・ごつごつしている。カラッカラだし。つまらないな」
寝転がってみれば痛い。立ちあがろうにも高さが足りない。
僕は奇妙な格好で、そうまるで檻の中に閉じ込められた猿のようになっていた。
「そろそろ出ようかな?」
僕が隙間に手を伸ばすと、フッと頭上に影が下りた。
「!」
声無き悲鳴を上げ、僕は上を見上げた。空に2つの黒い太陽。違う。兄さんの眼!
「何をしている?」
兄さんの声が仕掛け天井のように僕を押し潰す。迷宮の探検家のような気分で、僕は答えた。
「骨の中に居る・・・」
声が上ずってしまって、恥ずかしくて、怖い。
「ここに入るな、と言われる場所は、入ったら出られなくなるからそう言われるんだぞ?」
兄さんが長い指を伸ばしてきたので、僕は震える手でその指を掴んだ。
兄さんが指を引く。僕の身体は肋骨の隙間にはまり込み、外には至らない。
「助けて、兄さん」
今まで後悔したことは無かった。僕がした全ての悪戯は必ず最後には許されたし、
過ちは瞬間的なものでしかなく、長続きするようなものじゃなかった。
でも今は。
「助けて、兄さん」
指を離したら、それで終わりだ。僕は必死に兄さんの指を掴んでいた。
乾いた肋骨の硬さが僕の身体を締め付ける。苦しい。
浅い呼吸を繰り返し、僕はただ兄さんに許しを請う。
「わかった」
そう言うと兄さんは、もう片方の手を近づけてきた。助かる!助けてもらえる!
「骨を簡単に砕く方法を教えようか」
兄さんが言った。
「え・・・?」
呆気に取られる僕の目の前で、近付いてくる手の、人差し指と中指の先が、紅く光り出す。
熱を帯びている色だ。
「兄さん・・・」
紅く発光する指が、横たわる肋骨に触れた。チリチリという、嫌な音が細い煙と一緒に立ち上る。
「焼くんだ」
『だ』が発音された直後、僕を閉じ込めていた骨が燃え上がった。中に居た僕も、一緒に。